第3話

悟くんと出会った夜から、一週間が過ぎた。 


「あぢぃ」

 今日起きてから、ずっと言い続けている言葉。正しくは『暑い』と言うべきなのだろうが、『あぢぃ』はこのやる気を削ぐような気温にぴったりの言葉だ。


 先週、籠城生活が親にバレてからは、資金節約のためエアコンは使っていなかった。そのため、窓全開・パンツ一丁という完全態勢で、床のフローリングの冷たさを貪るように横たわっていた。


 僕の頬の下には、広げたバイト求人雑誌が敷いてある。先週、コンビニで見つけたものだ。だが、夏休み期間は学生どももバイト界に参戦してくるため、夏中頃の今も求人しているバイトは残飯のような残り物だけだ。スーパーの夜の巡回は、給料を見て一瞬良いと思いかけたが、やめた。生粋の怖がりの僕が、一人、闇の中で正気を保っていられるはずがない。ああ、誰か、明るくて、安全で、涼しくて楽しいバイトを紹介してくれ。


 そんなふざけたことを考えていたその時、玄関のドアが激しく叩かれた。その音は止むことなく、徐々に大きくなっていく。


「はいはい、今出ます!」

 僕は起き上がると、近くにあった大きめのバスタオルを咄嗟とっさに羽織り、玄関へ向かう。流石にパンツ一枚で出るわけにはいかない。しかしうるさいものだ。インターホンを押せば良いものを。外履きを突っ掛けながらドアを開ける。


 だが、驚いたことに、ドアの先には誰も居なかった。外にいるのかと玄関から踏み出そうとした時、下から声が聞こえた。


「ここ!ここだよ」


 驚いて足元を見ると、そこには悟くんが立っていた。だが、驚いたのは僕だけでは無いらしく、彼も僕の奇抜なファッションを見て目を見開いていた。


「おにいさんもいくの?」

「え? どこに?」


 悟くん、一瞬の沈黙。玄関にアブラゼミの鳴き声だけが響く。


 「やった! おそろいだぁ!」

 彼はいきなりそう叫ぶと、玄関先にも拘らず、着ていたTシャツとズボンを脱ぎ出した。


 「ちょ、ちょっと待て!」

 僕は急いで止めにかかる。彼から脱ぎ始めたとはいえ、こんなところを見られたら通報騒ぎになってしまう。赤色灯に照らされ、僕がパトカーへ乗る様子がありありと目に浮かぶ。


 だが、遅かった。もう彼のズボンは足首まで下されていた。僕は目を覆いながら叫ぶ。

「早く履いてくれ! 色々とまずいんだ!」

「え? はいてるよ?」

「それはパンツだろ! ズボンを履け!」


 だが彼はお構いなしだ。そのまま玄関から出ていく足音がした。すぐ側でビニール袋を弄る音がして、彼が戻ってきた。


「ほら! おそろい!」

「だから──!」

 目を瞑ったまま僕が叫びかけた時、彼がそれを遮った。

「ぷーるにいくんでしょ?」


 脳内で復唱した。

 

 ぷーる? ぷーる……プール!?


 そうか、そういうことなのか? 覚悟を決め、ゆっくり目を開くとそこには、黄色い水泳帽に、青いラッシュガードと水泳パンツを着た悟くんがいた。どうやら、僕のボクサーパンツを見て、水着に着替えていたと勘違いしたらしい。だが、僕はプールに行くつもりも無ければ遊ぶ金も無い。何とかして誤解を解かなければ。


「ぼくも、ぷーるにいくところなんだよね」

 悟くんが下を向いて、もじもじとしながら言う。小さい頃、父さんが久々に遊んでくれた時の僕の動きにそっくりだ。つまり、嬉しいのだろう。だが……


「そうか。でもな、僕はプールに行けないんだ。仕事があるから」

 大人だからこそできる言い訳。大抵の子供は、ここで引き下がってくれる。少し……いや、かなり良心は痛むが、節約のためだ。仕方がない!


「なんで? おしごとしてないんでしょ?」


 背中に冷や汗が流れた。こ、この小僧。なぜそれを知っているのだ!? 一週間前に少し話しただけなのに……。


 僕が固まったのを見て、悟くんはジト目で顔を覗き込んでくる。

「ぼく、ずーっとおうちにいたからしってるんだよ。あれからいっかいも、おにいさんがそとにでてないってこと。どあのおとがしなかったもん」


 そんなストーカー紛いのことを……って、どれだけ暇なんだよ。どう言い訳しようか……? 家でできる仕事とでも言っておくか? だが、話がこれ以上ややこしくなるのは御免だ。話を逸らそう。


「そんなに行きたいなら、お母さんと行けば良いじゃないか」

 だが、これが思いもよらぬ、僕へのダメージとなってしまうのだった。


「ままは、おとといからいないんだ」

「一昨日? 何で?」

「お仕事が忙しいからって」

「ずっと一人で留守番してたってことか?」

 悟くんは頷いた。


「それで、さびしくなって、おにいさんとあそぼうとおもったんだけど……。やっぱり、おにいさんもいそがしいよね」


 悟くんは俯いた。その姿には、見覚えがあって、何故かこっちまで悲しくなってきた。


 そうだ。この姿は、小さい頃の僕そっくりだ。僕の父さんは休日も働いていて、遊びに連れていってくれることが滅多になかった。でも、仕事が大事なことが分かっていたから、僕はいつも、父を見送る玄関で俯くことしかできなかったのだ。だから、近所の親子が羨ましくて、車で出かけるよその一家を窓にはりついて見ていたんだっけ。


 それでも、僕の家には母さんがいた。でも、悟くんはずっと一人だ。何もせずに暮れていく休日の虚しさは、僕もよく知っている。


「じゃあ、おじゃましました」

 悟くんがそのままお辞儀をして、帰ろうとする。僕は急いで呼びかけた。


「行こう。プールに」


 悟くんは一瞬キョトンとして僕の目を見た後、目を見開いた。

「いいの?」

「ああ。僕も暑くて仕方なかったんだ」


 その瞬間、彼は飛び上がって喜んだ。ここまで嬉々と輝く笑顔を、僕は見たことがあっただろうか。


「おーい。一旦落ち着け。怪我したら行けなくなるぞ」

 彼はおどけたような顔をして、そうだね、といたずらっぽく笑ってみせた。その表情がなんだかおかしくて、僕も吹き出してしまい、結局二人で腹の底から笑ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る