第38話 静止の世界

 倫弥は穴の向こうにいた。そこは目が慣れることがない闇、終わりのない闇、どこまでも闇、つぶる目さえない。そして、音もない、ノイズも耳鳴りも、呼吸音も、臓器があったとすれば、臓器が活動する音さえも聞こえない。ここは人体の活動は必要としない、だが、人の形の感覚と思考と五感は残されたままである。目があるが見えず、耳があるが聞こえず。味も匂いも触れるものさえない。五感はあるが何も感じることができない。月も星もない夜の森に置き去りにされるような、夜の海に深く深く深く潜るような。それが限りない広がりを持ち、延々と続く。ここにしかない恐怖。伝えられない恐怖。


 ここに居る。できるのはそれだけ。この恐怖の中で。完全なる静止の世界で。これが神と言うのならば、きっと信じてしまうだろう。この恐怖には順応できない。最初の感覚を味わい続けるのだ。最初に感じた恐怖を。思考と感覚を壊してほしい、そう願う。やがて、人であった感覚はなくなり、砕かれた、粉砕された鉱物のようになる。残るのは意識。こちらの世界での始まりはいつもこう。


 そうして次に見えてくる世界。始まりの世界とでもいうのだろうか。ここも神なのか。波一つない海の上、丸くないであろう水平線、上も下も限りなし、生きている声が聞こえない、あたたかみのない世界、有機的な無機質。ここも救いがない。


 潜る。飛ぶ。進む。何でもできるか、何をしても変化はない。変化が起こる気配さえない。動くことの無意味さを思い知る。やがて、からだの感覚は取り戻せる。取り戻そうと思えば。意思も働く。ここもまだ静止の世界。動かすのは自分自身。


 意思を働かせる。心を働かせる。心は息を吹き返す。心はなにかを求め始める。

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