No Good の里

          影の木の梅雨空動き鯉になる


 ここ六甲山のふもと周辺では、今年は、この十何年間の中でも一番梅雨らしい梅雨が続いているように思います。近年の梅雨ときたら、亜熱帯気候のスコールさながらに、ドーッと襲いかかって来ては逃げて行く、の繰り返しばかりで、地球はどうなってしまったんだと身をもって痛感させられて来ましたが、今年の梅雨はカタツムリやアマガエルに囲まれて遊んでいた友未の子供時代の、しとしとと降り続き、止み間には時折、霞もかかる趣で帰って来てくれています。梅雨はやはりこうでなくては …

 家の近くに、感じの良い日本庭園風のひと気のない公園があり、吾妻屋つきの池があります。水面の一隅がほとりの木の影を宿し、梢の間には梅雨の曇天が映っています。ふと水影が動き、鯉が一匹現れて泳いで行きました。梅雨空の化身のようです。


 No Goodの里へのご寄稿、ありがとうございます。今回は9編の短編にお集り頂けました。シリアスなものやおバカなもの、ハードボイルドあり、童心ありのバラエティー豊かな内容でした。

 という訳で(文章のつなぎ方がちょっと変!?)、今回は最初に友未の大好きなおバカ作品をご紹介いたしましょう。


 ∮ 紳士は語る/乙枯さま は、紳士が語ります。何を騙る、いえ、語るつもりなのか?タイトルをそのまま引用させて頂きますと、一話目は「絶対領域を語る」、二話目は「退屈を語る」、最後は「節制を語る」です。確かにこの紳士、紳士らしい矜持に満ちた紳士語で論理的に熱弁を振るわれており、その点では立派なのですが、惜しむらくはヘ✖✖✖さんかも。いえ、差別ではなく、一話目と二話目には、乙枯さまご自身の「変態紳士は語る」という大見出しが付いておりますので … 「よろしいですかな、紳士諸君?」一話目の最初の方にはこうありました。「御婦人がスカートを履いて身体を前に屈める様を御想像なさい。そしてその様子を後ろから見るとどうなるか、少しばかり考えてごらんなさい。/ 御婦人が身体を前に屈めていくにつれ、スカートの裾は引っ張り上げられていくことでしょう。丈の短すぎるスカートが裾を引っ張り上げられていけば、その内に秘めたる下着を露あらわにしてしまうことは必定。それではスカートはスカートたる役目を果たす事など出来ますまい。」非常に正しい指摘ですし、これだけでは別に変態ではない生真面目な紳士がスカート丈の短さや御婦人方の不注意をたしなめているだけのように思えましたので、単純に笑っていたのですが、大間違い。彼が憤っていたのはパンツが見える事自体ではなく、「絶対領域」がないがしろにされている現状だったのです。曰く、「嗚呼、見えてはいけない太腿が見えちゃっているねえ。危ないねえ。気を付けないとパンツが見えちゃうよぉ?・・・と、紳士諸兄の庇護欲を否応もなく掻き立てる。それこそが真の絶対領域なのであります。」「にもかかわらず、太腿さえ露わになっていれば十把一絡に「絶対領域」と呼んで持て囃すなど、品位ある紳士のすることではありません。それは、絶対領域ならざる太腿に対する冒涜にも等しい。」とのことでありました。この紳士、太腿フェチならぬパンチラフェチだったのか!?二話目は全三話中、最も哲学的で、日常意識をくつがえされる衝撃の主張でした。「吾輩は思うのです。何故、紳士たるものが「退屈」を愛でないのかと。」「森羅万象を理解し、それを愛でんとする求道者たる紳士が「退屈」を愛でぬとは不可解ではありませんかな?」この発言を目にした瞬間、友未は思わず立ち上がって「そうだ!」と拍手したくなりました。ですが、直後に、「退屈」を女性名詞と見做してその振る舞いに「萌えてくるものがある」と怪しい発言がなされていましたので、感動するのはとりあえず見合わせておきました。この「節制を語る」の中には「乃公だいこう出ずんば蒼生を如何せん」とか、「退屈は絶望の腹違いの姉妹である」といった名言や警句が引かれていて、眺めているだけで賢くなれます。第三話「節制を語る」は、「変態紳士」ではなく「酔いどれ紳士」の呈する酒についてのですが、友未はあいにく右党のため、「だいたいですな、酒に飲まれるなとか言うような輩はですな、酒に何ぞ酔わんでもいい人間なのです。酒が無くても生きていける人間なのです。// わかりますか?/そういう輩は結婚する気もないのに婦女子に遊びでちょっかいを出す不届き者と同じなのですぞ!?/酒を愛してなぞおらんのです!!」という主張であったことだけご報告しておきます。


 ∮ まえぶれ/クニシマ様 はそれとは真逆に位置するシリアスな感動作です。読む者の心に擦り傷を残さずにはおかない純文学で、ラストではあまりの切なさに、泣き笑いするしかなくなってしまいました。哀し過ぎるのに胸が熱くなるのを抑えきれません。冒頭からいきなり苛烈な文章が主人公の男に容赦なく襲い掛かって来ます。「晴れた空がおれをじろじろ見るせいで歩けなくなった。ちょうど、いくつもの鳥の糞が白くこびりついたベンチがあったから、その背もたれにしがみつく。目を強くつむると頭ばかり痛んで涙が出た。空が青すぎる。そのうえ雲は白すぎるのだ。こんな空の下では生きていかれない。」男は心を病んでおり、子供の遣いそのままに、渡されたメモ通りの買い物をして、吐き気を催しながら炎天下を辿っています。魂を圧し潰され、年老いた両親に保護され続けるほかない初老の「おれ」。吐くまいと目を泳がすと小さな公園が目に留まり、のきたブランコに、子供がひとり座ってゲーム機をいじっていました。少年は女学生が履くようなロングスカートを履いています。姿勢の悪い男が公園に入ってきて、金をやるからそのスカートを脱いでよこせとか言っているようですが、少年は耳を貸す風もなく、なぜか男の後ろにいるおれだけをじっと見つめていました。男に何かを言おうと開いたおれの口から、言葉の代わりに胃液にまみれた朝食が吐き出されて男の背にかかり、驚いた男は捨て台詞で立ち去ります。手を叩いて笑い転げ、あの人いっつもここに来るんだと言う少年。「うがい、したほうがいいよ」と隅の公衆トイレを指差しました。以来、ふたりは時折会うようになります。「彼は近所のアパートに住んでいる小学生で、シャツは父親の、スカートは姉のお下がり、ゲーム機は友人からの借り物」で「彼の不幸せとはそのまま貧乏であることを指しているらしく、金のあるところに不幸は存在しないというのがおそらくは彼にとっての真実であった。」ある日、老いた母が腰の骨を折り、それ以上耐えられなくなったおれは台所の隅にうずくまってしまいます。「油臭い埃の中、父に背をなでさすられながら、死にたいのだとそれだけ言った。恐ろしい、恐ろしくてたまらないのだ。このまま母が、そして父がいなくなったとき、おれはひとりきりになって、それでどうやって生きていけるというのか。」。いたたまれなくなって家を出たその足は少年の住むアパートの前に向きました。ランドセルを背負ってアパートの外階段の一番下の段に座り込み漫画を読んでいた少年はこちらに気づくと、どうしたの、と鈴を転がすような声でききました。「しかし乾燥しきった口の端から漏れたのはたったの一言、つらいんだ、というそれだけだった。」「ちょっと待ってて」と言い残し、少年はスカート姿でどこかへ駆けて行きます。「おじさん、」帰って来た彼が差し出したのは三枚の皺だらけの汚い千円札でした。少年はスカートを付けていませんでした。

 全編を通してストレートに、無造作に投げつけられる言葉たちの凄まじい表現力に圧倒されます。「換気扇の回る音が大きく聞こえていた。」「伸びきった電柱の影がおれにのしかかっている。」など、挟まれる一句一句も、また、真に迫って来ました。中ほど、「あるとき」の時系列的なや、「アパートの前へまで」など、細部では粗削りな箇所も残されているような気はしたものの、そうしたタッチのすさみさえ魅力に変えてしまうほどの表現力の激しさです。もはや支えるものがない断崖に置かれた男の前に突き出された、不幸をそれで贖えると信じる少年の三千円。切なく、痛みに満ちた悲喜劇です。


 ∮ テセウスの船は、同一性に関する有名なパラドクスで、ある舟が少しずつパーツを取り替えられて行き、やがて完全に置き替えられてしまっても、それを元の舟と呼べるのかどうかという問いかけです。小説やドラマでもしばしばとりあげられることのある命題ですので、ご存じの方も多いのではないかと思います。

 島流しにされた男爵イモ 様のノワール小説、「ケダモノたちの手慰み」では、このテーマが非常に巧みに女主人公の内面に取り込まれており、この暗黒小説に衝撃の余韻をもたらしました。

 佐伯柚希(さえきゆずき)二十五歳は、内縁関係にあった夫、三島広司(みしまこうじ)を二ヶ月前に事故で失い、酒浸りの日々を送っていた。彼は自宅に帰る途中、泥酔して駅のホームから転落したのだ。だが、柚希は夫が殺されたのだと気付いている。広司は酒を一滴も飲めなかった。「広司には数え切れないほどの犯罪歴がある。中学の頃に道を違えて以来、殺人と強姦以外の大抵のことはしている。有り体に言えばクズだ。関係する人間は容易に想像がつく。類は友を呼ぶ。」「夫は常日頃から「グループを抜けたい」と口にしていた。一度道を外れた者は、絶対にもといた場所には戻れない。」目撃証人は広司のつるんでいた半グレの二人だけ。柚希は、夫が昔つるんでいた福建フージェンマフィア崩れの探偵、陳兆銘(チェンジャオミン)の力を借りて、目撃証人のひとり、県警本部長の息子、新里昭二十九歳が主犯であることを知り、襲撃して射殺する … という、文体、情景共に極めてハードボイルドな物語です。アクション的には最後の襲撃シーンを山場だと見ることもできますが、そこに至る全てのシーンや心理描写にもそれに劣らぬ退廃美や迫力があり、のみならず、ラストの数行で、人間というものの軽さが突然浮き上がって来て、読む者の心まで虚しくしていくような幕切れになっていたのが驚きでした。

 最初の章で語られる広司への柚希の想い。「世間からすれば、広司は救いようのない人間。それでも自分にとっては最愛の人で、唯一の希望だった。」「彼への好意は、邪なものではないと佐伯は自負していた。/自己陶酔でもなければ、庇護欲を掻き立てられたわけでも、売名行為でもない。夫の半生に、自らと通ずるものを見たのだ。皆に捨てられ、孤独に理解者を待つ姿を。」なのに、第三章で発せられたテセウスの問いが物語を秘かに蝕みはじめていたのだと、読み終えた瞬間、思い知らされました。「——なあ、柚希。もし俺が真っ当な人間になったら、それは俺だと思う?」

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