いたずらの里 第1回

この数日、清々しい秋晴れの日が続き、わが家の猫たちもほぼ半日まるまる庭に出してもらえてご満悦です。それと入れ替わるように顔なじみの庭猫が部屋に入って来て、今も大きな顔をしてクローゼットの特等席で居眠りしています。ひとり、「元気」という五歳の猫が1週間以上帰って来ていませんが、よく甘えるくせに以前から放浪癖のある子で、去年も三ヵ月ほど戻って来なかったことがあったので、それほど心配はしていません。本当に素晴らしい季節になりました(10月2日現在)。


 さて、今回の企画には8名の皆様のご参加を頂きました。友未的にはとても楽しみにしていたテーマであり、30篇くらいはご寄稿頂けるものと期待していただけに、意外な反響の少なさに少し寂しい思いをしています。 … そうですね、今でも、皆様、いたずらは大好きなはずだと信じているのですが、単に間が悪かっただけなのか、はたまた別の要因が絡んでいるのか …

 とはいえ、そんな状況の中で、今回も奇跡的に、「そう!こういう作品が読みたかったばかりにこの企画を立てたんだ!」と跳び上がりたくなった一つの作品との出会いがありました。来冬こと邦子くにこさまの「ゴーヤ峠の山姥」というお話です。普通、「いたずら」とか、「お茶目」とか言っても、その捉え方は人それぞれ、千差万別ですので、友未も、「自分のねらいとは違うがこういう『いたずら』があっても面白いのではないか」とか「自分の語感からはかけ離れた『いたずら』作品があるかもしれない」と予め予想していますし、実際、他の企画の場合でも、これこそ自分の読みたかった作品そのものだとズバリ言い切れるお話は極めて稀なのですが、「ゴーヤ峠の山姥」はまさに100%そうだと断言し切れる友未好みのお話でした。形としては主人公である「私」が、山ガールになった孫の莉乃りのへの戒め(どこが!?)として書き記す五十年ほど昔の体験談で、当時小学校六年生だった「私」が、周囲の山村の人々から暗黙のうちに忌み怖れられている禁断の山、苦瓜にがうり噛潰かみつぶしだけに無謀にも単身わけ昇って行く身も凍る(どこが!?)伝奇譚です。のっけから「なんで苦瓜なんじゃ」と笑わされ、「よっつ」(第四章)でも「なんでカピバラなんだ」(他の作品からも、この作者は熱烈なカピバラ・ファンのようです)と吹き出してしまうような雰囲気が全篇に溢れています。全体としてきちんと筋は通っており、個々の場面もテンポよく活写されてはいるのですが、「この村で、その名を口にしてはならぬぅ、ぐはあ」と言い残し、ばあさんは白目を剥いて、死んだふりをした」(「ふたつ」= 第二章より)とか、至るところにおバカないたずらが溢れており、とりわけ「よっつ」(第四章)の不思議の国のアリスのようなナンセンスな可笑しさや、ゴーヤネズミの「チャンプるー」の可愛らしさは特筆すべきものでしょう!ラストでもしっかり落としてくれています。このお話の持つただの「おふざけ」を越えた手応えこそ、「いたずら」と「お茶目」の力ではないかと思います。ちょうど、遊んで欲しい子猫が二、三度ネコパンチで誘って来るように、作者が自分でもクスクス笑いながら「遊ぼ」と読者に呼びかけて来る愉しさが我が意を得たりの逸作でした。なお、企画とは直接関係はありませんが、来冬さまには「俳句スイッチ」という無茶苦茶楽しい俳句奮戦記があり、俳句を書かれない方々にもこの場を借りて是非お薦めしておきたくなりました。


 もう一つ、こちらもいたずら一杯で、ご参加いただけて本当に心強かったのが崇期さまの「僕たちの救急車もいつか空を飛べるのかな」でした。崇期さまは「笑いのヒトキワ荘」ですっかりお馴染の主催者さまで、今年のお正月には「おバカの里 第2回」企画のゲストコメンテーターとしても盛り上げて頂き、さらに、何とカクヨム上での友未の第一発見者ということで、どんなに心強かったかがお分かり頂けるでしょう。「僕たちの救急車もいつか空を飛べるのかな」は、主人公の「僕」とその友人による「救急車の『なにものにも留められることのない行動体としての強さ』」に関するお話です。柱となるのは、本来なら高級レストラン〈逢逢亭ほうほうてい〉に納められるべき実力派フルーツ・メーカー〈連珠れんじゅ園〉で採れた最高級の桃が、何らかの事情で〈逢逢亭ほうほうてい〉に納品できなくなり、廃棄物への瀬戸際に立たされたため、緊急通報を受けた救急車が傷みかけ寸前のその桃の受け入れ先さがしに出動、奔走する、という「僕」のお話です。もちろん道中では救命救急士による救命処置(「点滴は安息香酸ナトリウムでしょうか、それともビタミンC?一般人には公開されていない情報もあるでしょう。」とのことでした)が施され、あるいは、出前の最中に力尽きて倒れたラーメン屋〈瞠目どうもく亭〉のご主人からの要請で〈伸びる寸前の海苔ラーメン〉を運んでいる最中の別の救急車に遭遇して緊急度合いの比較から道を譲るというハプニングに見舞われながらも、同じ交差点に現れたパトカー、消防車たちとの優先順位サバイバルを見事に突破して、無事、鳥飼とりかい邸ご令嬢の誕生日パーティーの手作りミックスジュースの材料として届けられるという内容でした。救急車がどんなに凄まじい勢いで急いでいたかは、「死者の国へと旅立ったスレイプニルが行きがけに落とした花瓶を帰宅後に落ちる寸前拾いあげるあの奇蹟のように、まさにファンタジックな走りを実現。」なる一文が鮮やかに語り尽しています!というわけで、いたずらだらけのアホ噺なのですが、全体が会話劇としてワンクッション置かれて構成されている点が崇期さまの崇期さまたる所以であるように感じました。そのため、地の文で直接的に描写するドタバタ劇(例えば友未の大好きな同じ崇期さまの「博多発、5分で3PV」など)に比べると客観的というか、幾分醒めた手触りがします。特に、相手役の「友人」がただの聞き手ではなく、茶々をはさんだり、ツッコミを入れて来たりするので、友未のコメントの出番を盗られてしまったようで口惜しくなりました。いみじくも、「私はですね、私生活でもボケることはほとんどなく「ツッコミ派」なんですよ。」とお答え下さっている作者ご自身のお言葉に興味津々です。因みに、最初の方にある、「ありがとう。では、続けさせてもらうよ ~ 握りこぶしが胸の前に掲げられる」の部分は、おそらく、「里」企画史上最長の「」文ではないかと … 。もしかしてこれもいたずらの一つなのかとも思いました。それに、その中に何度も登場している『』の使い方が素直なこと(『』って意外に本来の使われ方がされていない記号かもしれません)が逆に楽しいですよ。


 小此木センウさまの「忘れ草、またはヤブカンゾウ」は、上二作とは全く異なる「表現態度上のいたずら」とでも呼ぶべき非コメディー作品(でも別の意味で、もの凄く可笑しい)で、こうしたタイプの作品も企画的には大歓迎でした。そもそも導入部、最初から二番目の文章「特に夏場は散歩さえ熱中症の危険があるしかといってジムに通うなんて向いてないしでこれまで困っていた。」には一つの読点もないためひどく読み辛く、作者の筆力から見て単なる不注意とも思えなくて、いきなり翻弄されてしまいます。さらに最後の「1+2」の章でも突然視点が錯綜し始めるなど、文章的いたずら、あるいは冒険にからかわれてしまいますが(詳しくはコメント欄をご覧ください)、それはこの作品のわがままの一部に過ぎません。そもそも、この作品は全体が冒頭の紹介文にある「ペダンチズム」と「他我問題」でできているのですが、もう、やりたい放題、言いたい放題に書き散らかされている感じに苦笑が止りませんでした。ペダンチズムとは自分の知識や見識をひけらかす衒学(げんがく)趣味のこと。実は、友未自身も自作中に自分の好きな物事や興味を持つ対象についての蘊蓄うんちくをお洒落なアクセサリーのように添えておくことは嫌いな方ではないのですが(多分そういう方は大勢おられると思います)、これって、節操なくやってしまうといかにも厭味な知ったかぶりになってしまうことはお分かり頂けるでしょう。ところがこの作品の最大のいたずらはそのペダンチズムを堂々と確信犯的に自分に許し、他人に押し付けてみせている所にあります。具体的にはクラシック音楽の話題だらけで、登場する作曲家はストラヴィンスキー、オネゲル、ベートーヴェン、リスト、シューベルト、ラヴェル、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチ、ヤナーチェクと9名にも及び、それがそれぞれの楽曲や作風とも絡めていかにもぺダンチックに語られているので、これではクラシックを知らない読者がついて行けるはずがありません。さらにおまけとして「1+2」の章ではカノコガやニジュウヤホシテントウやアダンソンハエトリグモや、ヌワラエリヤとかディンブラとか訳のわからない物も登場して来ます。中途半端なスノビズムは顰蹙ひんしゅくを買いますが、これだけ好き勝手に散らかしておけば、まあ、読者も諦めて赦してくれるでしょう。もう一点の「他我問題」については、登場する二人の女主人公が結構すれ違っているのに半ば理解し合えたつもりでいる、というようなおかしな構図と捉えれば良いのでしょうか。これだけ書くと、何か支離滅裂なお話のようですが一つの短編としての姿は一応整っていて、表現的にも、「1」の章でヤブカンゾウが切り取られてしまう場面など実に衝撃的で、「綺麗」だから「嫌い」という点が二重の驚きでした。同じ作者による同じクラシック音楽を扱った作品でも「シャコンヌを弾かない女」は曲を知らない一般の読者にも充分理解できる内容ですが、シリアスな上に表現が重厚なので、純文学的な文章を好まない読者にはかなり手強いでしょう。


 田中ざくれろ様の「つぎはぎUFOと、はりぼて神神」は、最初に読んだ時点では楽しいけど乱雑かなという印象でした。けれど、何かが気になってもう一度読み返してみると、作品を緻密に簡潔にまとめて行きたいという友未自身の美学とはある意味逆方向の、外側へ広がって行く強烈なエネルギーを孕んだ八方破れのいたずらだということに気付かされました。構成や個々の表現は粗削りでも、スケールの大きさが感動的です。奇想天外な化かし合いが繰り広げられて行くざくれろワールドでした。

 古博かん様は「里」企画頭初より多くの作品をお寄せ下さり、友未にもしばしば暖かい励ましを下さってきた上得意さま、いえ、ビップ会員さまです(!?)「発我大根」は、ある時、自我に芽ざめた一本の大根が、野菜達の自由のために今、立ち上る! というお話で、作者が説明責任回避で居直り通すユーモアや、何をどうしようというあてもないのに「自由を求める野菜たちの、終わりなきトウソウ」を目指す熱気と良い加減さに呆れさせて頂きました。「お野菜って時々、「きみきみ、実は自我芽生えてるよね……?」という育ち方する子がいるなあと前から思っていた」というお言葉に、さすが古博さま!と目を開かされました。古博さまには、他の皆様にも是非読んで頂きたい傑作が二つあります。一つは、今回の企画のテーマにもぴったりの、英国を舞台に描かれた正真正銘の名作メルヘン「茶色のこびん」、もう一つは美しい風物スケッチに短歌のタイトルの添えられた「タイトルで一首 本文で読書旅行」です。

  水城洋臣さま、今回も楽しい歴史エンターテインメントをありがとうございます!今回は痛快、爽快で、心和む、まさにいたずらっぽいカンフー・エピソードでした。とりわけ、趙匡胤ちょうきょういん柴宗訓さいそうくんの信頼関係には心が暖まります。

 チェシャ猫亭さまの「大日本球状教」は問題作です。日本人よ、ボケーっと日和っとってええんかい、と警鐘を鳴らす強烈なカリカチュア的皮肉に満ちたお話です。個人的にはこの手の作品は読むのも書くのも、必ずしも好みではありませんし(考えれば考えるほど落ち込んで行ってしまいます)、クスクス笑いながら書けるテーマだろうかという疑問もあるとはいえ、花鳥風月しか詠まない者も、お笑いしか書かない者も、社会や政治的出来事から目を逸らすことなく、時にはその人なりの方法で一言態度表明しておく姿勢がないと、どんな世の中になっても文句を言えなくなると思っている者のひとりとして、一概に否定することはできません。

 雪月風花さまの「Rewind ~キミに逢いたくて~」は、今回お寄せ頂いた全8作品のなかで、唯一、どこに「いたずら」がしかけられているのか確信の持てなかった物語で、申し訳ない限りです。あるいは、「俺」の嫉妬していた相手が実は「俺」だったという結末の辺りでしょうか?ラヴコメ的なぬくもりを織り込んだタイムリープもののSFでした。


  10月6日、突然寒くなったなと思っていたら、夜7時半まえ、案の定、が帰って来ました。カーテンを閉じていたので最初は気が付かなかったのですが、部屋にいたが教えてくれました。放浪中、何も食べていなかったのか痩せていましたが、いつもの事です。例のごとく、帰宅直後、全身で狂ったように甘えかかってきました。そんなに我が家がよければ家出するなよ。今回は11日間の外泊でした。きょう7日は朝から秋雨になっています。







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