原風景の里 第1回

       枯れ枝に実だけ残って柿という  友未


 文士の皆様、「原風景の里」へのご寄稿、ありがとうございました。今回は最終的に22の佳篇にお集り頂くことができました。数字的にはお祭り騒ぎという訳にはまいりませんでしたが、まさに粒よりの傑作ぞろいで、充実した企画に盛り上げて頂くことができたと喜んでおります。お寄せ下さった皆様がた、またお立ち寄り下さった皆様がたに改めてお礼申し上げます。今回も、様々なジャンルにわたるバラエティー豊かな作品のご参加を頂けました。従来に比べて、どちらかというとシリアスな色彩が濃かった印象で、大変読み応えがありました(どの方も筆が立ち過ぎます!)また、テーマの「原風景」につきましても、作者さま自身の立ち返りたくなる仮想の心象風景もあれば、登場人物にとっての原体験やトラウマであったり、またその両方の性格を兼ね備えているような内容のものもあり、その多くは、実体験に根ざしているような思い入れのあるものでした。


 さて、この一年近く、様々な作品と出会って行くなかで、友未は「時代物の書き手は筆力が高い」という仮説を育みつつあるのですが、この説を疑う人は、本企画に一番乗りして来て下さった偽教授さま、「針一筋」は読まない方が身のためかもしれません。と言うのも、この作品には筆力の高さを否定できそうな隙が全くなかったからです。冴えた筆さばきにただ唸らされるばかりでした。針技の天才、玄達の生き様がクールに淡々と綴り出される忍者譚ですが、全篇をぴんと引き締まった緊張感が貫いていて、テレビで見る梅安さんより凄味があります。文体、展開ともにきびきびしており、とりわけ悲劇性と幸福感を兼ね備えたラスト・シーンが圧巻で、もう少しで、生きるということの意味を悟らされてしまいそうになりました!心憎いまでにさりげない晴信の描写が作品の立体感をさらに引き立たせています。なお、本作は、第七回本物川小説大賞金賞受賞作品とのことで、授賞に際して贈られた(と紹介されています)主人公玄達のイラストの格好よさが、これまた半端ではありません。皆様も是非ご覧ください!

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 その衝撃から醒める間もなく、二番目に届いたのが、「透子さんの夏休み」という灰崎千尋さまの堂々たる児童文学でした。こちらはくれの一夏を背景に、帰省した少年と、里帰りしていた叔母との触れ合いを綴って行く友情譚。なだらかな感動、とでも呼べばいいのか、事件らしい事件は何も起こらないのに、ほろ苦いニュアンスなども交えつつ、ていねいに活き活きと語り出されて行く心の動きが、人生の大部分はこういうちょっとしたエピソードで織りなされて行くものだということをあらためて確めさせてくれるような、しっかりと地に足の着いたドラマでした。背景にある山や林や海の姿や、人々の生活感が懐かしさに溢れ、それでいて爽やかです。物事の描き方に確かな遠近法を感じました。児童文学作品と言い切って良い内容ですが、さすがに「童話」とは呼べないので、やはり「現代ドラマ」だと思います。タイトルが「透子さん」の夏休みである点に含みを感じました。

 児童文学かと思いきや、古博こはくかんさまの「余白のアケ」。最後に、えっ、そんな … と突き落とされるファンタジーでした。文句なく面白かったのですが、物語の大半を占める児童文学風の風景描写、心理描写があまりにも素晴らし過ぎて、最後に目眩を覚えたあと、「じゃあ、さっきまで主人公に寄せていた友未の共感はどうしてくれるんだ」と足場を外されてしまいました。で、ラストまでの部分はもっと手を抜いて、いい加減に書き直されるべきです、とお勧めしたところ、このラストが、やはり、角川武蔵野文学賞(武蔵野×一般文芸部門)の四千字規定内に収めるための苦肉の力技であったことを白状して下さり(いえ、もともと「4000字内に物語を納める難しさを痛感しつつ」とおっしゃっています)、本来の構想をうかがわせて頂くことができました。所が、です。この構想というのがとんでもなく魅力的なもので、友未は実際には書かれてもいないその大傑作に危うく感動させられかけてしまったほどです。にしても、「マアちゃん、弟がいいの」なんて、詐欺ですね!


 所で、これは以前にも申し上げたことなのですが、友未の「里」企画は基本的に仲好し企画です。友未は他人様の作品にケチなんか付けたくありません。ただし、興味をそそられた作品や、不幸にして、この方になら何を言っても大丈夫、と友未に勝手に見込まれてしまった書き手さまに対しては、疑問や異論もじゃんじゃんぶつけさせて頂いております。今回も古博さまほか数名の方には、「名文か、悪文かのどちらかです」なんて、とんでもないコメントを差し上げたり致しましたが、悪運にも恵まれてか、今の所、トラブルは発生しておりません。でも、きっと、いつかそのうち …


 今回の企画では、友未が普段、どちらかといえば敬遠しているジャンルの中にも、三つの素晴らしい作品を見つけました。まず、倉井垂路さまの「猫になる方法」。

百合ファンタジーです。百合やBLは完全に守備範囲外で、つい逃げ腰になってしまうのですが、タイトルに一目惚れして(個人的にこういうセンスのタイトルが大好きなのです。なかなかセクシー、では?)挑んで行きました。 ―  うん、この程度なら全然平気、というより、「ずっと私たち、息を吸うタイミングと、吐くタイミング。ずっと、ずっと死ぬまで一緒だったらいいのに。呼吸を示し合わせて、二人だけで共有して生きていけたらいいのにね。」という台詞を思わず抱きしめていました!それに、妄想とも現実ともつかない倒錯のさせ方が絶妙で、寂しく、幼い懐かしさがいっぱいに迫って来ます。何より、何事もなかったかのように日常に戻って行くラストの喪失感がたまりません。百合としてはソフトですが、これぞファンタジーと呼ぶべき傑作でしょう。惜しむらくは、今回取り上げさせて頂いた他の文豪、巨匠さま方の諸作に比べると、読んでいて、文章的、表現的に引っかかったり躓いたりするような部分が若干多かったような気はします。

 一方、けんこや様の「茜色した思い出へ」は「転生」のタグ付きです。ただ、実際に読んでみますと、転生といっても、友未の想像していたようなロープレやバトルものではなく、昔ながらの「生まれ変わりもの」と呼んだ方が分りやすいミステリアスなドラマでした。ですから度肝を抜かれるほど意外なプロットではないかもしれませんが、懐かしさが胸にしみ通って来るような感動深い原風景でした。なによりも、前半の淡々と運ばれる精緻な筆さばきに引き込まれてしまいまいます。同じストーリーが、言葉の選び方や語り方ひとつで生きもすれば死にもする、あるいは、如何に書くかという事こそが何を書くかという事なのだ、という、その素晴らしい例証だと感じました。なのに、この作品、後半に行くに連れて明らかに筆致に乱れが生じていて、変だなぁと思っていたら、案の定、別の応援者さまのコメントへの返信のなかで「(他の)企画に間に合わせようと焦りに焦りながら書き上げてやっとこぎつけた」「皆さんテーマが発表されてからあっという間に書きあげてしまうので、めまいを覚えてしまいます」とおっしゃっておられるのを見て、あぁ、やっぱり、と得心の行った次第です。誓って断言いたしますが、この作品は制限時間さえなければ後半、さらに幾層倍も立派に仕上がっていたはずで、古博かんさまのケースと同様です。願わくは、書かれなかった物語のなかでは、最後に、二人が「おりんちゃん」「謙ちゃん」と見つめ合い、常識も何もかもかなぐり捨てて駆け寄って、ひしと抱きしめ合ってくれていますように。

 もう一つ、こちもはじめて体験させて頂くことになった分野なのですが、江山まこもさまの「星月夜の木霊」は、素晴らしい脚本、 ―  声劇用台本でした。昔話風の雰囲気に満ちた妖しくもこころ優しい伝奇譚です。一種のもののけ噺なのに、人を傷つけるようなおどろおどろしさが全くなく、隅々にまで文学的良心のようなものが香っていました。平易な中にも巧みさがはっきりとわかる文章で、シナリオ形式ながら、読み難さが全くありません。神秘的な「あめつちのうた」が印象に残ります。そこはかとないペーソスにこころ誘われる佳篇でした。実際に声のドラマを演じたいと思われている方々にとって、これほど良質で、誰にでも面白さの伝わるフリーの台本があることは、大きな喜びであるに違いありません。


 友未は心理学的なファンタジーが大好きなのですが、和田島イサキ様の「あの三角屋根の下、ひとつ小さな窓のある、いつか本で見たAtticを。」は、まさにそうした雰囲気に満ちた作品でした。ファジーな意識の世界に的確な言葉のメスで鋭く踏み込んで行くような、冴えた迫力を感じます。自身の欺瞞や虚像を剥ぎ取って行くような筆致で、主人公の意識を通して語られる一人称世界ですが、幽体離脱して自らを観察しているようなある種の客観性を備えた表現であるため、窮屈さや視野の狭さを感じません。物語の背後に漂う謎めいた幻想感が、ひたすら自らを糾弾して行くテーマ的な重苦しさを救っています。何より、詩的なラストの説得力が素晴らしく、展開に内面的な必然性が感じられました。


 最後に、その独創性に唖然となった今回のイチオシ作品を二つ。表現方法は全く異なりますが、共に芸術性とエンターテインメント性の深く溶け合った、きれいごとでは済まない迫真の名作でした。@Eternal-Heartさまの「ライクロフトの静謐(せいひつ)」は、荒涼とした静けさと孤独なモノローグに沈潜して行く最果て感に満ちた原風景です。「生き辛さを抱え、人生より安心を望む少数派の存在が伝われば、という思いで執筆致しました」と述べられている通りの内容で、静寂を揺蕩い、孤独に沈む詩的な言葉が、張りつめた美しい風景を紡いで行きます(友未はシベリウスの「タピオラ」や「テンペスト」の世界を思い出しました)。イギリスの作家、ジョージ・ギッシング(1857 ~1903)の「ヘンリー・ライクロフトの私記」に描かれた主人公ライクロフトの、辺境地の自然の中での世捨て人のような隠遁生活(ギッシングが自らの願望を託したエッセイ風フィクション)を追体験して行くような形で綴られた私記風の小説なのですが、フィクションというより、ピュアな魂のエッセイと呼びたくなる言葉たちです。ひたむきさと、暗く透き通った耽美性が深く心に遺りました。 ただ、この作品には、作品としてまだ未整理な何かが残されているような気がしてなりません。巻末の「解説」に述べられている類のフィクション仕立ては、却って友未を混乱させました。架空の主人公の手記という体裁をらなくても、心象風景としてストレートに語れば十分に届くだけの真実味がここにはすでに備わっているはずだと思うのですが…

 「私たちの踊り場でまた会おうね」呉 那須さまは、一転、これとは全く似ても似つかぬ不条理とナンセンスの世界です。しかも、他の不条理やナンセンスとは一線を画す内面性、精神性を直感させる薄気味悪いカオスを宿していました。表現主義的とでも呼べば良いのか、逆に緻密な計算もあるのか、いずれにしろシュールで、日常意識に風穴をあけられてしまいそうな危うさです。ひとたび 呉 那須ワールドに迷い込み、その洗礼を受けてしまうと、我々がふだんそこに安住している言葉世界が、いかに理性や知性によって整理され、形を整えられた代物であるかという事実に思い当るでしょう。悪夢、と呼んでしまって良いのでしょうか?一度、フロイトに聞いてみましょう。確かにこの上なく無気味ですが、時には滑稽だったり、拠り所の見出せない不安を覚えさせられたりもします。「奇怪」という言葉が近いかもしれません。タイトルの「私たちの踊り場でまた会おうね」、あるいは、本文に添えられた「忘れないで」という切なげな別題をはぐらかす乾いた作品なのかとも疑ってみましたが、やはり、そうではない気配があります。ですが、惜しむらくは、後半が幾分息切れ気味で舌足らずかも … 。呉 那須さまの作品目録をのぞかせて頂くと、9作中8作が「ホラー」ジャンルで、その殆どに100以上の☆マークが付いていました!人気作を褒めるのはちょっぴり癪ですが、面白いものは面白いのでやむを得ません。


 なお、当記事を読み終えられて、「なぜこの話が選ばれていないのだ」と憤慨された皆さま、どうか不明をお赦し下さい。そして、その場合は、友未に代って熱い声援と賞賛を作者さままでお伝え願えれば幸いです。


 では皆様、楽しいクリスマスと年の瀬を ― 。

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