2 白峯先輩と私
M県の南東、山間部にあるS市。市の中央、林の中にある緩やかな丘の上に建てられた、この地方では名門とも言われている私立清潤女子高等学園。
木々の間に佇む、五階建てで煉瓦造りの本校舎の外観は、蔦こそ絡まっていないものの、長い歴史と風格を感じさせる。正面から見たその東西には、比較的新しく建て増しされたのが見て取れる、若干雰囲気に不釣合なコンクリートの建物が二棟―――文化部棟と運動部棟が渡り廊下で繋がれていた。
もっとも、比較的新しく、とは言っても相当な古さであることは確かなんだけどね。ただ、本校舎もそうだけど、外見とは違い、空調や暖冷房設備なんかは割と最近の物を取り入れているから、夏暑く冬寒い、なんて事はなくて。一応名門だし、色々お金かかってるのかな。卒業生にはそれなりに名士と呼ばれる人もいるみたいだし。
さて、その清潤女子学園文化部棟内、私の所属する文芸部には、部の創立時から続くおかしな風習があった。
おかしな風習、って部長の立場にある私が言ってしまうのもどうかとは思うんだけど……まあ普通に考えたらどう考えても変なので仕方がない。
それは、毎年春夏秋冬の四回に渡って学園に創作した文芸誌を配布しなければいけない、という事。
ちょっと時期がずれて初夏に入っちゃうけど、新入生を迎えての春の号。それとあまり間を置かずに、夏休み前に発行される夏の号(これが期末試験と被るから一番きついのよね……)。一年に一度の祭典・清潤祭に出展される秋の号。そして少し長めの冬休み明け、三学期半ばに出る冬の号、の計四冊。
……ここまでならそうおかしな事でもないかな。普通の学校なら学園祭くらいしか創作物の発表の場はないとは思うけど。
ただし、この季刊誌には一つだけ、どうしても遵守しなければいけないルールがある。
先の会話にもあった通り、それはズバリ―――『掲載される作品は、少女同士の恋愛をモチーフにした作品でなければいけない』、という事で。
……噂だと、どうもこれ、今よりもっと学園の規律が厳格だった頃の名残みたいなのよね……。『乙女の園たる清潤女子に、例え文章、架空の存在とはいえども一切の男子の立ち入りを禁ず』、みたいな。
それでもやっぱり皆年頃の女の子なんだし、恋愛物には興味津々だ。で、生まれたのがこのルール、って訳。
それにしても現実と創作物を混同しちゃうのも凄い、というかどうかしてるとも……文芸部の創設者ってどんな人だったのかな?
ともかく、そういう訳で私達文芸部は現在、必死に春の季刊誌の準備中なのだ。
意外にも、というか最早馴染み深い物だからなのか、文芸部の創作物は生徒達にも人気があり、楽しみにして下さっている先生方もいて。
他校からわざわざ季刊誌を求めてくる子もいるみたいだし……女性に限らず、時には男性の来訪者もあるとか……ここは男子禁制だから門前払いされちゃうんだけどね。
そういう訳で、私達文芸部は、シンプルに、一部ではこうも呼ばれてるみたい。受け取り方によってはいかがわしくもあるんだけど……。
私立清潤女子高等学園文芸部―――通称、『百合部』。
け、決してその、お、女の子同士で変なことしたりする部ではありませんのでお間違えなく!!
と、とりあえず、私達文芸部―――メインの執筆者は、まず部長である私、
先に断っておきたいけど、べ、別に私がラブシーンのある物を書かないのは、鉄砲塚さんに言われたように経験がないからではなくて、少女同士のプラトニックな感情を描きたいからなのよ、うん!
口の悪い葵なんかには、「あんたの書くのってプラトニックっつーか、メルヘンチック過ぎるんだよね。見た目通り子供っぽいというかさあ」などと言われたりもするけど……。
た、確かに自分が幼い外見なのは百も承知よ?背だって小さいし、胸だってその……ささやか過ぎるくらいだし……。でも、書いてる作品にはそれは関係ないでしょ!?葵だって―――。
そうそう、葵――文芸部副部長でありながら、部長の私より態度の大きい、佐久間葵。
ボーイッシュでサバサバした外見と性格とは裏腹に、彼女の書く作品はサッパリとした文体はともあれ、実はすっごくロマンチックだったりする。でもそれを言うと怒るのよね……あれでも一応乙女なのかなあ?
見た感じは乙女、というより美少年、って感じなんだけど……あ、また怒られそう……。
その葵と一緒に部室に顔を出した、栗色のウェーブがかった髪の女の子、
普段はほんわかおっとりしてるけど、果恵こそ次期部長だ、って先輩たちからかつては言われてた。確かに、何かあった時に一番しっかりしてるのは果恵なのかもしれない……優しくて包容力もあるし、本当に皆のお母さん、って感じで。
けど、そんな果恵だけど、外見と一番作品が乖離しているのは彼女だったりして……何かもう凄いのだ……彼女の書く百合は。黒百合というか、愛憎渦巻くというか、ドロッドロのグチャグチャというか……読んでるこちらが辛くなってしまう程に……。
もしかしたら、果恵って怒ったら葵なんかよりよっぽど怖いのかも……。
それからつい最近入ったばかりの新入生。私より小さくて、よく掴めない女の子、
彼女の作品って読んだことなかったけど、あ、ああいうタイトルの物が好きなの?……た、確かに和風っぽくて、日本人形みたいな彼女には合ってるけど……な、縄って……。ひょっとして、果恵とは違う意味でドロッドロのグチャグチャなのを―――。
考えただけでまたまた顔が熱くなってくる……鉄砲塚さんとは違うタイプの問題児、なのかなあ。後で一度ゆっくり話さないと……逆にこんこんと諭されそうな予感……。
あああ、頭痛いわ……なんで今年の一年生はこう、や、やらしい物に特化して……。
そうだ。そして今の私の最大の頭痛の種、一番の問題児である彼女―――鉄砲塚沙弥さん。
一年生とはいえ、彼女は入学して半月ちょっとで、すでに五つもの作品を完成させ、私の元に届けている。それだけなら物凄い模範生に聞こえるんだけど……。
正直、彼女は凄いとは思う。五つの作品の内容もそれぞれにジャンルが違い、ミステリー、SF、ファンタジー、アクション物に今回の学園物まで。引き出しの少ない私はそれだけでも感心してしまうんだけど。
ただ、そのどれもが……その……せ、性描写が激しくて……。
な、なんで、ああいうの書けるのかな?や、やっぱり私と違って、け、経験豊富だから、って事なの?確かにその……遊んでそうな容姿ではあるけど……。
彼女の事を思い出す――背に伸びる赤みがかった茶色の髪。その両脇にちょこん、と小さく纏めたツーサイドアップ。大きくて二重の目、光の加減で緑がかって見える瞳。
美人でスタイルも抜群で、グラビアモデルみたいだし……聞いた話では、あれで運動も出来て学業も優秀、中学生時代は男女問わずに人気があったとか……本当になんで文芸部にいるんだろう……謎だわ……。
はあ、と溜息……神様って不公平だわ……さっき感謝したばかりだけど……今は恨みます。お賽銭の事は忘れて下さい。
でも―――タマにキズ、ってまさにこういう事なんじゃないのかな……それだけ色んな才能に恵まれてるのに、わ、猥褻な作品しか書かないって……。
軽く指で眉根を揉んでから外していた眼鏡をかけ直すと、私はもう一度大きく溜息をついて、彼女の作品と、それを読む白峯先輩を眺めた。
午後の授業も
ブラックコーヒーの入ったカップを左手に、斜めに椅子に腰掛け、セーラー服のスカートからすらりと伸びた黒いタイツに包まれた脚を組んで、
時折カップをテーブルの上のソーサーに置いてページをめくる動きすらも優雅に感じられて……私は一時、何もかも忘れて、その姿に見惚れてしまう。
なんて表現したらいいんだろう……容姿端麗、眉目秀麗……ううん、そんな言葉じゃ物足りない。ああ、自分の語彙の乏しさが憎い……!
眉の上で切り揃えられた、腰まである美しい緑の黒髪、陶磁器のように真っ白な肌、凛々しく整えられた眉、そして切れ長の涼やかな目―――。
何を隠そう、私が髪を伸ばしているのも先輩の影響だったりするのだ。他は逆立ちしても真似できないから、せめて髪くらいはって。まだ肩口くらいまでしか伸びてないんだけどね。それだけでもおこがましいにも程があるんだけど。
……でも、白峯先輩が読んでるのはあの鉄砲塚さんの作品なんだ……そう考えたら、途端に忘れていた謎の羞恥心が頭をもたげてくる……は……恥ずかしい……。
ど、どうか赤くなった顔を白峯先輩に気がつかれませんように、と祈りながら下を向く。
穴があったら入りたい……こんな表現、鉄砲塚さんが聞いたらまたキャーキャー喜びそうだけど。
束ねられた五つ目の原稿を、その白魚のような指で丁寧に机の上に置くと、白峯先輩はカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
「――――ふう。どれも面白かったよ。鉄砲塚くんはまた多彩な子だね。若干比喩表現に解り難い所があるけれど、それも意図のうちか」
満足気に息をつき、微笑む白峯先輩。ああ……ご、後光が差して見える……。
ありがたやーありがたやー、と拝みたくなる気持ちを何とか抑え込み、私は先輩に疑問をぶつけてみた。
「あ、あの……そ、それで……どうお考えになりました?」
「ん、そうだな―――こうして急かすようにして読むには勿体なかったかな……もっとじっくり、時間をかけて味わいたかったものだね。特にミステリーに関しては、推理を楽しみつつ―――」
「あ、そ、そうじゃないんです!あの……そのですね……」
こう朗らかに感想を述べられると、「それで、性描写の方はいかがでしたか?うへへ」なんて下卑た質問はしにくい……。
もじもじと胸元で両手の指を絡めて俯く私の様子で察して下さったのか、先輩は少し声のトーンを落として言った。
「ああ、すまない。本題はそこじゃないんだったね。ええと、まずは性行為に関してだったか」
せ、先輩の唇から、美しい旋律のような声で、せ、性行為と言われると……思わず血が吹き出すのではなかろうかと私は慌てて鼻を押さえる。
途端に口元に手をやり、先輩はくくっ、と含み笑いを漏らした。―――や、やだ!笑われた!?
「何と言えばいいのか……。鉄砲塚くんとは何度か部室で顔を合わせた事もあるけど、こういう子だとは気がつかなかった。迂闊だったな」
あ、良かった。先輩が笑ってたのは私の事じゃないみたい……けど、鉄砲塚さんって割と普段からあのままよね?気がつかなかったって……先輩の前では猫被ってたのかな?ただでさえ猫っぽいのに。
先輩は大きく一度背伸びをすると、組んでいた脚を崩し、椅子に座り直して私の方を向いた。
「では最初に言っておくと、だね。こういった描写がある作品は過去に前例が無い訳でもない」
「え!!ま、前にも?」
「何分文芸部の歴史も長いからね。その中で過激な作品を書く人間が何人かいても不思議ではないだろう?」
「そ、それはそうかもしれませんが……」
でも、鉄砲塚さんみたいな女の子が何人もって考えたら……こ、怖い……!!
「―――――とは言っても、彼女はかなりの変り種だね」
そう続けられた白峯先輩の言葉にホッと安堵する。危なく想像上の鉄砲塚さん部隊に負けるところだったわ……。
けど変り種って?そ、そういう、や、やらしい人達の中でも群を抜いてるって事!?
「とりあえず、私個人の見解からすると、だ。これくらいの描写ならそれ程問題はないと思う。局部表現も官能的ではあるものの、決して下品にはなっていないし」
「ほ、本当ですか???」
「私個人の、と言ったよ。まあ少しは騒ぎになるだろうね。退屈してる生徒達にはいい刺激になっても、先生方に多少はお小言を言われるかもしれないな……しかし、そういうリスクを負っても発表する価値がこの作品群にはある」
「あの……もしかして叱られるのって……私も……ですか?」
「それも部長としての務め、だよ。諦めたまえ」
「はあ……」
「そう気落ちするな―――それに、例え部長ではなくても君にはその責任があるよ、香坂くん」
え????
わ、私がなんで鉄砲塚さんの、ひ、卑猥な小説に責任を!?か、彼女のお守り役になった覚えはないんですが……!?というか、むしろ私は果恵にいつもお守りしてもらってるようなもので―――ああ、葵はいつも私を小突く役です。
疑問符を頭の上に浮かべまくった私にお構いなく、またしても白峯部長はくく、と愉快そうに含み笑いを漏らした。
「しかし……よくもまあ鉄砲塚くんも手を変え品を変えこれだけのものを……まったく―――どれだけ純情なのやら」
「じゅじゅじゅじゅじゅじゅ、純情!!!!????」
思いもよらない先輩の一言に、私は椅子を蹴って思わず立ち上がってしまう。
そそそそそ、そんな彼女とかけ離れた言葉がどこから!?『正義と悪』、『光と闇』、『鉄砲塚さんと純情』ってくらいかけ離れてますよね!?最早対義語ですよね!?
ちょちょ、ちょっと待って下さい!!ももも、もしかして私達が話してるのって、あ、あの鉄砲塚さんの事じゃないんですか!?せ、先輩の言ってるのはどの鉄砲塚さんの事なんですか!?
やややや、やっぱり日本のどこかで秘密裏に鉄砲塚さん部隊というのが結成されてて、彼女はそこの一員で、密かに国家機密に関わってて、百合で世界を転覆させようと――――!!!???
「?どうした?そういう事も含めて私に相談を持ちかけてきたのだと思っていたのだが?」
「いや…その…あの……」
パニック状態でその言葉の意味も把握出来ない私を、不思議そうな顔で眺める先輩。い、いや、不思議そうに眺めたいのは私の方ですよ!な、なんでそんな爆弾発言をしておいて冷静に―――!?
白峯先輩は眉間に皺を寄せて目を細めると、いささか厳しめに私に問いかけてきた。
「……もしかして、とは思うんだが……香坂くん、君は彼女の作品をちゃんと読んでいないんじゃないのかな?」
「!!そ、それは……その……つ、つい……恥ずかしくて……」
険しい口調の先輩の指摘にパニックも吹き飛び、私は蚊の鳴くような声で言い訳してしまう。
確かに、私は彼女の作品をきちんと最後まで読了した事は一度もない……いつも真っ先に私の手元に持って来るものの、やはりその……は、破廉恥だし……。しかも目の前には鉄砲塚さんが毎回何故か目をキラキラさせて立ってるし。
言い訳させてもらうけど、それでも何度となく読もうと試みてはみたのよ?部室に誰もいない時を見計らったり、なるべくいやらしいシーンは飛ばすようにして!
だけど、やっぱり読めなかった。
それは……葵達に鉄砲塚さんの作品を見せなかったのと同じ、理由の分らない気恥ずかしさを感じてしまったから。
腰を下ろしてもごもごと口ごもる私の注目を促すように、先輩の指が、コンコン、とテーブルを叩く。
「香坂くん、私が君を部長に任命したのは何故か、まだ話してなかったね」
「?と、突然何ですか……?」
そういえば聞いた事がなかったっけ。何やら訳も分からぬままに部長に任命されて―――私も、そ、その、他の先輩方同様に、部長は果恵だと思ってたし。
あの時は―――そうだ、白峯先輩が唐突に部長を辞任するって言い出されて……そのショックで私は何も考えられなくなってたんだ。
「―――私以外が言っていたように、宮嶋くんは確かに部長としての器は備えている。現副部長である佐久間くんだって、部長として皆を引っ張って行くにはふさわしい人材だとも思うよ」
「……はい……少なくとも、私よりは二人とも適任かと思います……」
つい二人と自分とを比較して凹んでしまう。
そうよね、私なんて何も取り柄が無いし……部長というよりいじられ役と言った方が相応しいくらい……いつも果恵や葵に助けてもらってばかりだし、今回は先輩にだって迷惑をおかけしてるし……。
もしかしたら鉄砲塚さんだって、果恵や葵が部長だったら素直に言う事を聞いていたかもしれない。葵の言ってたとおり、私は舐められてるのかも……。
や、やだな。な、なんか目が潤んできた。今日は泣いてばっかりだわ……。
「自分を卑下して落ち込むものではないよ。けれど私は君を選んだんだ。それは何故だと考えるかな?」
「………分かりません……」
「入部してきた時から私は君を見てきた。他の文芸部の誰よりも、君は文章を愛している。読む事も―――そして書く事も、だ」
「私はそんな……」
そんな大した事じゃない。私はただ、昔から小説を読むのが好きなだけだ。書く事だって、他の人達より優れているとは口が裂けても言えない。
ただ、私がこの清潤女子に入ったのは、確かにそれが理由だったからなのだ。ここなら他の学校より文章を発表する機会に恵まれているし。
それに―――何より私は百合が好きだから。
校舎裏で教室では見せられない秘密の逢瀬を繰り返す乙女達、同性故に伝えられない想いに一人苦悩する文学少女、同じ志がやがてお互い愛情へと変わっていく運動部の先輩と後輩……。
そういう秘められた想いが綴られた物語が好きで、私は巷で『百合部』と称されるこの清潤女子の文芸部に昔から憧れていた。
「……下手の横好き、ですよ」
「好きこそものの上手なれ、とも言うよ。いいかい、何かをとことんまで好きになれるというのはそれだけで一つの才能なんだ。私は君のそこを見込んで部長に任命したんだよ」
「………」
「だからこそ、だ。君は鉄砲塚くんの書いてきたこの文章からも目を逸らすべきではない……まあ恥ずかしくなるのも分かるがね」
「はい……あまりにそ、その……せ、性的でちょっと……」
「そういう意味で言ったのではないんだがな」
そう言ってクスクス笑う白峯先輩。?じゃあどういう意味なんだろう?
――――ひょっとして、先輩は私の抱えるこの理由の分らない気恥ずかしさにも気がついているのかな?
「ともかく、私は君を信頼している。それだけは忘れないでくれ」
信頼……白峯先輩が……私を……!?
その言葉に頭に浮かんだ疑問も一気に消え去る。
私は白峯先輩を信頼していて、白峰先輩もまた私を信頼して下さっているという事は……そ、その、私の持論に照らし合わせった結果―――実は私達は心の奥底で深く結びついている理想の関係なのでは!!??
「わわわわわ、分かりました!!せ、先輩のご期待に添えるよう、不肖香坂史緒、全身全霊、鉄砲塚さんの作品を読破する事をここに誓います!!!」
「大袈裟だな、香坂君は……ああ、そうだ」
何かを思い出したように、身を屈め、足元に置かれた鞄を開き手を差し入れる白峯先輩。
再びその手がテーブルの上に姿を現した時、そこにはクリップで留められた厚い紙の束が。
「……これを渡しておくよ。鉄砲塚くんの作品を読む時の箸休めにでもしてくれたまえ」
「え?せ、先輩、これってまさか―――!?」
渡された紙の束をパラパラと捲る。そこにはびっしりと流麗な(実際にはプリントアウトされたものだからこれはあくまで私のイメージだけどね)文字が!
「今回の季刊誌用に書いた原稿だ。部室に持っていこうと思っていたんだが、良い機会だからここで渡しておくよ」
「……お、お忙しいのにわざわざ用意して下さったんですか……あ、ありがとうございます!!」
「おいおい、私だってここの生徒で、文芸部の一人なんだ。感謝されるようなことでもない。それに―――」
ほんの少しだけ、先輩は寂しそうな表情を浮かべた。
「―――季刊誌に載せるのもこれが最後だろう。私自身にとっても記念のようなものだ」
「あ……」
先輩の台詞に私の胸が苦しくなる。
そう、先輩はゴールデンウィーク明けにはこの学校から居なくなってしまう。
それだけではない。詳しくは話して下さらなかったけれど、お父様の再婚による家庭の事情により、先輩は実家からもこのM県からも離れて一人上京されるそうなのだ。
なんでも東京には出版社に務めている文芸部のOBの方がいらっしゃるそうで、そのツテでアルバイトとして働かせてもらえるという。
私の理想であり憧れであり、誰よりも信頼を寄せる白峯先輩が……。
そう考えたら私はまた泣きそうになってしまい、思わず下を向いてしまった。
「こら、そんな顔をするな。別にもう二度と会えなくなるという訳でもないよ。機会があればこちらにも顔を出すつもりでいる」
見かねたかのように先輩は明るい口調で言った。
その言葉に少しだけ救われ、私は目尻を指で拭い、顔を上げる。
「………本当ですか?」
「ああ―――もっともすぐに、というのは無理だろうが。少しは向こうでの生活が落ち着いたらだろうな。何しろ寝る間もないくらい忙しい、って脅かされたからね」
こわいこわい、と言って快活に笑う先輩。ついそれに釣られて泣いていた私も笑顔になってしまう。
……先輩ご自身だって泣きたいだろうに……それでも周囲にこういう気配りを忘れない。やっぱり私にとって白峯先輩は理想の人だ……。
二人で一笑いした後、先輩はチラッと左手首の腕時計を見て立ち上がった。
「……と、少し時間をオーバーしてしまったな。そろそろ行かないと」
「あ、も、申し訳ありませんでした!お忙しい中時間を割いていただいて―――」
「気にしなくていいよ。こちらも用があったしね。そうそう、鉄砲塚くんにも宜しく伝えておいてくれたまえ。楽しかったとね」
立ち上がり深くお辞儀をした私にひらひらと手を振って答えると、白峯先輩は背を向けた。
が、歩み去ろうとして踏み出した足を止め、背中越しにこちらに振り返ると、先輩は何やら思わせぶりにこう言った。
「―――前言撤回。鉄砲塚くんには私が宜しく言っていた、とは言わない方がいいかもしれない」
そしてまた手をひらひらと振ると、今度こそ白峯先輩はロングヘアーとスカートを翻し、優雅に歩み去る。
その後ろ姿が視界から消えるまで、私はずっと見送り続けた―――頭の上にはまた疑問符がいっぱい浮かんでいたんだけどね。
学園から国道沿いに徒歩十五分の住宅地。木造二階建て瓦張りの、絵に描いたような日本家屋。玄関脇に掛かる表札には『香坂』の二文字。
自宅に戻り、ただいまも言わず自室への階段を急ぐ私に、小学五年生の妹・早苗の声が掛けられる。
ちなみにだけど、早苗は眼鏡も掛けてないし、私より若干だけど身長が高い……なんでこう某猫型ロボット兄妹のように下の方が優秀とかいうルールがあるんだろう……早苗は顔だって可愛いしさ……。
で、でも私だって、しつこいようだけど地味可愛いとは言われた事があるんだから!じ、地味はいらないと思うけども!!
また脱線だ……今はそんな事よりも鉄砲塚さんの原稿を読まなければ……!!
「おかえりー。おねーちゃん、お母さんがご飯は?だって」
「早苗……お姉ちゃんは今から決死の覚悟で戦いの場へと赴かなければいけないの……お母さんにそう伝えておいてちょうだい」
「わかったー。――――お母さーん、おねーちゃんがまた変なこと言ってるー」
早苗の声を背に自室のドアをバタンと閉めると、私は高校生まで身長的な意味で買い換える必要の無かった、愛用の子供用学習机の前に腰を下ろした。
まずは学生鞄を開き、まとめられた幾つもの作品の束を机に広げる。
―――よし!やるぞー!!白峯先輩の信頼に応えるんだから!!!
受験の時に使っていた『必勝』の文字の入ったハチマキを頭にギュッと巻いて、勢い込んで鉄砲塚さんの原稿を捲る!
あたしの指先を濡れた秘唇の最奥まで届かせようとするかのように、ジーナ姫は甘い嬌声を上げつつ、自らもどかしそうに腰を振り始める。
……たまたま目に入ったその一行に、私は机の上へと突っ伏した……早くも決意がガラガラと崩れ落ちるのを感じながら。
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