弟と姉 3
結局、最後まで姉の真意を探ることはできなかった。
ただ、一つだけ。この事件からしばらく経ってから気付いたことがある。
この次の日のことだった。
今まで仲良くしてくれていて、昨日だって様子のおかしい俺を心配して声をかけてくれていたクラスメイトが一気に疎遠になったのだ。一部の女子に至っては、俺の顔を見るだけで嫌悪感を顕わにするほど。
いや、クラスメイトだけではない。学年全員、ひいては授業をしてくれる先生でさえどこか俺のことを軽蔑しているように見えた。
あんなことが起きたために考え方が後ろ向きになってしまっているせいではないかと思ったが、どうやらそうではないらしい。俺の勘違いや被害妄想などではなく、本当に今まで親しくしてくれていた人がみんな俺から離れていってしまったのだ。
原因など一つしか考えられない。当時の俺は困惑するばかりで思い至らなかったことだが、後で考えてみればはっきりと分かる。
どこからかは分からないが、姉の件が学校に漏れたのだ。
…いや、どこからかなんて分かりきっている。姉本人だ。それ以外に考えられない。
自分を辱めた変態を社会的に殺すために、姉本人が学校中に広めたのだ。
…少なくとも、当時は本気でそう思っていた。
だが。後々考えてみればそんなことはあり得ないと分かった。
ポロポロと泣いて、相手の顔を二度と見たくないと言うような女性が自分が痴漢されたという事実をわざわざ学校中に広めるなど普通に考えればあり得ないことなのだ。
そんなことをする酔狂は、わざと満員電車で痴漢させて遊んだり示談金をせびる馬鹿か実際はされていないのが分かっていながら別の目的があるかのどちらか。
それに、まるで示し合わせたかのように姉の味方をする家族たち。まるで、姉が正しいとしか考えられないといった様相、疑うことすら思いつかないといった雰囲気。
だが、その違和感に気付いたのは俺が中学を卒業して高校生になってからだった。
中学さえ卒業してしまえば、あのことを知っている人は周りにはほぼいなくなる。
姉と違う高校にさえ入ってしまえば変態と蔑まれ、汚物を見るような目を向けられることはない。そう思っていた。
しかし。
そんな甘い考えは通らない。高校に入っても尚、俺は『寝ている姉を辱めた変態』というレッテルを貼られ続けることになったのだ。
何故か。その答えはすぐに見つかった。
俺と同じ高校に進学した一人の女子生徒が、ご丁寧にも学校中に広めてくれていただけ。
元々は出身中学の話をしていて、その流れでクラスメイトだった俺のあの件の話題になったらしい。そこから広まり、学校中へ。
当然、中学時代とは違ってなんでも鵜呑みにする馬鹿ばかりではない。過去の過ちだと言って気にせずに接してくれるクラスメイトもいれば、「お前がそんなことするとは思えない」と言ってくれる友達もいた。
だが、拙かったのは俺の反応だ。
その話が広まっていると知ったとき、心がぽっきりと折れた。
信用が一気に失墜した中学生活、その信用を取り戻すのに3年間丸々費やした。品行方正を心がけ、どれだけ先生に邪険に扱われようと真面目に授業を受けてテストでも高い点数をキープした。
どうしようもなく疲れて、心が折れそうになってしまった時は創作物に逃げた。好きなラノベを読み、ストレスを発散してまた頑張った。
中学の3年間だけでも地獄のようにしんどかったというのに、それがもう3年間。時々自殺すら考えるほどに辛く、苦しい日々がもう3年。
しかも、やっと開放されると思った直後。
そう思った途端に心が折れたのだ。
そして、少ししてから気付いた。折れた拍子に自分の心からいくつかの感情が欠落したことに。
幼い頃に受けたショックなどが原因で人格が分離したり言葉を失ったり…。大きな衝撃が原因で精神に大きな傷を負うことは珍しいことではない。
俺が失ったのは、あらゆる軽微な感情。仔猫を見て「かわいい」と思うこともなければ、どこかを怪我をしても痛みはすぐに気にならなくなる。緊張することもなければ、何かに高揚感を覚えることもない。
ただ、その代わりに俺の心の大部分に存在しているのは何の説明もなしに自分の人生をぶっ壊した姉への憎悪だった。
俺の心を『何故』の二文字が支配していたのと同じように、今度は姉への憎悪で真っ黒に染まっていた。
あの日まではいつも花のように笑っているその顔を見ると同じように幸せな気持ちになったものだが、今ではその顔を頭に思い浮かべるだけで心臓が破裂するように大きく弾んで痛む。
脳が焼けるほどの憎悪に支配され、呼吸が浅くなって立ちくらみがする。なんとか別のものに意識を集中し、辛うじて自我を保つ。
本当に俺が犯人だと確信しているのか、否か。是ならば、その時俺と思われる人物に何をされたのか、本当にそれは俺だったのか。否ならば、何故俺を陥れて人生を滅茶苦茶にしたのか。
それを訊いた上で今や大衆に綺麗だともてはやされるその顔面を一発ぐらい殴ってやらないと気が済まない。
そうして姉への復讐を済ませてやっと、俺の人生が始まるのだと信じて――――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます