殺し屋と標的

「今夜は…月が、綺麗ですね」

「―――え?」


月明かりの中、二人の男女が仲睦まじく寄り添っている―――なんてロマンチックな状況では決してない。いや、はたから見ればそういった状況に見えなくもないが…


とにかく、少なくとも今日は新月。そして、闇夜の中で密着する二人は恋人なんかではなく殺し屋と標的だ。


「ッ…!?」


標的の突拍子もない言葉に思考をかき混ぜられ、完全に惚けていた殺し屋プルートが怜の手を振りほどき、一足飛びに離れて3mほど距離を取る。


「死んでもいいわ、なんて言うとでも思いました?」

「おや、まさかその返しを知っているとは。いや、流石に『I love you』って意味じゃないですよ。言葉通りの意味で言ったんです」


淡々と語る怜の言葉を受けてちらりと空を見るプルート。しかし、雲ひとつない晴れた夜空には美しい月はひとかけらも見えない。


「月、見えませんけど?」

「だからいいんじゃないですか。『太陽と月』『光と陰』なんて言われてるくせに太陽が見えなくなった途端に自分の存在を主張する満月なんかよりよっぽど美しい在り方だと、僕は思いますけどね」


絞り出したプルートの言葉に、終始飄々とした態度で語りかけるように答える怜。

プルートの警戒心がけたたましいほどに警鐘を鳴らす。今、まさに殺されようとしたところなのにその殺人未遂犯に向かって『月の美しい在り方』について語るなどとても正気の沙汰とは思えない。


「あなたは――」

「あ、その前に少しだけいいですか?殺し屋さんとゆっくり話すのも吝かではありませんが、こちらを監視するストーカーを先に撒いておきたいもので」

「…ストーカー?」

「ついてきて下さい」


そう言うなり、怜は身を翻すと彼のアパートともコンビニとも違う方向に勢いよく駆け出した。


「あ、ちょ!」


急いで追いかけるプルート。脚の速さにはそれなりに自信があるつもりだったが、ダンスのステップを幻視させるような軽やかな足取りで走る怜に全く追いつけない。それどころか怜はプルートがついてこられるように時折ペースを落としているといった始末だ。


そんな怜の行動に疑問を持ちながらも追いかけ続けること約10分ほどだろうか。結局二人は辺りをぐるっと回って元の場所の近くに戻ってきていた。



「はぁ…はぁ…で、ストーカーってなんのことですか…」


ようやく怜が足を止めたのを確認し、近くのコンクリート塀に体重を預けながら奇行の理由を問うプルート。それに対し、怜は道の反対側のコンクリート塀にプルートと同じ様にもたれかかって何度か大きく深呼吸して息を整えてから答える。


「僕のじゃないですよ。ストーカーが追いかけてたのはあなたです」

「私?なんで…」


別に普段から化粧したり愛想を振りまいたりしているわけではないのでプルートにストーカーなんてつくはずもない。


――つまり…か。


「その前に一つ訊きたいことが。僕はどうしてあなたに殺されなければいけないんでしょうか?」

「依頼が、あったから…」


未だに呼吸が整わない。同業の人と戦闘になることは時々あったが、ここまで長時間全力疾走したのは何年ぶりか。プルートは思考の隅で「もうちょっと体力つけなきゃな…」なんてことを考えていた。


「依頼、ですか。誰からですか?」

「それは言えない…と言いたいところだけど、ですよ」

「僕から?…ああ、そういうことですか」


怜は自分の顎に手を当て、納得したように何度か頷く。

本来なら依頼人が誰かなんて標的に漏らすなんてご法度だが、プルートを嵌めようとしている相手な上に本人の名義で依頼してきているのだ。に対して依頼人が誰かを漏らして何が悪い。


「…何を?」


伏せていた顔を上げた怜は、再びプルートに向かってそう尋ねた。


「何って…あなたを殺すんですよ。それが私の仕事ですから」

「ああ、そうでしたね。どうぞ」

「それでは遠慮なく」


口ではそう言っているしプルートを警戒しているようにも見えないが、もちろん怜は殺される気などさらさら無いだろう。


――さっきみたいに―――さっきだって別に気を抜いていたわけではないが―――腕を掴まれるなんてことがないように、標的の一挙一動に細心の注意を払って――



先ほどまでもたれかかっていたコンクリート塀を蹴り、標的に向かって一気に駆け出すプルート。瞬間的に加速したプルートは刹那の間に間合いを詰め、完全に油断している獲物の首元に向かって右手のナイフを―――


「へっ?」


次の瞬間、何かを踏んだ感触と共にプルートは大きくつんのめっていた。一瞬何が起こったのか理解できなかったが、体勢を崩したお陰でその原因である転がるスチール缶が視界の隅に映った。


――転んだ?私が?そもそも、さっきまでそんなところに空き缶なんて…


プルートの頭の中でそんな疑問がぐるぐると回り続ける。


「うあっ!?」


咄嗟に受け身を取ることすらできず、怜の背後のコンクリート塀に強かに頭頂部を打ったプルート。怜はいつの間にかプルートのナイフの射程圏外にいる。明滅する視界、薄れゆく意識の中で最後に認識できたのは、怜が憐れむように零したこんな言葉だった。


「あなたはきっと――殺し屋には向いていない」

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