金曜日はカレーの日
白身
金曜日はカレーの日
これは私が市営住宅の隣に住んでいた頃の話です。
あれはA町にある○○団地の、確かE棟でした。A棟からD棟は五本くらい道路を渡った先に建っているんです。E棟だけ土地の都合とかで、離れたところにありました。他の棟よりも小さめで、外壁もうっすら黄ばんでいて、古びていました。
団地は子供が多いだろうと思っていましたが、普段はむしろ静かで、出入りするのはシルバーカーを押して歩くお年寄りくらいでした。昔からの住民さんだったのでしょう。私のアパートともご近所トラブルもなく過ごしていました。
ただ気になるのは、毎週決まった曜日、決まった時間に、においが流れてくる事でした。
嫌なものじゃありません。カレーの香りです。金曜日の二十二時頃になると、決まってカレーの香りが流れてくるんです。冬場に窓を閉め切っていても、必ず感じました。
初めは同じアパートの人かと思ったんですが、たまたまE棟の前を通ったら、玄関の正面ドアガラスにこんなポスターが貼られていたんです。
「金曜日はカレーの日」って。
その文句が上に大きく書かれてて、下に子供や動物たちがカレーのお皿を囲んでるイラストが描かれている。そういうポスターです。じっくり見た訳じゃないですが、「集いの機会をもちましょう」みたいな文句も下に書かれていました。
これか、と思いました。あるでしょう、団地の集いとか、老人クラブでの食事会。金曜日に定期的に集まってカレーを作っているんだ、と納得しました。
それからはカレーのにおいを嗅ぐと、ああ金曜日だなと思うようになりました。みんなカレーだけで飽きないのかなとも思いましたが、昭和の家庭の香り、みたいな懐かしさも感じていました。うらやましいな、って。
引っ越してもうじき一年という頃、私は仕事である研修に参加しました。同じチームになったKさんとお弁当を食べながら話していると、「A町に住んでるの?」と驚かれました。
「私も子供の頃、A町の団地に住んでたの。○○団地わかる?」
「知ってます。って言うかうち、そこの隣ですよ。集まってる方じゃなくて、一棟だけの方」
「E棟?」
ぎょっとしたようなKさんの顔に、私も少し驚きました。確かにA棟からD棟は外壁もきれいで、日当たりもよくて、子供たちの遊ぶ声がよく響くような賑やかさでした。E棟はあれに比べればひっそりしているけれど、何か問題でもあったんでしょうか。
「何かあったんですか? ちょっと離れたところにありますけど」
「いや、何て言うか、あそこ…E棟ねえ、嫌な話なんだけど、一家心中が出てたんだよね」
取り壊しの話もあったから、まだあるんだって思っちゃった。そうKさんは言いました。
「私の家がD棟に入った少し後かな。その家は母子家庭で、お母さんは朝から晩まで働いてたんだって。忙しいと自治会の事なんてなかなかできないでしょ?」
「まあ、無理ですよね」
「でもE棟の自治会は、あそこ一棟だけって事もあるけど、閉鎖的でさ。色々悪く言ってたらしいよ。子供たちもいじめられてたみたい。何だったかな、ご飯を作ってみんなで食べようって集まりがあって、毎週やってたそうだけど」
カレーだ、と私は思いました。子供と動物がカレーを囲んでいるあのイラストが、頭の中に浮かび上がってきました。
「その家の子供たちが来ても食べさせないとか、そういう事をやったんだって。お母さんも疲れてて、行き場がなかったのかな。集まりがあったその夜に、農薬を入れたご飯を子供たちと食べて…」
「そんな事があったんですね」
Kさんの話を遮るように私は相槌を打ちました。もう自分のお弁当を食べるどころではありませんでした。ただ、気になる事がひとつ残っていました。
「でも、言い方が悪いですけど、それだけで市営住宅を取り壊す話になりますか?」
「うーん、私も子供だったから詳しくないんだけど、他にも色々あったらしいんだよね」
首を傾げながらKさんは続けました。
「火事とかもあったし…。ああ、あと、その食事の集まりを再開したら、食中毒で何人か倒れたとか、亡くなったとか…」
何で金曜日にあんな話を聞いてしまったのだろう。私は後悔しながら帰り道を歩いていました。
いつもと逆側の道を歩くようにしました。我が家とも逆側になりますが、E棟からなるべく距離を取りたかったのです。まだ日が明るい時間帯で、人通りも多いのが幸いでした。
よく考えたら、カレーの香りが流れてくる時間帯は二十二時頃です。お年寄りや子供は寝入っていてもおかしくありません。そんな時間になぜ、という事はなるべく考えないようにしました。
しかしE棟の前を通らないよう、遠回りしようと思っても、我が家はその隣です。横断歩道を渡りながら、私は横目でちらっとE棟の方を眺めました。正面玄関には、いつもと同じ、あのポスターが貼られていました。
「金曜日はカレーの日」
最初に見た頃よりも、ポスターは随分と古くなって見えました。四隅が黄ばんで、色が褪せて、イラストの子供や動物たちの笑顔は、目と口の区別も尽きません。
その顔が、私をじっと見つめているように感じました。
私は道を引き返しました。その日は友人の家に泊めてもらい、以後も金曜日の夜はなるべく外出するようにしました。契約期間は幸い一年だけだったので、すぐ引っ越す事ができました。
だけど今でもカレーの香りを嗅ぐと、あの市営住宅の事を思い出します。
あのカレーを作っていたのは、誰だったのでしょう。
金曜日はカレーの日 白身 @tamago-shiromi
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