四面楚歌

 四面楚歌ー。楚の王である項羽が漢の大軍に取り囲まれた際、楚の歌が漢の大軍の中から聞こえてきて「楚 (の他の者たち)は相手に下ったのか」と嘆いたことから、相手に囲まれているという意味に転じた。

 諸説あるが、この楚の歌を歌っていたのは実は漢軍がその辺から集めてきた農民で、項羽に上記のような勘違いを起こさせることが目的であった。



「正勝様、敵が攻めて参りました。物見 (偵察のこと)の報告では、相手の軍勢はおよそ4000。こちらの700の軍勢ではとても敵いません。」


「いや、大丈夫だろう。奴らとて愚鈍ではあるまい。地の利は我らにあるから、下手に手出しはしてこないだろう。実際、集落から奇襲をかける算段はついているだろう?義元様がお出でになるだけの時間は稼げる。

集落の農民兵を合わせれば俺たちの兵力は1500。十分戦えるだろう。」


「そ、それが…、すでに集落はどういうわけか突破されてしまったようで、すでに城門に敵兵が押し寄せております。」


「な、なんだと!?」


 正勝は大きく動揺した。1ヶ月待てば義元が5000の兵を連れて来る。それを信じていたのに、早くも夢が潰えてしまいそうだ。

 さらに、それに追い打ちをかけるかのような出来事が起こる。


ボォーーーーーー


 と山全体から法螺貝の音が響いたのだ。なんだ法螺貝か、と正勝は最初そう思ったが、よくよく考えてみるとおかしい。


「なあ、法螺貝を吹けと命令したか?」


「そんな命令は出しておりません。」


「な、なんだと!?集落が突破されたって言ったよな。もしかして、全て敵側に寝返ったのではないか?」


 ここに来て、話していた二人の顔が一気に青ざめる。そうとなれば相手は地の利もある5000人ほどの軍となる。とてもではないが、1ヶ月も耐えられない。


「ま、まさか忠誠心の高い農民が多い、あの集落まで裏切るとは。俺もここまでか。

こうなれば降伏して、部下の命は救ってもらおう。」


 こうして、わずか1日にして佐々木正勝は降伏。その圧倒的な制圧速度に、北条氏康を侮っていた武田晴信 (信玄)や今川義元は驚くことになった。

 特に、この件が今川家に与えた影響は凄まじかった。


「な、北条氏康はもうすでに佐々木正勝を抑えたというのか!?」


「そのようでございます。拙者の宛が外れてしまいました。申し訳ありません。」


「いや、雪斎の謝ることではない。だが、それは我にとって悪報よな。北条氏康はかなりの曲者のようだ。」


 義元と話しているのは、彼の師であり側近の太原雪斎だ。義元は兄が二人もいたため、幼い頃から仏門に入っていた。

 しかし、その兄が同時に不審死して家督相続権が回ってきて花倉の乱後に家督を相続。太原雪斎は仏門に入っていた頃からの師匠であり、優秀な家臣であった。


「確かに、北条氏康が優秀なのは間違いないことであるようです。されど、拙者の情報によると、どうやらこの速度の制圧はとある者が仕組んだことのようです。」


「どういうことだ?」


「北条には閃撃部隊という部隊がありますが、ご存知ですか?」


「ああ、もちろんだ。あれは相当強いらしいじゃないか。」


「その部隊の長である杉浦綱憲の嫡男・道之助とやらが策を立てて降伏に追い込んだとのことです。」


「む、確か杉浦の領土は伊豆の海側にあったな。かように優秀であるならば、ぜひともこちらに味方するよう促さねばならないな。」


 義元と雪斎は悪い顔をしていた。後世ではかなりいい加減な描かれ方もしているが、実際には義元は内政手腕にも戦闘の指揮にも長ける名将だ。このように、謀略や調略も使いつつ北条を切り崩す方法を模索していた。



〜〜〜〜〜



「ま、まさか本当にあの方法で攻略してしまうとは。恐れ入りました。あなたは閃撃部隊を継ぐに相応しい将です。」


「いやいや、あれと閃撃部隊はまた別でしょう。」


 通泰に褒められて、俺はこそばゆいような感情になった。だが、本当に上手く行ってよかった。

 後にわかったことだが、籠もっていた佐々木正勝はすべての集落が裏切ったと思ったらしい。実際にはそうではない。

 最初の集落の農民から聞いた情報によると、特に城に近い三つの集落は佐々木の息がかかっていて、裏切るとは思えないとのことだった。時間もなかったので、そこを調略している暇はないと思った俺は、単に法螺貝だけを農民経由で渡してもらい、「攻め来る北条家に少しでも兵が多いのだと思わせるためにこれを一斉に吹いてほしい」と依頼させた。

 すると、何の疑いもなく法螺貝は一斉に吹かれ、それを聴いた正勝はまんまとすべて裏切ったというふうに錯覚したというわけだ。


 お縄にかけられた正勝は真実を知ると、頭から蒸気が出んばかりに怒っていた。一世一代の大決断をして裏切ったのに、俺のような小僧にあっさりと夢を潰されてしまったのだ。怒って当然だ。

 正勝は氏康の寛大な措置により追放刑に処された。そして、


「おい道之助。お前よくやったな。褒美をやろう。」


 と氏康は俺を褒めちぎり、活躍の報酬として知行を1000石も増やしてくれた。これでうちの家の支配石高は4000石。北条家の中でもそれなりの地位を築けているのではないだろうか。

 印象的だったのは多目元忠が俺を見て、謝ってきたことである。


「道之助、あの時のことは本当に悪かった。申し訳ない。俺は農民だからと言って彼らを軽蔑していた。

だが、それは間違っているとわかった。お前は本当に優秀だ。これからも仕事をしていく仲になるだろうから、仲良くしたい。」


 かなり虫の良い話だが、これで腹を立てたりする必要はない。格としては未だ彼の方が上。普通なら彼が権力を振りかざして潰しに来てもおかしくはないのに、協力しようと持ちかけてきているのだ。


「ええ。過去のことは水に流して仲良くやっていきましょう。」


 とほほえみながら握手を交わした。それが元忠には妙に不気味に映ったようで、警戒するような表情を浮かべていたが、馴れ合いになるよりは良い。兎にも角にも、この戦いで俺の評価が覆ったことに疑いはない。

 ただ、父上はやはり俺を認めようとせず、頑固に俺を罵り続けた。この世界に来る前から親からは罵倒されていたからこの程度何とも思わない。

 むしろ、母上は、


「よく頑張ったね。殿はあんなんだけど、母上はちゃんと見てますよ。」


 と、俺を優しく勇気づけてくれている。良い母親だなあと常々感じている。



〜〜〜〜〜



 この事件からも、俺は武芸を磨き続けた。佐々木正勝の乱では、死傷者が一桁で収まる程度しか出ておらず、実質的に俺は初陣をしたとは言えない。人と真剣で斬り結んだこともないし、戦闘の真の恐ろしさみたいなものを知らなかった。

 そのため、俺はただひたすら己を鍛える道を選んだ。座学はやり尽くし、通泰の戦術理解を超えるようになった。彼に教えてもらい終わってからも、研究を行っているものの、やはり実戦経験がなければすべて机上の空論となる。


(戦場に出てみたい。)


 不謹慎にもそう思い始めた時、今度は関東全域を巻き込むような大きな事件が起こり始めていた。


 佐々木正勝の乱から3ヶ月ほど経った。乱から1ヶ月後ぐらいには今川義元の使者と名乗る人物から裏切りのお誘いがあった。もちろん断ったが、当主でもない俺にお誘いがピンポイントに来るというのは実力を認められているということでもある。多少嬉しかった。

 そのことを氏康に報告すると、


「そうか。義元の野郎に誘われたのはお前を含めて三人目だ。お前、富永、清水。いずれも俺の優秀な部下だ。」


 氏康はそんな返答をした。


「なぜ、今川義元は我々を裏切らせようとしたのでしょうか。」


「河東がほしいんだろうな。」


「富士川以東の領土ですか。」


「そうだ。父上が今川からぶん取って以来、あれを取り返すのが義元の目標になっていたんだろうからな。」


「では、今川義元が近く、動き出すということでしょうか。」


「あぁ。間違いなくそうなるだろう。数日前、武田晴信経由で義元は河東の移譲と和睦の締結を打診してきた。

奴は策士でな。俺たちが関東で嫌われてるのを知ってるから、関東の他の勢力と連携するような動きを見せながら打診してきたんだ。つまり、断ったら挟み撃ちにするぞってな。」


「流石に今川義元と両上杉に囲まれてはまずいことになります。断ってよろしかったのでしょうか。」


 河越夜戦を知っている俺からすれば、断るということはあの地獄みたいな状況を誘発することになるわけで、止めたいと思った。しかし、


「もちろんだ。はっきりとした勝算があるわけじゃねえが、この問題はいずれ俺たちに降りかかる問題になる。上杉は武田と俺たちを敵視していて、他の里見、佐竹、足利、小田なんかも同じことだ。

だとしたら、ここで譲歩を重ねて国力を削られていくよりも国力があるうちに相手してやったほうがいい。」


 という彼の言葉を聞いて、やはりこの人は違うなあとしみじみ感じた。目先のことに囚われず、長期的な視点で物事を見ている。頭が本当に良いのだろう。


「御屋形様、例えあなたが地獄へ飛び込むことになっても、私は喜んでお供します。」


 俺はそう言って彼の決断を後押しした。

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