杉浦道之助

「き、記憶がないんですか…?」


 家臣たちはじりじりと後ろへ下がった。母親と思しき女性は、


「源次郎!おい母上ですよ、しっかりなさってください。」


 と俺に近づいて顔をピシピシと叩いている。きっと物理的に血はつながっているのだろうが、精神的には全くの他人。鬱陶しくなった俺はムッとした顔をして彼女を下がらせて改めて状況を整理した。

 俺はおそらく、戦国時代に転生した。だが、その転生は、存在しないはずの人を創り出すわけでもなく、現世の俺が俺のまま転生するわけでもなく、戦国時代に生きていた人に俺が乗り移るという転生だったようだ。


「おい若えの、やはり今までのことは思い出せねえか?」


 少し考え込んでいたが、ふと、部屋の奥の方から声がした。よく考えれば、この部屋に入ってすぐに衝撃的なことを言われたので、どんな部屋なのかすら確認していなかった。

 部屋の奥を確認すると、そこには顔に傷の入った男がこちらをじっと見ていた。無造作で整えられていない長髪はまるで獅子のたてがみのようだった。見ればわかるような覇気というか、オーラも放っていた。

 あの道場で見た男と同じ。間違いなく、彼こそが北条氏康だろう。そうとわかると、緊張で声が震える。震えながら、


「は、はい。正直、自分の名前すら全く覚えていません。」


 と言うと、彼は再び沈黙した。母親らしい人物や家臣らは必死に俺に何か覚えていないか訊いたり、あるいは思い出を話して思い出させようとしている。だが、全く思い出せないし、ひたすらに鬱陶しい。そういった心情を悟ったのか、氏康らしき男は、俺に、


「おい若造。お前に訊くがお前はどうしたいんだ?今のまま生活を続けるか、この杉浦家に戻るか。」


 と訊いてきた。俺は悩んだ。親が敷いたレールの上を歩いてきた俺は、決断に慣れていない。初めての決断がここまで人生を左右するような重要な決断になるなんて。運命を恨んだ。


「判断材料が欲しいか、若造。」


「はい…。申し訳ありません。ところで、貴方は北条氏康様でいらっしゃいますでしょうか。」


「あぁ、俺は北条新九郎氏康。若造も名乗ってみろ。」


 名乗ってみろ。これはつまり、俺がどうするかということへの返答をしろ、ということだろう。


「なあ若造。名前は、家柄はいつでも捨てられるもんだ。だがな、それを得るには何年あるいは何十年という月日が必要になる。

お前がどういう経緯でここにいるのか俺にはわからねえが、とりあえず得られそうなもんは得ときゃいいんじゃねえか?」


 氏康は追加してそう言った。彼の言葉は、まるで俺の状況をすべて知っているかのような言葉であった。


「私の名は…、杉浦道之助です。」


 1分ほど経って、俺から出たのはそんな言葉だった。都合がいいかも知れないが、俺は杉浦という家に入りつつ、道之助として生きていきたい。そんな願望を今の言葉に込めた。それが伝わったのか、


「ふふ、面白い若造だな。杉浦道之助か。覚えておこう。おい、杉浦家の者どもよ!今日からそいつは杉浦道之助康政だ。

気に入ったぞ、道之助。お前の名は覚えておこう。」


 と高笑いしながら氏康は言い放った。信長がうつけと罵られていたことは周知の事実だが、この氏康という人も、河越夜戦で実力を示すまではうつけだと言われていた人物だ。

 そのうつけという名はこういう破天荒なところから来たのだろう。杉浦家からしたら、勝手に俺を改名して、杉浦源次郎という人物を否定されたことになる。納得できないかもしれない。



(以降、母親らしき人物を母上、父親らしき人物を父上を呼称する。)

 だが、母上やその家臣らはとにかく俺が戻ってホッとした気持ちが強いのかもしれない。話を聞くと、どうやら俺が唯一の男の子供らしく、俺がいないと最悪の場合、お家断絶ということになるらしい。


「し、しかし今までのことを思い出せないとなるとご主人様がなんと仰るか…。」


 帰り道、家臣らがそう言っている。なぜ、父親がいないのだろうかと思っていたのだが、その答えは領内の屋敷に行ってわかった。

 父親は寝たきりであった。意識はあって、起き上がってしゃべることはできるようだが、もうじきに死ぬらしい。俺の記憶が失われたことを知ると、


「源次郎!貴様何を言っておるのじゃ。ふざけるなよ貴様!」


 物を投げつけて俺に怒鳴りつけてきた。そんなこと言われても…と言いたいのをぐっとこらえて、黙って彼を見つめていた。


「しかも貴様勝手に改名しただと…?誰の許しを得て改名しおったのだ。」


「それは氏康様です。」


「氏康様のことは御屋形様と呼べと教えたよな。それも忘れたというのかッ!」


 完全に怒りに支配されてしまっている。まともな話し合いはできそうもない。


「あなた、み、道之助は御屋形様が改名したのですし、疲れているだけですよきっと。記憶が戻るのを待ちましょう…?」


 そうやって母上が父上を抑えようとしていたが、彼は全く言うことを聞かず、喚き散らしている。

 それに延々と辛抱して一時間ほど。ようやく俺たちは解放され、自室で就寝できた。馬に乗れないので、家臣が乗る馬の後ろに乗ってかれこれ5時間以上かかってこの領内に着いた。おかげでクタクタだ。

 俺は元々枕が変わると寝れない質だったが、このあちこちを転々とする生活のせいでどこでも寝れる男になってしまった。まあ、そんなことはさておき、翌日からは俺の猛特訓が開始された。


「若、今日から若には剣術や戦術の指南が必要だということで、その役目を私めが仰せつかりました。

覚えていらっしゃらないと思いますのでもう一度紹介させていただきますが、私の名は筒井 通泰(みちやす)。この閃撃部隊の副部隊長を務めております。」


 この通泰という男は三十代前半ほどに見え、現代的に言うと細マッチョという分類になりそうなダンディだ。目には芯があり、かなり強い男だろう。


「すいません、閃撃部隊というのは何ですか?」


「け、敬語はお止めくださいませ。

閃撃部隊というのは、先代の北条氏綱様が作られた戦闘部隊です。若のお父上である綱憲(つなのり)様が初めは10名を自由に指揮する権利を得たところから始まった部隊で、様々な戦に出て功を立ててきました。

結果的に、少人数で閃光のように攻撃をするということから縮めて閃撃部隊と呼ばれるようになり、規模もかなり拡大しました。」


「つまり、精鋭部隊ということなのですね。」


「ええ。ですから、敬語はお止めください…。」


 敬語を止めるかは前向きに考えようと思うが、それよりも問題なのは俺がそんな精鋭部隊を率いなければならないということだ。だが、


「んー、とりあえず、指南というのをしてもらえますか?」


 あまり考えて過ぎても仕方ないということで、指南を受け始めた。指南は極めて過酷で、剣術では初日から手にまめができ、体中にあざができるほどに追い込まれた。


「まだまだですぞ。筋は良いですが、以前の若ならばこれぐらい難なく受け止め、反撃してきました。」


 俺が必死で彼から放たれる攻撃を受け止めたりかわしたりして、何とか反撃をしようとしているのに、彼は涼しい顔でその指南を続けている。単純に比較するのは難しいが、斬り合いをするなら彼は綱成と同じレベルの武士かもしれない。素人目にも彼が強いのがわかる。


「さて、一刻 (2時間)ほど経ちましたし、そろそろ休憩して戦術の方に行きますか。戦術は座学が中心となります。昼飯を摂ったらそちらに伺います。」


 本当に長い指南が終わり、昼ごはんとなった。



〜〜〜〜〜



 戦術の勉強こそ、俺の大得意分野なので上手く行ったが、剣術の指南は本当に地獄であった。少しずつ自分の体が鍛えられていき、上達していく体験というのは、スポーツに打ち込んだことのない俺からすると全くの未知の体験で、それは中々いい体験だったが、傷跡やあざが増えていくことに耐えるのは辛かった。

 だが、ここに来てよかったこともある。一つは温かい風呂に入れること。今までは基本的に水風呂や川で行水していた。それでも不満はなかったが、風呂はやはり最高だ。入るに越したことはない。

 二つ目は3食の食事が出てくること。この時代は朝夜の2食が一般的で、昼飯は上流階級しか食べられないものだ。というか、昼飯を食べるという文化が下々にまで浸透していない。3食食べる生活に慣れている現代っ子の俺としては、昼飯を食べないと午後は特にヘロヘロになってしまうので、昼飯をいただけるのはありがたい。


 しかし、その二つの理由が嫌な指南を補えるほど強いわけでもなく、早くこの地獄を終わらせたい、抜け出したいと願っていた。そうして2ヶ月ほどが過ぎ、またも事件が起きた。



〜〜〜〜〜



 俺は筒井通泰。武士であった父が小さい頃に亡くなり、当時父の同僚であった杉浦綱憲様に拾われて武功を立て、最終的に閃撃部隊の副部隊長に任命された。

 そんな俺は、杉浦家に誰よりも忠誠を誓っている自身があるし、もし綱憲様に命を捨てて戦えと言われたら死ぬことも厭わないだろう。そして、その綱憲様のご子息・源次郎様にも同じく忠誠を誓っていた。

 彼、源次郎様は聡明で体格に恵まれ、武芸に関しては北条家の中でも随一の名手になれる才能があった。だが、不幸なことに、数名の従者とともに小田原に向かう途中で山賊に襲われ、消息を絶った。


 俺は必死に彼を探した。近くを根城にする風魔党の協力も仰いで探した。手がかりすら得られなかった。

 数日経って、従者の一人が命からがら逃げ帰ってきた。その者によって一行が山賊に襲われたことが判明。ただ、その者は源次郎様は襲われてから山賊を一人斬り殺して逃げたと証言していたので、希望はあった。



 しかし、1ヶ月半ほどして帰ってきた源次郎様は変わってしまわれていた。姿形は変わらないが、記憶を失っていたのだ。18歳にして、達人級に突入していた剣術の腕は素人同然にまで退化し、熱心に勉強なさっていた戦術も何もかも覚えていなかった。

 だが、源次郎様…あらため道之助様の成長は凄まじいものがあった。彼は以前よりも数段頭が良くなったように感じる。むしろ、俺が見てきたどの人物よりも頭が良いかもしれない。

 戦術のことを教えると、何でもかんでも丸暗記してしまい、応用力も凄い。運動能力は低くなったようにも見えるが、剣術に関してもうまく頭を使っているようで、普通ではあり得ないような上達の仕方をしている。

 斬り合いはまだまだだが、立ち回り方は以前よりも上手いほどだ。さらに、少し粗暴だった性格が一転して大人しくなっており、礼儀も正しい。ずっと俺に敬語でお話しなさるのは難点だが。



 以前の源次郎様も男らしく、武士らしい人物であったが、今の道之助様は道之助様で俺は素晴らしい人物であると思う。よく、彼は農民の話をしてくれる。農民はこのように苦しんでいるとか、ここを直すべきだというような話である。そこまで農民を慮(おもんばか)れる武士がどれだけいるだろうか。

 俺は道之助様を尊敬している。源次郎様よりもだ。最初、俺は彼の記憶がなくなったと聞いて、道之助様があまりにも閃撃部隊に向かないならば刺し違えようと思っていた。100人の部下を預かるのだ。無能では務まらない。だが、彼は全くそうではなかった。戦術に関する理解はすでに以前を超えているし、優しさに満ちあふれている。剣術さえ何とかすれば先代を軽く超えれるだろう。

 故にこれからも、彼のことを支え続けるし、もっと家を守り立てようと思う。全ては杉浦家のために。

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