鍬奉行
奉行になって、翌朝から本格的な仕事に取り掛かった。
「基本的にお主がやることは次のとおりだ。
鍬を渡す村を把握する、鍬を配る本数を決める、鍛冶屋に発注する、それを書類にまとめる、鍬を配る段取りを決める。以上だ。
こうやって言えば単純で少ない仕事に聞こえるかもしれないが、実際の仕事量は多い。さらに申し訳ないんだが、今は人員がいっぱいいっぱいでお主の仕事に回せる者がおらぬ。鍬を配るのには他の人員を手配するが、ほかはお主一人でやってもらうことになる。」
幻庵はそう言った。彼は、
(こやつの腕をはかるためにも、時間がかかってでもこやつ一人にやらせてみよう。)
と考えていたようだが、その時の俺はそれが普通だと思っていた。
「とりあえず、配る鍬の本数を決めたら儂のところへ報告しに来てくれ。」
部屋を出る直前で幻庵にそう言われた。
俺の作業のために用意された部屋は10畳ほどの一室で、中にはちゃっちい机のようなものと書類を書くための硯と筆とその他書くための用具一式が置かれている。
配る村の範囲は幻庵によって決められているが、それに対してどの程度鍬を支給すればよいかは計算しなければいけない。なので、資料室に行って村の資料を持ってくる必要があった。
資料室には若い管理人がおり、俺に言われた通りの資料を出してきた。一気には持てないので、とりあえず近くの村3個分の資料を取り出してもらった。そこまでは良かったのだが、その帰りにその管理人が俺の後ろから、
「なあ、お前農民なんだろ。」
と言葉を投げかけてきた。その瞬間、ああこういうのが来てしまったかと反射的に思った。
というのも、綱成からも言われたのだが、この時代の農民や商人・職人は武士からは差別される対象であった。綱成ほど飛び抜けて偉ければ、武士であることへの自尊心などないのかもしれないが、ここでお役所仕事をしているような奴らはそれがある。
「お前みたいな土の臭いがする芋野郎はここにいる資格なんてねえんだよ。どうやって綱成様に取り入ったかしらねえが調子に乗るなよ。」
俺が名ばかりの役職ではあるが、すぐに奉行に就任したことへの嫉妬もあるのだろう。そんな罵詈雑言まで浴びせられた。俺は無視して本を自室へ運んで事なきを得たが、もやもやした感情だけが残っていた。
〜〜〜〜〜
その後、俺は一日かけて指定された15個の村の資料を読み漁り、鍬のおおまかな発注本数を決定した。俺が思ったよりも大変な作業であった。
まず、村の人口と耕作地の面積を見る。ここまで作業してきたので大体基準がわかってきたが、この作業を始めた俺にはその数字が多いのか少ないのかすらよくわからなかった。
次いで、その村の地質に関するざっくりとした記述を頼りに、鍬の本数を決めていく。俺はとりあえず、備中鍬はどんな村であっても役に立つ物だと思うので、地質に関係なく耕作者25人に一本は必ず支給し、小山村のように粘土質で耕作できない土地があると思われる村に関してはさらに追加で5本を支給することにした。
この事業の目的は、鍬を村人全員に支給するというものではなく、この鍬の有用性を広めることにある。つまり村人に少量でも備中鍬を支給し、「これいいね!もっとほしいから買おう!」と思わせるということだ。
その本質を見抜けない人にこの役目はできないだろうし、その広める基準を設けないといけないという点で難易度の高い仕事だ。
さて、その日は12時間ほどその作業をひたすらやり続け、翌日になってから幻庵に報告しに行った。書類をまとめるのは意外に楽な仕事であった。計算を頭の中でしてから他の資料を見ながら書き方をパクり、あとは書くだけだ。元々俺は勉強ばかりさせられていたから集中力や計算力は人よりも優れていると思う。なので早めに終わったかもしれない。
部屋に入ると、
「やはり無理だったか?綱成の推薦ということで期待したんだがその仕事は難しすぎたかな。」
彼は俺を煽るように言っている。なんだ、コイツも俺のことが気に食わないんだなあと呆れながらも、俺は、
「いえ、そういうことではなく、報告しろと仰せつかったところまで仕事が終わりましたので、報告させていただきたく参りました。」
と言ってつらつらと昨日やったことを報告していく。発注する鍬の本数、なぜその鍬の本数が必要なのか、そして丁寧に大体の予算も計算しておいた。以前惣次郎に発注した時の金額を元に計算してみた。
「そ、それをお主一人でやったのか?しかもたった一日で…。」
「え、ええ…。そうですが…。」
「ぐぬぬ…、確かにお主のやった仕事は正確だ…。これほどやれるとは。」
改めて俺の作った書類を見て、幻庵は唸る。とりあえず俺のやったことは認められたようで何よりだ。
「よし、わかった。これだけの費用なら出してみる価値はありそうだ。すぐに手配しよう。次は鍛冶屋の者に話をつけてきてくれないか。」
「私の馴染みの鍛冶屋でもよろしいでしょうか?」
「あぁ。お主のしたいようにすれば良い。間違いだけはないように頼むぞ。」
こうして、俺は鍛冶屋に向かうこととなった。
〜〜〜〜〜
「殿、例の鍬を開発した者の話ですが…。」
道之助が幻庵に報告した直後、幻庵はそのことを氏康に報告しに行った。
「おう、こんな昼間からどうしたんだ?爺は毎度毎度夜に用件があると来るから油断してたぜ。」
「まだ儂は爺などと呼ばれる歳ではござらん。やめていただきたい。
それより、その者なのですが、奉行になってから、儂はその者にほとんど無理難題を押し付けたのです。普通の新参者では1月かかっても出来ないような仕事の量を押し付けました。」
「うむ、なぜだ?」
「一人でやらせればその者の力量が測れるかと思いました。
しかし、その者はたった一日でほぼ完璧に仕事を仕上げてきました。儂は詳細も言っていないのに、です。この仕事をやり遂げた後、どうされますか?」
「あぁ…?雇うに決まってるだろ。優秀な人材は雇うに限る。爺はそいつが農民だってことを危惧してるってわけか?」
「ま、まあ…。反対する声もありまして。」
「そうか。身分や出生で決めるなんて下らねえことだとは思うが、下っ端武士どもにも小せえ矜持があるんだろうな。まあ、この件に関しては俺に任せておけ。少し心当たりというか、気になることがある。」
「気になることですか…。」
幻庵は目をパチクリとさせている。
「そうだ。杉浦家の嫡男が失踪したんだ。」
「知っております。ということはそこへ養子に出すということですか?あの家は名家にして北条の中でも格が高い。流石にそれはやめておいたほうが…。」
「違う違う。そんな無茶はしない。まあ見てろよ。」
〜〜〜〜〜
前と同じ鍛冶屋に着くと他の店員のような人物が店番をしていた。
「惣次郎って職人に代わってほしい。」
そう伝えると、彼が奥の部屋から不機嫌そうに出てきた。
「誰だよ、この俺を呼ぶっていう奴は。」
そんなことをぼやいていたが、俺の姿を見ると、一転して笑顔になり駆け寄ってきた。
「なんだよお前か!どうだ?あの鍬の出来は!」
密かに彼もあの鍬に期待していたのだろう。嬉しそうに尋ねてくる。
「ああ、あれは上物でしたよ。それで、今日ここに来たのはあれをもっと発注しようと思って来たんですよ。これが発注書なのですが…。」
彼は無造作にそれを受け取り、中身を見る。そしてその発注本数に度肝を抜かれたようだ。人口およそ12000人がいる範囲に配るので、その本数は500本に及ぶ。凄まじい数であった。
「すごい数だ…。っていうかお前奉行になったのかよ…。どんな昇進の仕方だよ…。」
「あぁ…、まあ色々ありましてね。奉行といっても、身分としては農民も同然ですのであまり良いものではないんですけどね。」
「なるほど。鍬の件で昇進したわけか。本当におめでとう。
それでなんだけど、これだけの鍬を作るのはかなり難しい。こっちもできる限り人を動員して作るけど、あんまり暇してる職人もいなくてね。
一日10本としたら二月弱もらいたい。それでもいいか?」
2ヶ月弱。俺が想定していたよりもむしろ早いぐらいだ。
「よし、ありがたい!小田原の中央役場にいるから終わったら言ってくれ。」
「おう、わかった。最長でその期間ってだけだから、もっと短くなるかもしれない。期待して待っててくれよ。」
予想通り、発注はすんなり終わった。あとは書類を書いて配る段取りを立てるだけだ。初めは文字を書くのにかなり手間取っていたが、元々習字をやっていたこともあって慣れは早かった。書類は問題なく書けそうだ。
しかし、配給の段取りとやらは流石にやり方がわからない。書類をその日書いて寝て、次の日はひたすら困惑する一日となった。もう幻庵に聞こうか、そう考え始めた時にまたも衝撃的な事実が俺を襲った。
それは幻庵のところへ行く決心をした夕暮れ時のこと。蠟燭の火と夕焼けだけが差し込む1階の辛気臭い部屋に3人ほどの武士が駆け込んできた。
「あなたが道之助殿でございますか?」
武士から敬語を使われたのは初のこと。俺は不思議に思いながらも、そうですと答えると、
「よかった。小田原城へとお越しください。お話したいことがございます。」
と、言われた。次こそ何かしでかしたせいで殺されるのかとも思ったが、殺すやつに丁寧に挨拶はしないだろう。
「それはいいですが、何の御用で…?」
と彼らに訊いたが明確な回答は得られず、ずるずると小田原城へと連れられた。
初めて間近で見る小田原城。立派だった。この時代にこんな豪勢な建物があることが不思議だった。他の建物と比較すればその豪勢さは異様な域にすら達していた。
現世に残る小田原城は再建されたもの。それも実際の小田原城を忠実に再現したわけではなく、本物の小田原城の方が石垣が高く積まれ、荘厳だ。
小田原城に圧倒される俺に構わず、3人の武士たちは城の中へと俺を連れて行く。そして、城の大広間に俺が入ったところで、
「あぁ、源次郎!」
と俺を呼ぶ中年の女がいた。源次郎…?誰だよそれ…。そんな疑問を払拭するように、その女の家臣のような武士が、
「やっとお会いできました。杉浦源次郎康隆様。あなたが失踪して以降、お父上は跡継ぎの心配ばかりされ、お母上はあなたの身を常に案じておられました。どうか、家に戻ってきてください。」
と言った。頭は大混乱に陥っていたが、状況はわかった。俺は杉浦源次郎康隆という人物らしい。いや、少し言い方を変えれば、この体の主が杉浦源次郎康隆という人なのだろう。
その人物が武士の家だとすれば、なおさら合点がいくところも多い。この体は筋肉隆々でこの時代としては明らかに身長が高い。これは武士として鍛えながらも、整った栄養を摂れる環境にいたということだ。
しかし、そうであったとしても、彼らに対して俺はどう対応すればいいのかわからない。彼らに関する記憶の一切は飛んでおり、母親と思しき人物の名前すらわからない。なので、
「じ、実は記憶がなくなっていまして…、母上のお名前すらも思い出せません。」
と明かした。
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