第7話 初めての一人暮らし

「えーと、それじゃここに名前をお願いしますね」

 黒縁眼鏡のおじさんは丁寧な説明の後記入用紙を僕に渡した。

〈野田ユキオ〉僕は初めての一人暮らしの書類になるべく丁寧に記入した。

「本当に一人暮らしで大丈夫?」

 この町に住む叔父と知り合いらしい不動産屋は心配そうに言った。

 父親の海外勤務に付いて行かない事を決めた僕に、せめて身内の近くでと言う父の提案を条件に一人暮らしをはじめる。

 この街に住む叔父、父の弟なのだが、その家族の近くで監視付の一人暮らしはじめ、高校も都内の学校からこちらへ転校となった。

 叔父の家に下宿と言う選択肢も用意されたが、あの家の娘3人に囲まれる生活はどうにも遠慮したかった。

 3人娘のパワーは僕の神経をすり減らすには十分な威力を持っているし、最近では長女や次女の2人に限らず小4の3女までもが女の匂いを撒き散らす始末で、しかも3人とも贔屓目なしにそれなりに美人ときている。

 いくら中学時の激しい思春期を乗り越えた僕でもあの環境は遠慮したほうがいい。

 半月ほど前に挨拶を兼ねて一泊したときは、彼女たちにからかわれて酷い目にあったがその事は思い出したくないのでここでは語るのを止めておこう。

「僕は幽霊とかぜんぜん信じてないので大丈夫ですよ、それにこの家賃でこの条件はかなり助かります」

 僕は不動産屋のおじさんに言った。

 そう、僕は心理的瑕疵物件、いわゆる事故物件に住もうとしている。

「いや、助かるのはこっちだよ、最近では事故物件に喜んで入る人がいるそうだけど、そんなの東京とか大都市限定でしょ。こんな地方都市はまだまだ保守的だから次に入る人が見つかるまで大変なんだよ、借主さんに申告しなきゃいけないしね、だからホント助かるよ」

 不動産屋のおじさんはかなり真剣に言った。

 正直僕もちょっとは怖い、でも事故物件だとしても駅近くの立地で学校も徒歩圏、しかも生活に必要な施設も近隣に多く、何より新品の布団一式にカーテン、照明まで付いて5万5千円は破格、父親に一人暮らしの負担をかけたくはないと言うのが本音ではある。

「ちなみにですが、この物件で亡くなったのって……」

 僕は何を聞いちゃているんだ……口にだして後悔した。

「死亡確認は病院なんだけどね、たぶん即死だったし、噂が広がって、個人情報保護で詳しくは言えないけど、女の人」

「でも、よくこんなに早く貸し出せましたね」

 事故処理も終わってないんじゃないかと疑問が残る。

「いろいろ裏ワザっていうか、条件いただいてすぐに貸し出しできたんだよ、大家さんも何とかしたがっていたしね」

 不動産屋の黒縁眼鏡のおじさんは右の頬にある傷を擦りながら苦笑いを浮かべた。

 何か意味ありげな苦笑に僕も笑って怖さをごまかす。

 いくつかの手続きを終え、僕は鍵を貰うとその足で買い物に向かった。

 まずは趣味のお菓子作りの材料も揃えておきたいと思った。

 引っ越しソバならぬ引っ越しケーキを3人娘に食べてもらおうか、などと考えていたからだ。

 勿論それだけではないのだが。

 引越し荷物は午後に届く。

 昨日見せてもらった物件をすぐに決めて父親の会社の人に頼んでいた荷物を送ってもらった。

 前の契約後1日だけの使用ではクリーニングが入る事もなくすぐに僕が入れる状態だった。

タイミングのいい仕事をしてもらった?と言っても3月の引越しシーズン終了のこの時期の成せる業だろう。とは言うものの結局ばたばたして春休み開けの転校には間に合わなかったのが惜しまれる。

 新学期の最初からと、始まって5日目からではクラスに馴染む時間がそれなりの壁を作ってしまうだろう。出来上がりつつあるクラスのバランスの中では単なる異物になる可能性もある。

 まあ、お安い物件を借りる事が出来たのでOKということか。

 などと思いながら100円ショップの前に来る。

 そういえばあの女の子にまた会えないだろうか?

 僕と同じ位の高校生だと思う、バカみたいに重いダンボールの底が抜けそうになっていたのを思いだしなぜかほほ笑んでしまう。

 たしか名前は……聞いてないか?青く長い髪に細身だが大きめの胸?って、どこ見ているいんだよと自分の煩悩を抑えつつあの子の整った顔立ちを思い出した。

 何よりも笑った顔がかわいくてついつい見とれてしまった。

 僕は惚れっぽい男なのか?

 うっかり「家に送りますか?」何て言って断られてしまった。

 そりゃあたりまえだ。見ず知らずの男子に家を教えるわけもない……でも、もしも今度会えたらお茶にでも誘おうとガラにも無い事を思い苦笑いをした。

 今までナンパなどした事もないのに、これも新しい街で初めての一人暮らしをするという経験値の低さからこみ上げる青春の衝動と言うものかもしれない。

 買い物を済ませ新しい住処に向かう。

 17才と言う人生での青臭い季節を謳歌するための住まい、事故物件なんか怖くない事にしよう、亡くなった?(本当は病院らしいがほとんど即死だと不動産屋が口を滑らせた)その人は気の毒ではあるが、どうか成仏してください、一応気合を入れ直しながら僕は近所にある神社で〈家内安全〉と書かれたお札を買った。

 三百円で安心を手に入れたのだ。

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