第53話「口数が少ないだけ」

 憧れとは目指すべき存在であり、憬とは遠くのものごとに思いを馳せることを指す。つまり「憧憬」という組み合わせにすることでどこか遠くの理想に対して何かしらのポジティブな感情を抱くという意味が発現するのである。


 「憧れで良くない?」赤が考え事をしている時特有の無の表情で言う。

 「どうした急に?恋でもしてるの?」

 「憧憬ってあるよね。なんでわざわざ難しく言うんだろうね」

 「文学少女がいまさら何を言うんだ」小さく呆れながら返す。

 鈴木赤は最近絵本にはまっている。と言うよりも既存の表現をより簡単な表現に置き換えることに熱を注いでいる。どうやら新しい脚本のネタになるようで、様々な本を読んではあれこれと想像を膨らませているらしい。特に絵本には素朴な表現が絶妙にちりばめられているようで、絵本ならばどうするかという所に重きを置いて文章を読んでいるらしい。

 「好きで良くないかと思うんだよね」赤がより具体的に言う。

 「確かにそうだね。でも小学生男児が年の離れたお兄さんを指して憧れの先輩って言うのと、女学生がひとつ上の男の先輩を指して憧れの先輩って言うのではだいぶ意味合いが違ってくるよね」

 「好きにも色々あるからね」赤が簡潔に言う。

 ここの所、鈴木赤は簡潔な言い回ししかしない。なぜならば本人がそのような表現に嵌っている為だ。話し相手のこちらの立場としてはただただ窮屈な話で、相手の表現に制約がかかっているとまともな会話ができない。〇〇って難しいよねと言う時の〇〇以外では決して難しい表現を使用しない。こんな風になってからかれこれひと月が経とうとしている。鈴木赤のこだわりも妙に長続きするものだと感心してしまう部分もあるが、それ以上に面倒な気持ちが強い。

 「ってかいつまで赤ちゃん自身も簡単な言い回ししかしないつもり?」思い切って問い詰める。問い詰めはじめて3週間経つのがまた癪ではあるのだが。

 「ネタが出来るまでかな」

 「早くネタを完成させなよ。こっちとしては赤ちゃんのボキャブラリーが少ないと会話が成立しないから困るんだよね」

 「お話できてるから良いじゃん」

 「前までだったらもっと長い会話になってたよね。あっちの方が楽しいからそろそろ元に戻して欲しいよ」半ば懇願する思いで口にする。


 むしろ鈴木赤は私のツッコミのようなワードを拾い集めてネタに昇華させようとしている嫌いすらある。「もしかして私のツッコミがある程度貯まるまで続けようと思ってたりする?」

 「そんなことないよ、友達を試してるみたいじゃん。そうじゃなくて、私自身が納得するまでは難しい言葉を使わないでおきたいんだ」

 「納得っていうのはネタが完成するまでってことだよね」

 「どっちかって言うとネタが出来る出来ないじゃなくて、ネタになるかならないかって言うところかな」

 「必ずしもネタにするわけじゃないんだ」

 「そうだね。この前の驚き生活や方言生活だってネタにならなかったしね」

見るもの見るものにびっくりしまくって都度新鮮な気持ちを味わう期間も、どこのかよくわからない方言だけで生活してみよう期間もそれなりに続いていた。それぞれひと月ずつくらいやってたのではなかろうか。

 「その前の1万円生活だってかなり辛かったよ」

 「あれはむしろ端から見ていてただただ羨ましかったよ」

 鈴木赤は1ヶ月1万円生活ではなく、1日1万円生活を送っていた時期がある。何かの脚本が当たりに当たったようで、物は試しにと1日約1万円を使えるかどうかを1週間程試していたようで、持たない側からすると羨ましいことこの上ない期間であったが、本人はそれなりに辛そうだった。ごはんを食べるのにも店を選ばないと1万円に到達しないし、物を買うのにも元々物欲がない為にすぐに限界が来るしで、結局1週間で止めていた。予算的にはまだまだいけるらしかったが、肌に合わないとのことでリタイアしていた。何度でも言うが本気で羨ましかった。とは言え私も同じシチュエーションになったらそれなりに辛いのかもしれないと同情すると共に、1万円を日々使い切れないという想像力の欠如加減には我ながら幻滅する。

 「色々やってるけどあまりネタにはならないね」

 「ただ口数が減ってるだけだしね。そろそろやめちゃおうかな」

 こうして鈴木赤はあっさりと元の口調に戻ったのであった。

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本日も取り留めもなく 鷓鷺 @syaroku

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