第75話




 ときわははっとして顔を上げた。ずん、と体が重くなった。

 広隆の幻は一瞬で消えてしまい、彼がどんな表情をしていたかもときわにはわからなかった。

(兄さんは、僕がだめになることがわかっていたのか)

 こんな風に、違う世界に迷い込んだ弟が地に伏して動けなくなることを知っていたのか。ときわは投げやりな気持ちで考えた。広隆は全部知っていたのだ。知っていて広也をこの世界に放り込んだのだ。広也が戻ってこれないかもしれないと知っていたのだ。広也なんか戻ってこなければいいと、思っていたに違いないのだ。

 ときわにはもうそれを否定する気力もなかった。否定できるほど兄に愛されていた自信がなかった。だって自分は弱くて愚かで、怒りにまかせて他の生き物の命を奪うことが出来るようなおぞましい人間だ。愛されていたはずがない。

(兄さんは、かきわは元の世界に戻ることが出来る。僕には無理だ。だって、僕と兄さんは違うから……)

 そこまで考えて、ときわはふと違和感を感じた。

 何か、間違っている気がする。だが、それがなんなのかわからない。ときわは疲れて鈍る頭の中で、広隆とかきわの姿を思い浮かべた。いつも強くて明るい広隆。自分をかわいがってくれた広隆。

(あれ……?)

 ときわは違和感の正体に気付いた。

 強くて明るい広隆。そう、広隆はいつでも強くて明るかった。

 うたい町で、きつねはこう言っていた。「ここは迷い子のための場所なのだ」と。

 あの広隆が、迷い子だと言うのか。

 不意にぐえるげるの言葉が思い出された。

——己の世界に己がなぜ存在しているのか、不安な者だけが別の世界に惹かれるのじゃよ。

 確かに、自分がこの世界にやってきた理由はその通りだとときわは思った。自分に自信が持てなくて不安で、不思議な光と歌声に引き寄せられて山の中に迷い込んだ。かきわも同じように山の中で迷ったと言っていた。だが、広隆が別の世界に惹かれるほどの不安を抱いていたなどと、ときわには信じられなかった。自分とは正反対の広隆に、自分と同じ世界に迷い込まなければならない理由があったのか。ときわは愕然とした。      

 ときわの脳裏に、再びぐえるげるの言葉が響いた。

——この世界がお主らを選んだのではない。お主らがこの世界を選んだのだ。

 十三才の広隆も選んだのだ。ときわと同じくこの世界を。何一つ共通点などないと思っていた兄と弟が、時を越えて同じ世界をさまよっている。

(十三才の兄さんは、どうしてこの世界を選んだのだろう……)

 明るくて強くて、自分に無いものをすべて持っている兄が、何故この世界に迷い込んでしまったのだろう。

 八年前の夏。八年前。

(八年前……)

 何があっただろうかと考え、ようやくその答えに思い当たった時、広也は目を見開いて息を飲んだ。

 八年前。

 どうしてすぐに気付かなかったのだろう。

(父さんが、死んだんだ)



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