第74話




 行くあてもなく、ときわは陽炎のように力なく歩いていた。

 鞘におさめた刀の刃からは生臭い血の臭いが消えずに立ち昇ってきて、これ以上手にしているのも嫌だった。それなのに、ときわは刀を手放すことが出来なかった。どんなに忌々しいと思っても、今はこの刀だけがときわの身を守る唯一のものだ。

 血に錆びて重たくなった刀を捨てることが出来ない自分を、ときわは吐き気がするほど呪わしく思った。

 どこをどうやって歩いてきたのかわからないが、いつの間にか森を抜けて平原を歩いていた。それまでは木々に遮られていた太陽の光が、直接ときわの肌を刺した。

 こんなに歩いて、こんなに疲れているのに、喉が渇かない。今の自分は人間ではないのだ。

(ぼくは、人間じゃないんだ)

 ときわは心の中で繰り返した。

 引きずるように踏み出した右足がもつれて、ときわは地面に倒れ込んだ。

 そのまま、ときわは起き上がらなかった。

(岩でも、死ぬことが出来るのだろうか)

 ときわは自分の手をじっとみつめた。あの化物の血が、乾いてこびりついている。

 たとえあれが人でなかったとしても、化け物であったとしても、ときわがこの手で一つの生命を絶ったことには変わりがないのだ。  

 人を殺したのではなくても、罪にはならなかったとしても、物を見、聞き、感じることの出来る一つの存在の、この世界に在り続ける権利、未来を奪ってしまったという事実からは、一生逃れることは出来ないのだ。

 ときわは地面に手のひらを擦りつけた。皮が破けて血が滲んだ。乾いた化け物の血と自分の血が混ざって、ときわは痛みと悲しみで吐き気がした。

 その時、青空の向こうから一枚の白い布が飛来した。

 それはひらりと舞い降りてきて、静かにときわの体を覆い隠した。

 白い布にゆっくりと包み込まれていくのに、ときわは抵抗しなかった。全身を白い布に覆われても、全然苦しくなかった。それどころか、ひどく安らいだ気持ちになった。まるでやわらかい布団の中にいるような心地だった。 

 だんだん眠くなってきて、悲しみも苦しみもぼんやりと遠ざかっていった。白い布がときわと世界を隔ててくれていた。やわらかい布は全身を包む膜となってときわを世界から遮断した。

(死ぬのかな)

 真っ白になった視界を眺めながら、ときわは思った。

 本当に、このまま死ねたらどれだけいいか。このやさしい、やわらかい感触に永遠に守られていたなら、きっと何も怖くない。何にも脅かされることもなく、傷付けられることも傷付けることもせずに。

 ときわはあれほど疲れ果て、鉛のようだった体が、どんどん軽くなっていくのを感じていた。

 いや、体が軽くなっているのではない。ときわが、ときわの魂が、この重たい体から抜け出そうとしているのだ。

 魂が体から完全に抜け出した時、一体自分がどうなるのか、ときわにはわからなかった。ただ、今のときわはとにかく軽くなりたくて、心ががむしゃらに軽さのみを求めていた。軽くなれば楽になるのだ。自由になれるのだ。それはなんて素晴らしいことだろう。

(もう少しで、ぼくは解放される)

 ときわはもう目の前に迫った何かをつかみとろうとでもするように、片方の手を伸ばした。

 だが、その時伸ばした手の先に、ふと、広隆の姿が浮かんだ。


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