第10話




 その日、光子はいつもより遅く帰宅した。とうに九時をまわっており、広隆もそろそろ寝支度を始める頃、幼稚園児の広也に至っては、すでに夢の中に旅立っているはずの時間だった。だが、部屋からはかすかに話し声が聞こえてきて、二人共まだ起きているようだった。そっとのぞいてみると、どうやら今日は広也の寝付きが悪いらしく、広隆のほうがあくびを噛み殺して寝物語を聞かせていた。典型的な昔話だったが、広也はじつにうれしそうに聞き入っていた。一話語り終えた広隆が息つく間もなく、「もうひとつ」と次の話をせがむ。

 結局、もう二、三話語った後で、ようやく広也はうとうとしはじめた。広也が寝息をたてはじめたのを確認すると、広隆はそっと布団を掛け直してやり、満足そうにほほえんだ。

 その時の、光子の気持ちをどう説明すればいいのだろう。

 愚かしいことに、そのとき光子が感じていたもの、それはまぎれもなく嫉妬であった。

 愚かなことだ。愚の骨頂だ。自分でもそうはわかっていたが、“広也をとられる”という危機感がめらめらとたちのぼって胸を汚した。

 広隆がしていたこと、それは本来母親である自分の役割ではないか。子供を寝かしつける苦労と、それをやり遂げた時の喜び。それをなぜ広隆に奪われなければいけないのか。それにもまして、広也のあのうれしげな顔。いつもはおとなしく口数の少ない広也が、「もう一つ、もう一つ」と昔話をせがむ。

 それらはまるで火にそそがれる油のように光子の心をかき乱した。

 自分が夜遅くまで働いているため、広隆が自分の代わりをしてくれているのだ。

 そう、わかっていたはずなのに。

 だが、今こうして成長した広也と向きあっていると、あの時の嫉妬というものは全くお門違いもいいところだったことに気づく。毎日顔を合わせているにもかかわらず、息子の変化に気づけなかった自分は、嫉妬なんて感情を抱いていいほど広也のそばにはいなかったのだから。

 しかし、それではあまりにもむなしい。存在しているはずなのだ。自分と広也の間には確かに存在しているはずなのだ。十三年間の重みが。たとえ一日一日が、どんなに薄っぺらだったとしても。

 それだのに、さんざん自分の心と格闘して、万策尽き果ててよろよろになった光子が最後にすがりついたのは、やはり広隆だった。



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