八章 二話 ### 二十三時 三十〇分 ###
フェンス越しに見える人たちの目は、昏い中に沸々とした怒りを内側に激らせていた。そして俺を捉えると、爆ぜるように暴力的な感情を発露させる。
攻撃する声は俺を覆い尽くし、音だけの世界へと引き落とす。しかし、突き刺さる言の葉は現実そのものだった。
自宅を取り囲む壁の扉をくぐり抜けて、加織と賢臣と共にフェンスの前まで来ていた。
既に警備システムは落としてある。加織に止められたが、強行した。
「ねぇ、何する気なの、英くん…」
「見ていて欲しい」
俺はそう告げて、フェンスの外への扉を開き、後ろ手で素早く閉じた。そして、取っ手を捻じ曲げて、開かないようにする。
「何して…!」
加織がフェンスの金網に縋り付く。賢臣も狼狽えた声で呟いた。
「…殺されますよ…っ」
外に出ると、わっと、人の波が俺を取り囲んだ。途端に引き倒されて、地に頭がつく。身体中の至る所を蹴り込まれる。
その力は本来俺にとって、か弱い一撃だったが既に力を使い果たした状態で、尚且つ精神が衰弱しかかった俺には堪えるものだった。
すると、目の前に酒瓶を持った中年の男性が立ち、俺の頭めがけてそれを打ち降ろした。
パリンっと簡単に瓶は砕ける。中身は空っぽで、俺の頭からガラス片だけがパラパラと落ちる。
「止めて!」
加織が攻撃の構えをしたので、地面を這いながら、俺は叫んだ。
「加織、いいんだっ」
「でも…!」
加織は苛立ちもあらわに、また金網に指をかける。
「俺の、話を、聞いてくれ」
「——! ——!」
「うっ…!」
何かを喚いている誰かに背中を踏みつけられる。蹴鞠のように転がされる。
そんな中で、俺は不思議と冷静な思考を持っていた。
そして、今この瞬間に無くしたものをしっかりと自覚した。
今の俺には御印が宿っていない。
加織の感覚が、俺にも分かった。
世界に必要とされなくなったからだろうか。なら、世界はどうなる? 今、俺は失敗した、ただのデクだった。
「お前のせいだ!」
名前も知らない人が涙声で怒声を浴び、殴られた。顔も初めて見た人に蹴られた。
「お前が皆を死なせるんだ!」
バットや看板。手当たり次第に振われる暴力に引きづり回される。
「英!」
聞き覚えのある声に顔をあげると、良仁がいた。良仁は人垣をかき分けて何か叫んでいるが、人の壁の向こうで溺れてもがくように進んで来れずにいる。おじさんも一緒だが、特に何をするでもなく、にやにやと傍観していた。
俺への嘲笑が聞こえた。鬼の首を取った様な、歓声も聞こえる。
俺は世界にとって、不要物になった。でも、それでも俺にはまだ——。
「俺を見ろぉぉぉぉ!!!!」
咆哮をあげながら、俺はすべてを跳ね除けて、立ち上がった。
一転して周囲は静まり返る。
ふらふらと周りを見回すが、顔が腫れ上がっているようで、視界が悪い。口内には血の味が広がり、先ほど叫んだせいで痛みが増した。
「俺をみてくれ」
纏わりつく痛みを引き受けて、俺は言葉を発した。
神様でもない俺の言葉なんて、響くのだろうか。もう、俺には人としての俺の心を言葉に変えるしかなかった。
「何処を眺めてみても、俺以上に失敗する奴なんていない。俺は、大きな責務がありながら、それを成し遂げることが出来なかった」
目頭が熱くなる。印のせいではない。やけつくような感情が胸に広がっていく。
迷いの果てに行き着くのが、ここで本当に正しいのか。だけど明確なことがある。
「俺にはもう、この世界は救えない」
また泡が弾けるように、怒りが浴びせかけられる。
「英くん——!」
痛切な声色で、加織は俺を呼ぶ。愛しい声。俺は彼女に向かって微笑んだ。
そして、皆んなへと向き直る。
「責任逃れだとは思う。けど俺、したいようにするよ。誰も納得なんて、させられない。そして、俺は、俺として日色家に生まれ、印を宿した人生を呪わない。それは加織のお陰なんだ。だから俺、誰がなんと言っても、やっぱり最期だけは彼女と一緒に過ごしたい」
人々が手にした篝火で照らされても、空は真っ暗だ。明日この世界に太陽は登らない。月が俺を真っ直ぐに見下ろしている。
「引き受け切れない怒りも悲しみも辛さも、ここに置いて行って欲しい。次は必ずくる。俺が言っても信じられなくても。また繰り返してしまうとしても、何もかも変わってしまうとしても」
良仁も親父さんも、他の人達も、同様の目をしている。人生を明日へ繋ぐことで、俺が皆んなの目に光を取り戻したかった。でも、それは、元々俺にできることではなかったのだ。俺は俺の、加織は加織の願いのために、そして皆んな、それぞれの——。
ただ、俺の祈りが届くように、紡ぐ。
「これは、この世界にいる俺としての、願いだ。最後の瞬間まで、皆んな、自分が最も幸せだと思うことに使って欲しい。俺もそうするって決めたんだ」
なるべく、一人一人と目を合わせながら、話す。
「もう時間はないけれど、この世界の夜は明けないけれど。どうか、最期まで本当に自分が望む通りに生きて欲しい。それをすることが、望む次へと繋がるはずなんだ」
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