七章 三話 ### 二十一時五十八分 ###
「賢臣…。加織も一緒なのか」
賢臣の後ろを覗き込むが、誰もそこにいる様子はない。
「いないですよ。俺一人っす」
「どうしてここに? 加織は今どこにいるんだ?」
「かおちゃんは家にいますよ。アンタとかおちゃんの。あんたが帰ってくるって思って。だのに、こんな時間に、こんな所でまあ、イチャコラと。それに今更こんな所で何をする気なのか。ま、ここにいるんじゃないか思って、かおちゃんに嘘ついてまでやってきたんですけどね」
「ンフフ。自分の想像できる範囲でしか物事を見れないにいちゃんだなあ。美少女とのイチャコラを邪魔されたのはこっちなんだけど」
向後さんが口を挟むと、賢臣は首だけで頭を下げた。
「…それは失礼しました。でも、悪いけど素性も知れない貴女のことは構ってられないんだ」
「素直でよろしいね。君の素直さに免じて黙ってあげよう」
急に噛み付いたかと思うと、向後さんは一言で興味を完全に無くして、壁の文字の方に行ってしまった。つくづく読めない…。
「俺はお前が側にいてくれると思ったから一人でここに」
「…あんた、ちゃんとかおちゃんの気持ち考えてる?」
「…勿論考えてるよ。けど…分からないんだ」
「気がついてほしいんでしょうね。自分で気が付かなければならないことだから」
勝ち誇ったような顔をされてムッとする。
「加織は、もしかしたら俺を贄にするために俺を殺そうとしているんじゃないのか? 俺はそう思ってる」
「贄?」
心からの疑問を持っている反応に見えた。
「エリが眠った今、神示の完成条件を満たさないように、俺か加織が贄としてその命を捧げる。そうすることで、神示の流れを変えて世界を救おうとしているんじゃないのか?」
「なんすかそれ。どういうこと?」
「…本当に何も聞いてないんだな?」
「理由については、何も。いう必要ないって、かおちゃんが判断したんでしょ。だからいいんすよ」
「…お前も大概…いやなんでもない」
「かおちゃんが、あんたを殺す理由があるとしたら、あんたの為だ。それだけは分かる。それで十分です」
明言する賢臣の顔をまじまじと見る。彼には迷いがない。いつも真っ直ぐに加織の事だけ。少し羨ましかった。
「あんたが死ぬのなんてどうだっていい。世界の命運とかも、どうでもいい。問題なのは、かおちゃんが幸せかどうかってこと。それで、かおちゃんを幸せにできるのは…」
その時、
ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ …………
「…!!!!!」
激しい横揺れ。地響きが洞穴内にこだます。
「これは——」
「始まったね。陸のものは総て波に呑み込まれる。無数の渦は一つの潮の禍となり、世界新生の時を超える——。これは大枠の神示には記されていないが、明記された預言だよ」
向後さんは壁の文字から床の文字に視線を這わせながら言う。
再びの揺れ。天井付近の岩が激しく揺れて、割れ、落ちる。岩を飲み込んだ海水が、大きく飛沫をあげる。
「崩れるかもしれない。とにかく外に出ないと」
「あ。私は彼女と残るから」
向後さんは手をあげて宣言すると、その手をバイバイと振った。
「何言ってるんですか! こんなところにいたら…」
「もし間に合わなくても、私はここで彼女と終えると決めているんだ」
向後さんはしっしっとやった。
「ダメだ、そんな」
「世界の終わりには必ず英雄が現れる。私は、英雄になる」
ビー玉の目が、天井の穴の隙間から射す月明かりを受けていた。海水の光の反射でそれはキラキラと瞬く。
「ンフフ。世界の命運を握っていると思うと興奮するなあ。君の気持ちが少し分かったような分からないような。何、失敗すればみんな死ぬと思うと気楽さも感じるよ」
「何言ってるんですか、早く」
「あんたこそ何してるんすか! 終末の世代に生まれた人間にとやかく言うことなんてないんだ。早く行きますよ! あんた、こんな所で一人で死ねると思ってるんすか!」
さっきと矛盾するようなことを口走って、賢臣が俺の肘のあたりを後ろから引っ掴む。俺は、それに引きづられるように、洞窟の出口へと進む。
どうしても後ろ髪を引かれて向後さんを振り返ると、エリの頬を包み込む様に触れていた。何かを呟いている。ここからは聞こえない。
楽しい会話の時間を楽しむように、その表情は穏やかだった。
外は荒れ狂う嵐。高波が洞穴の入り口のすぐ足元まで迫っていた。
第四の厄災の最終段階。全ては、海へと還る。
「空が低くなってる」
賢臣が空を見上げて呟いた。
厚い雲は押しつぶすように低く低く浮かんで、まるで箱の中に押し込められているようだ。
「日の御印様、月花様。こちらへ」
こんな中でも待っていてくれたらしい黒装束に急かされて、船に乗り込む。
「そういえば賢臣。お前どうやってこの島きたの」
「岸に着いたら別の黒い人がいて、普通に乗せてくれました」
「…そう」
「俺が最後まで見張るんで、自宅に戻って、かおちゃんに会ってください」
凄みのある顔で睨まれる。この一日、散々逃げ回っていたのだ。当然かも知れない。
「…もう逃げないよ。時間が来てしまったからって事が、言い訳になってしまうかも知れないけど。そうじゃなくて。加織の言葉を受け止める」
「アンタが死んでくれた方が俺にとっては都合がいいんですけどね」
そんなことを言って、賢臣はそっぽを向いた。
黒頭巾の操縦で、船は激しい波を超えていく。
此岸について、地を踏んだ瞬間には駆け出していた。最高スピードで森へ入り、山を横断する。アシハラノ小島から第一地区までは、最短でも四、五十分はかかってしまう。
早く。一秒でも早く。彼女のところに帰らなければ。
俺は俺の物語をどこでどう終えたい?
何を残せる?
閉じていた世界は再び開かれて、絶望の箱もその中身を晒した。何もできることなど、俺にはない。
それでも、俺は。
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