七章 二話 ### 二十一時十七分 ###    

 その人物は背を向けて座っていた。

 地面に伏すように何やらブツブツとつぶやいている。

 そんな、まさか、彼女が——と思ったが、すぐに思い違いに気がついた。

 

 だらしなく伸びきった、おそらく天然無造作の長い茶髪。想起した彼女の亜麻色の髪よりは色が濃い。

 それに、痩身の上半身から推測される彼女の身長はエリよりずっと高い。成人女性のようだ。

「はっっっ! これは!!!」

「!?」

 突然大声をあげて女性は飛び上がる。

「壁にあった右から十二目の四十八文字目から六十九文字目と一致するじゃないか! 同じ活用が見て取れる!」

 そのままあぐらをかいて、再び床に目を這わせる。エリの文字を解読しているようだ。

「ん、誰だ? 今、彼女との会話で忙しいんだ。ここに何しにきたの?」

 一切振り向かずに、気配を嗅ぎ取られたらしい。

「…俺は、エリに会いにきました」

「オレの女神に?」

 そこでやっと女性は振り向いた。

 鼻の筋が高いのが印象的な、一回りくらい年齢が上に見える女性だった。四白眼から注がれる視線は痛いほどだ。

 しかしすぐにはた、という顔をして、歓迎するように手を広げて立ち上がった。

「おぉ、誰かと思ったら英雄様じゃないか」

「…」

 なんと返事していいか詰まってしまう。確かにそう呼ばれる事は多くあったけれど、なにぶん久しぶりでなんだか居心地が悪かった。一呼吸おいて、俺は言った。

「英雄じゃなくて、日色英と言います」

「…ンフ。失敬したかな。日色くん。何とも因果な名前だよな。ヒーロー君か。いやこれまた失敬」

 女性はふざけているような調子で言って、自分で噴き出した。ナガナキよりハイテンションで、正直にいって怖い。

「しかし何も謙遜するようなことはないよ。英雄といえば、君たち一族のことなんだから」

「…」

「生まれてから死ぬまで虚に満ちた世の末に於いて、君たちは民衆の光だ」

 女性は光を跳ね返さない黒いビー玉のような目をしていた。それは、良仁の目であり、良仁の父の目であり、フェンスの外を囲っている人たちと同じ目だった。

 しかし、何故だか、伝わってくる気配には精気が満ちていて、中身をなくした俺と真逆の存在のように思えた。

「一体あなたは何者なんですか?」

「私かぁ。君のようには何者でもないよ。言語学を研究している。主に神代文字が専門だ」

 しゃがみこんで愛おしげに石畳の文字をさする。

「これは、エリが刻んだ文字だ。とても美しいだろう」

「…それは、厄災の日…二度目の時にエリが刻んだものです」

「おお! そうだったの。風化がほとんど見られないから新しいものだと思っていたよ。これでオレの女神への理解がまた深まった。感謝感謝」

 オレの女神…? 既に置いてかれそうなペースで彼女は話し出す。

「彼女が使っているのは神代の文字。というか、神様だけが扱える文字だね。知っているとは思うけれど、エリが民衆に伝えた文字と言葉は翻訳されたものだ。四百年間変わらずに今も使われている」

 女性は魔法の杖を降るように、宙に指で何か書いた。

「私は神様の言葉を理解したいんだ」

「理解、ですか…?」

「おっと、その前に名前言ってなかったね。私は、向後あかぎと言うよ。まあ、ただの一般人だよ」

 握手を求められたので、戸惑いながらも握り返す。

「よろしくね。あと数時間で死ぬことになってるけれど」

「…。それで、あなたはどうして今、ここに? 理解したいって言ってましたけれど」

「そんなことより、ほら挨拶が先なんじゃないの? 君も彼女に会いに来たんだろう?」

 向後さんに示された方を見る。

「…」

「無口な子でね。もう文字でしかおしゃべりはできないけれど」

 

 彼女は三ヶ月前と何ら変わらぬ姿で黙していた。

 エリ——海須黎華。

 

 磔になった少女の身体は大きな樹木の根とさらに絡み合って完全に取り込まれていた。まるで、世界そのものと接続しているような。彼女の鼻先には海須の紋が浮き出たままだ。それに共鳴して主張を強める俺の眼球。

 目を閉じた彼女の顔は、決して穏やかなものでなく悪夢にうなされ続け悩まされ続けているかのようだ。

 思い出す。まだ彼女が動いていた頃。じっと耐え忍ぶように眉根を寄せた眼差し。

「彼女の言葉が聞きたいんだ。そうすれば、神の言葉を通して、世界の深淵を私は理解したい」

「深淵を…?」

「そう。全てを言葉で操る存在が、口無しになってしまっては困ったものだけれど、壁にも床にも、ほら、こんなに遺されたギフトがある。やはりこの世界に希望はあるんだ」

「希望、ですか」

「うん。神代の言葉を理解すれば、世界の終焉を止められるかもしれない」

「…」

 向後さんは上機嫌で軽やかにステップを踏む。何を言っていいかわからずに俺は口をつぐむ。

 向後さんはエリの足元に近づくと、エリの鼻先に手を伸ばした。

「神示にある、エリの誕生の話だけれど、神は呼び疲れて眠りたかったのだっていう解釈があるんだよ」

 慈しむように前髪をより分ける。

「彼女も疲れて眠ってるのかもね。そんな彼女との会話を楽しみたいなんて、野暮かなぁ。けれど、もう時間がないからね」

「ここにエリがいるということをどうやって知ったんですか? そもそもアシハラノ小島は中央が管理している。簡単に立ち入れる場所じゃない」

 一度自分一人で侵入しようとしたのを伏せつつ言った。

「ああ、私は海須の分家なんだよ。末端も末端だけれどね。一般の学生に言語学を教えてる傍で、中央の人間にも神代文字について教えてるんだ。そのツテでここにいさせてもらってる。彼らは私なんて脅威でも何でもないからね。勝手にやってろって感じだよ」

「…親戚だったんですね」

「ああ。遠縁だけどね。因みにだけど。この子とは面識ないよ」

 向後さんはエリとしてではなく、海須黎華を指して言った。

 恐ることなく、ぽんぽんとエリの頭を叩く。

「見張りの一人もいない。本家の人間にとっても、彼女は用済みということなんだろう」

 特に感慨もなく、さっぱりと言い切った。

 

「それで君は、オレの女神に何の用なの?」

 向後さんは自分の髪の毛を適当に書き上げて首に手を当てながら、そう訊ねてきた。

 次に何を残すのか。俺は、未だに答えを出せずにいた。けれど、ここにきた理由ははっきりしている。

「俺は、彼女ともう一度向かい合うべきだと思って、ここに来ました」

 俺の消せない、傷跡。しかし、ここに何かあると思って、やって来た。

「そうなんだ。私は世界を救うためにここにいるんだ」

「救う…あなたが?」

「うわぁ、そういう態度よくないよ。世界を救うのが君の特権だと思っているだろ。失敗したくせに。私はいわば君の尻拭いなんだよ?」

「ウッ…」

 無邪気且つ無遠慮にざくざくと言われて、思わず胸を押さえた。

「君は失敗を挽回するためにここにきたわけだろうけど、大丈夫。古今東西、英雄には悲劇が付き纏う。そういうもんなのさ。そんなに重く取らないで。仲良くみんな死ぬ」

「大丈夫って…」

「君が諦めようが諦めなかろうが、世界は終わる」

 向後さんは、蔦や葉を払いながら、壁の文字を剥き出しにした。

「エリにはね、こうなるまで感情があったようだ。ここ、ほとんど、自分の人生への嘆きなんだ。本当は殺したくなんてなかった、だとかね。恐らく海須黎華としてのものだろうね」

「エリが…」

 自分の運命を受け入れていたはずのエリの中にも人の心の弱さがあったという事だろうか。彼女には命を尊ぶ気持ちがあったのだ。

 少しほっとしてしまったが、それ故のやるせなさがあった。俺よりずっと年下の子供にのしかかるには、あまりに過酷。

 苦しげな表情をしている目の前のエリは未だにその呪縛の中なのだろうか。

「だからもしかしたら、人間として対話が可能かもしれない。そんな彼女は世界に接続できる。彼女は言葉を譲り受ける神の使いであり、破壊の神だ。けれど、まだ対話の余地があるなら、世界を救う救世主にだってなりうる」

 黒い瞳は子供のように希望を歌う。波の音が足元で聞こえていても。

「だから私は彼女との対話を諦めない。そうしていたら、もしかしたらが起きる可能性だってあるだろう?」

「…」

「君ばっかり背おっているような顔をするなよ。英雄といえば日色家と言ったが、私だって今戦ってる。私もヒーローさ。諦めないのが私にとってヒーロー。私ってかっこいいでしょ?」

 真顔で聞かれて、反応に困る。

 向後さんは急に胸の前で手をぱちんと合わせた。

「あ、諦めるのだってカッコいいとは思うけどね。どう締め括るか、さ。昨日、私の兄は死んだんだ」

「え…?」

 あっけらかんとした感じで向後さんは壁の文字に目を凝らす。

「そんな…それはどうして…」

「入水自殺。確実に死ねる様に重石をつけてね」

 向後さんは膝を叩いた。

「学生の時から決めてたんだって。厄災の直前に突然私にそのことを話した。世界が終わる日に俺は生きてはいないだろうって」

「なぜ、何故そんなことを…。以前から決めていた自殺なら尚更、理由はあるんでしょう?」

「自分の意思で自分の世界を終わらせたいからだってさ。君の事は、最初から期待してなかったよ。君が一度勝った時は目を見張っていたけどね」

「自分の意思で終わりを…そんなの、ダメです。だって、あと一日あったのに…あなたがいたのに…」

「フフ、君はそう考えるんだね」

 可笑しげに向後さんはしばらく笑っていたが、笑い事ではない。そんなこと、誰にもして欲しくなかった。

「私の終わり方は違う。君とも、兄とも」

 そう言って向後さんは洞穴内の波打ち際にしゃがみ込むと、両手で水を掬って、中心の穴からチョロチョロと水を落とす。水面が落ちてきた水と当たって、激しく波立つ。

「ンフフ」

 立ち上がると、指についた水滴を擦りながらこちらを向く。挑戦的な顔だった。

「英雄に生まれなくたって、誰かの英雄になれるってことさ」

 歩み寄ってきた向後さんは俺の方に手を置く。

「市井の中にだって英雄は生まれている。君は英雄に生まれてしまったから気がつけないだけだよ」

「俺は傲っているつもりなんて…」

「ンフ。そうかい。けれど君は君が諦めたことで世界は救われないと思っている」

 にこにことして辛辣に言葉を紡ぐ。

「本物の英雄たる君が諦めてしまっても、私は諦めない。そういう私の終わりを、私が私に定めたからだ」

「…俺だって、もう一度、何かしたくて、ここにきました。全てを諦めたわけじゃありません。けれど、摂理があって…俺は、俺の終わり方を決めあぐねている」

 必ず終わる世界で、何をすればいい。加織が言ったことの意味ばかりを考えていたけれど、自分にとって救うってどういう意味なのだろう。

 

「日色くん。ほら、エリと話して」

「え、」

「話しかけてみるといいよ。何か起こるかもよ?」

 いそいそと背中を押されて、エリの前に立たされる。緊張で顔が強張る。

 しかし、しっかりと見据えた。

 エリは石のように、蝋人形のように黙している。深い眉間の皺。壮絶なトラウマでしかなかった彼女の痛みを、今は感じる。

 俺はそのまま、幾分かの時間、対峙する。向後さんもそれきり急かすようなことはなく、床の字を指でなぞり始めた。

 神経と耳を澄ませる。内側へと。

 静寂の中。さまざまな人の顔と、言葉を思い出す。

 そして、目を開く。

 

「…俺にとって君は、討ち果たすべき相手だ。俺の運命だ」

 俺は、勢いをつけて拳を振るった。彼女の細い首に向けて。

 そして——直前で力を抜いて、エリに直撃する寸前で止めた。

 風圧で、水面の波は全て向こう岸へ行き着いて跳ね返り、エリの髪がふわりと浮かんで、落ちる。

 

「——いいの? 諦めるんだ?」

 向後さんは真意の読めない含み笑いで言った。

「残り少ない時間を、彼女の破壊のために使うのは、違う気がするんです」

「ふうん?」

 俺は向後さんに振り返って、尋ねる。

「そういえば、海須の本邸で当主に彼女のことを聞いたんです。聞きますか、彼女の話」

「…ウーン。悪いが、彼女自身について興味はないんだ」

 けろっとした調子で、向後さんは微笑んだ。

 

 その時だった。入ってきた方の洞穴から、こつこつこつ、と響くような足音が聞こえてきた。注意を向ける。すると。

 

「うわ、あと二時間くらいで世界が終わるって時に、浮気ですか。未成年の少女に加えて、謎のダウナー系美女とか。やっぱり俺あんた無理っす」

 

「!? 賢臣! お前、なんで…」

 数時間ぶりの賢臣は一見何も変わった様子はなかったが、彼にしか着こなせないような洒落たシャツの下に戦闘スーツが垣間見えた。

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