六章 二話 ### 十八時 十二分 ###
俺は謁見の間に通された。先導してくれた男は、すぐにどこかに消えてしまった。
数十の畳が敷かれた広い部屋。ご座所とは、御簾で仕切られていた。厳かで張り詰めたような空気が流れる。
「何をしにきたね」
人工灯に照らされた室内でもなお薄暗く見える御簾の向こうから、急にしゃがれ声の老人が問いかけてきた。
俺は前の畳に手を置いて、深く頭を垂れた。
「俺は、あなたに呼ばれてきたと、思っていたんですが。……助けていただいてありがとうございます。海須殿」
———海須家当主、海須
御簾の向こうに黒い影が見えた。他にも奥に複数の気配。
公に姿を見せる事は多くある人物ではあるが、対面したのは初めてだった。
「そう
「呼ばれた…? 俺は、あなたに呼ばれた気がしました…。問い…ですか?」
「ワシらの言葉は神の言葉よ。知りたいのだろう、今更になって、世界の理について」
「…」
俺が知ったところで何かが変わるのだろうか。俺が欲しい答えを相対する人物が持っているわけではない。
加織の紫の瞳を思い出す。
しかし。
呼ばれたのなら。もしかしたら、まだ俺にできることは残されているのかもしれない。
「海須殿…エリともう一度戦う術はありませんか」
あんなにやり尽くして、絶望して、諦めて、全てから逃げ出しておいて、何をしようというのか。もしかしたら、また負けるかもしれない。
けれど、問いかけがあるとしたら、全てに通ずるのは、この問いだった。
もし、取り戻せるとしたら。俺はもう一度、日色一族として、俺の役目を果たしたい。
静まる室内。
御簾越しの影の背が高くなる。
「当主!」
側に控えていた黒頭巾たちが制止の声をあげて騒めく。
それを気に留めた様子もなく御簾が捲られて、束帯姿の老人が顔を出した。胸には五芒星がかけられている。
老人は薄く暗い色の顔布の下に皺の笑みを形作り、こともなげに同じ高さに降りると俺の前に立った。
「構わん。こんなことでワシが損なうことなどないだろう。なあ、君」
「…」
好々爺の姿をしたその人は、黒頭巾たちを諌めた後、俺に向かって言葉を放る。
「同じ神から創られたヒトと言えど、君たちよりワシらは上位存在だからのう」
「……」
友好的に聴こえる声音にぞっとする。
海須の本家の人間たちは特権階級を与えられた宗教者であり、統治者、にして管理者。
俺が日色一族という特別な立ち位置にあるからといって、軽視できる相手ではない。伊真氏は俺を見下ろした。
「隠秘も神秘もワシらには必要がない。そんななものがなくても人民は従い、畏れ、敬う。こんな顔布をしていたら説得力に欠けるがね」
不本意そうに布を顔半分まで捲る。
「まあしかし、神を身に宿せるのはただ一人だが、我らは神より人を統べることを任された。その一族の長たるワシが平地に立ったとて、同じこと。だろう?」
答えあぐねて生唾を飲む。あくまで軽い調子だが、直下する言葉が重く頭に積み重なる。
「そんなに気を張ることもない。ゆるりとするといい。それにしても、人は思っていたより多様だのう。それぞれの終わりを皆が思い思いに過ごしている。須く虚無的に生きるものと思っていた。もちろんそれが多数ではあるが」
伊真氏は品定めをするように目を細めた。
「君は多数派になったか。随分と目が濁ったのう」
拳に力が入る。伊真氏は悠然と言う。
「ほう。怒ったか? 闘うか? ワシと。あれと違って、ワシにはそんな力はない。赤子の手を捻るも同然よ。そういえば、君の父にも同じことを言ったのう」
伊真氏は皮肉のような自虐のような事を気さくに言って、顔布の上から鼻を触った。
「アレは——エリは眠った。一つの役目を終えたからよ。起こすことも破壊することもできない」
「…」
落胆して息が浅くなる。
だが、ここまで来たら引き下がることはできない。俺たちには、今日しかないのだ。
「でも、あなた方も俺たちと同じなのではないですか」
交渉は苦手だが、下からまっすぐ、顔布越しに目を合わせる。
「生き延びたいとは思いませんか。存在に上下はあっても、生存本能はあなた方にもあるはずだ」
氏は片眉をあげた後——皺でひび割れた顔を裂くような笑みを浮かべた。
本能的に産毛が逆立つ。
その笑みからは、矛盾する怒りの様な感情も同時に感じた。
「お前はこの世界というものを理解していないな」
「…」
頭上に手が置かれる。今の俺には抵抗する術がない。どっどっどっと心臓が鼓動を強めて、一筋の汗が伝い落ちる。
「そして、自分自身のことさえも、いっそ愛らしさを覚えるほどに無知だ」
さらさらと、猫でも触るように頭を撫でられる。
伊真氏はその動作を続けながら言った。
「海須は神の言葉を受けるのみ。神は創るだけ。願いなど叶えてはくれんのだよ。神に救世を望むか。ならば諦めよ。我らが神はただ一人」
「…」
「日色に生まれたお前の不幸だな。それにお前は自らを救世主だと思っていたのだろう」
「…」
「思い上がるな」
「……」
「海須、日色、月花の御三家の御印は三ツ柱の贄よ。世界が再生される為の供物でしかない」
言葉と反する優しい声音。その声は、遠い日の祖父との記憶を呼び起こす。
——日色と月花、そして海須は、世界にとって重要な役目を担っている。そして、お前は特別に選ばれた。苦難がお前を幾重にもなって襲うだろう。ただお前は父の——ひいおじいちゃんのようになるのだよ。
祖父の温かい眼差しを今も覚えている。しかしあれも、俺の運命への慰めだったのだと気が付いてしまった。
「供物…ですか」
「そうさね。今宵、世界は生まれ変わる。日は月と共に落ち、海へと還る。全ては神示にある通り。初めから決まっていた」
日と月…それはつまり、日色家と月花家の事か? まさか、と思って急ぎ訊ねる。
「……日色家と月花家の繋がりができたのも、海須家の口添えと伝わっていますが、それは…」
「それも神示に記されたこと。それ故よ」
「…空の後に太陽と月ができ、最後には共に落ちる、とはありますが、それは日色家と月花家の縁を示しているということですか…?」
「そうとも言えるが、一般に流布しているのは大枠でしかない。神示の原典には、日色が月花が契ることも、最期を共にすることも明確に書かれている」
日色家には原典の事など伝わってはいなかった。隠秘は必要がないとは言ったが、意図的に伏せられていた事に他ならない。
しかし追及したところで、意味はないのは分かりきっていた。
そこで、はたと思う。俺と加織が結婚する事も、定められていたと言うことだろうか。正直に言ってそこに関しては複雑な想いがあった。嬉しいような、悔しいような。
そんな俺の心中を知らないはずの伊真氏は嘆息する。
「未だ信仰に欠ける愚か者は海須の中にもいる。だが、神示は神代に作られ、受託したこの世の始まりから終わりまでを記した示し。人の作ったものではない」
俺を突き刺す、視線。
「お前がエリと戦うことは、この軸ではもう叶わん」
エリは眠った。俺は負けた。覆ることはない。呆然と畳に目を落とす。
「転換の子夜。今日と明日が触れる夜闇の刻。エリの魂が宿る大波に、日と月の魂が揃って呑まれる事で、世界再生の儀式は完成される」
「儀式…」
「お前たちはその礎となるのよ」
小さく瞬く電灯。また落ち込んだ沈黙に呑み込まれそうだった。
「…全て決められていると言うことは、俺たちは自らの意思はなく、決められた行動をなぞっているだけ、ということなのでしょうか」
虚しさが駆け上がって胸に巣食う。
皺の窪みに埋まるように伊真氏の目が細められる。
「やはり、耄碌したな。神示は変えられぬとて、まったく同じ筋道ということとはない。日の印、お前は何を次に繋ぐ?」
潮目が変わる様なことを言われて理解が及ばない。
「待ってください。次…どういうことですか?」
「エリとの交戦、あれも祭事なのだ。お前の巡りは二度、エリを退けた」
「巡り、ですか?」
「そう、世界は壊れては生まれることを繰り返す、のだ。また同じ神示を辿り、同じ歴史を繰り返す、此度の巡りが終わる。しかしまた我らは同じに生まれ、繰り返す」
「同じ歴史を…?」
手に力が入り、膝に食い込む。
「世界は、繰り返す…。それは同じ神示の流れを汲む世界が前と後ろにあると言う事ですか…?」
伊真氏は喉を鳴らした。
「ようやっと理解したか。これこそがこの世で唯一の秘密と言ったところか」
伊真氏の言うことを疑うことなど、今更なかった。
この国を囲む渦潮が頭に浮かんだ。その外にも、何かがある気がした。急激に心が上向く。
「それはつまり、前には違うことが起こった、という事、ですね?」
伊真氏はただ口に笑みを浮かべる。否定はない。
「原典の神示にある事柄だけは覆しようがないがね」
伊真氏を前にして顎に手を置く。
思考は数時間前まで考えられなかった道順を急速にめぐる。体全体が熱と生気を帯び始める。
「なら、神示に必要な事が起こらない状況を作れば——」
単なる思いつきでしかないことだが、かき集められるように仮説が立ち上がる。
贄——。
眠ったエリと、俺と加織。儀式に必要な役目がある三人。
俺を殺そうとしている加織。
表向きの神示にある事柄が、全て出揃ってしまった後で起きた事。
ならば、そのいずれかが揃わない状況に陥ったのなら。
「世界の移り変わりの前に印のある者が死んだら、どうなりますか」
神示が果たされない。その様な状況になったら。
黒布の奥の真顔が、一瞬の内にニタァと笑顔に切り変わる。
「月花の印の娘もその可能性に思い至っていたぞ」
「…。加織はあなたに会ったことがあるんですね…それは、いつですか?」
「厄災のあった
やはり、だ。
——あなたは私が救ってあげる。
どう言う意味なのかずっと考えていた。
加織が何故俺を救うと表現したのかは分からない。
けれど、救うと言うことは、尊重したいものがあったが故の行動であるはずだ。
…もしかしたら俺を殺そうとしたのは、世界を救うため?
零時が来るよりも前に俺と加織のどちらか、もしくは両方が死んで仕舞えば、神示は果たされない。そうなれば予定通りだった世界に変化が生じるはずだ。確証は勿論ない。
でも思い詰めた加織がそう言った考えにいたる事も可能性が無いわけではない。
「——この世界線を続ける事がお前の望みならば、叶わんぞ。幾度も言わせるでない」
釘を打ちつけ思考を切るような声に顔をあげる。
「…でももし、可能性があるなら、俺は…」
「印の子。我々は運命を共にする。世界は破壊され、そして再生する。大いなる流れのままに。海に飲み込まれ、全ては神の元に戻る。そしてまた神によって言葉が紡がれる」
伊真氏は俺に目線を合わせ、躊躇うそぶりもなく目の前に座った。
「お前の家の成り立ちからして、それを受け入れるのが難しい事はワシらも想像できる。が、我が一族も、お前の日色も、月花も。それだけでなく、生きとし生けるもの全てが、同じ運命を持っている」
窪んだ目の奥は有無を言わさない。
「大いなる海に呑まれ、皆還るだけよ。怖がることなどない」
「…」
「問いはなくなったか」
薄笑いに直ぐに応える気分にはなれなかった。
聞きたいことなんて山ほどあった。けれど、導かれるように、一つの事だけがくっきりと浮かんだ。的外れなようで、きっと今聞くべきことなのだ。
俺は眉間に皺が寄っているのを自覚して、眉を開く。
「…エリについて、話してくれませんか」
「黎華の事か」
意外そうに、しかしつまらなさそうに伊真氏は言った。
黎華——海須家の御印。エリ。宿敵であり、今も深く心に食い込む杭だ。
「黎華は分家の子。ワシの直系ではない。君の家と違って、海須の印の子は無作為に選ばれる。最初から印を宿して生まれたわけではない。忌年を迎えて然るべき時が来ると、印が浮かび上がる」
伊真氏は鼻先を軽く叩いた。
俺は左目の瞼に触れる。
「どんな子だったんですか」
「そんなことを聞いて何になる」
伊真氏は、ふんと鼻を鳴らしてそう言った。しかし、俺が見返すと、おかしくもなさそうな態度で話し出した。
「主張の薄い娘でな、昔から虐められていたようだ。中央区に居住するのは本家の人間だけ。黎華は南第二地区に暮らしていた。印が現れたのはあの子が十歳の時だ」
黄昏に浮かぶ青いワンピースが思い出された。
「海須家といえど、本家以外の価値は一般の人間と同じかそれ以下だ。本物ではないものは虐げられるのが世の常よ」
彼女を案ずるようなトーンではなかった。それが摂理であり、当然であるような印象も受けた。
「全く何を考えているのか分からないような娘だった。印が発現して、彼女が常人ならざる力を得ても、あれは逆襲に己の力を使うこともなかった」
記憶の中の少女の像が、真っ二つに割れるようだ。それでも常に彼女の傍には影が付き纏う。
加織も夜が似合うが、彼女とは対極にあるように思う。
「一度何故なのか聞いてやったことがある」
障子の外の方を見ながら薄笑いを浮かべた。
「何と言ったと思う?」
俺が返答しないでいると、そこで初めて自慢げな様子になった。
「どうせ皆んな死ぬから、だと」
「…」
「アレは、エリとしては申し分なく務めを果たした。君も果たすべきことをせよ」
伊真氏は立ち上がると、そのまま障子の方に向かった。御簾の方がまた慌ただしくなる。
背を向けながら、伊真氏は言った。
「印の子。始まりに続く世界の終わりに、君は何を残す?」
「…残す? どういう意味です?」
「くくく、問いかけに問いで返してどうする」
「…そんな、わかりませんよ。こんな時になって藁ばかり掴む羽目になって。でも俺は、知らないままではいられない。だから…」
「印の子」
一声で黙らせるような明朗な声。軽く振り返った薄布の隙間から見える優しげな瞳は鋭利な眼光を放っている。
俺は立ち上がった。もう俺には明日がない。それでも、俺にはまだ。
「知りたいんです。教えてください」
「世界が終わることは変わらない。しかし、幾度流転しても、時間がある限り、世界は変遷を辿り、積み重ねる。変わることも。変わらない事も」
「それは…」
「最後に何を掴むかは常にお前に委ねられている」
言い残して伊真氏は回廊の奥に消えた。
「日の御印様。お帰りはこちらです」
黒頭巾に外を示されて上向く。月が朧をかぶって、遠くに感じた。
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