五章 三話 ### 回帰 三 ###

 四度目の厄災が予言されている年のことだ。今から半年前になる。

 その日、突如として"彼女"の手によって、厄災は始まった。

 三度目までの厄災は忌年の終わり頃、師走から睦月に年が変わる、冬と春の間、春が立つ前に起こってきた。

 しかし、四度目の厄災——つまり、最後の厄災は大暑の頃、一年の真ん中に起こった。

 

 西第二地区でのエリの出現。

 エリはその時すでに南第二地区を蹂躙した後だった。

 その知らせを受けて、張り裂けるような気持ちで加織と共に現場につくと、そこには生臭い潮の匂いが漂う、悪夢の光景があった。嵐に晒される破壊された街。そこかしこには、死体の山。

 胴体が二つに分かれた年端も行かない少女。折り重なるように道の端に転がる老夫婦。先に到着していた日色家や月花家の精鋭の能力者も木偶のように無惨な姿を晒していた。無差別の殺戮。

 胸が詰まって息が苦しくなりながら、街の中心へと急いだ。

 印が熱を持っていた。呼ばれているような、引き寄せられるような、焦燥の感覚。ただとにかく脇目も振らずに、走った。

 

 

 

 ——そしてその渦中。血の海の中に立っていたのは、いつの日か見た、あの少女だった。

 肌の露出の多い真っ白な衣を身に纏い、足元まで伸びた亜麻色の髪を引きずる様に歩いていた。

 こちらに気がついて、目が合った。あの時よりずいぶん大人びた顔つきになっていた。それでも変わらないのは、耐え忍ぶように寄せられた眉。

 それから、彼女の鼻背には、海須の印が刻まれていた。

「エリ…」

 その時突然、目の前に何かが猛スピードで飛び出してきて、俺は既のところで避けた。防御性に優れた戦闘スーツに切れ目が入った。

「髪、か…!」

 それは、十に分かれ、触手のように伸びていた。

 しなる鞭のような攻撃をかわして、俺は彼女に近づいた。

 が、今一歩というところで攻めきれず、防戦になった。

「止まって!」

 察した加織が念力でエリの動きを封じた。

「この血にかけて、俺が、世界を救う———!」

 俺は機を見逃すことなく、迷いを殺すように目を瞑り、目前の少女の頭部に渾身の力を込めて拳を撃ち込んだ。

 拳が届く直前——エリの口が囁いた。

 

ワタナカへ』

 

 光の届かない深海へと誘う、平坦だが澄み切った声。

 怖気に体が硬直して、俺の拳は彼女の鼻先でぴたりと止まった。

 彼女がそう告げると、波の音がして、何処からか集まってきた水が彼女の周りに纏わりついた。

 そのうち水は剣先のように尖り、迫り来た。

「ッ…!!」

 後ろに下がって回避。俺に向かって取り付くように、四方に弾けて視界を覆う水。

 手を翳した。体の周りに念力の膜を張って防ぐ。水は年の力場の球面に沿って左右に逸れた。

「英くん!」

 加織がエリの背後に回って構えた。

『タギツ、水、守って』

 エリが言って、激しい水流が加織を襲った。

「くうっ!」

 加織は瞬時に攻撃から防御に切り替えて水流を横にそらした。

 ばしゃんと上がった水飛沫。

 その次の数瞬、エリの長く癖のある髪の毛が後ろに靡いて、飛沫の間を突き抜け、乱反射する光のように加織に追撃した。加織は身を捻って回避するが、

「あっぐっ」

 数カ所に損傷を受け、倒れ込んだ。

「加織!」

「英くん、離れて!」

「!」

 その声に反応して、俺はその場から退いた。そして、耳を塞いだ。

 

「お返し、よっ!!!!」

 加織が超音波をエリに浴びせかけた。

 キィィィィィィン——!

『——————アァッ』

 耳を塞いでもぐわんぐわんと眩暈がする程の威力。エリの目玉が激しく揺れた。

 エリは後ろ手になり、くず折れそうになるが、完全には倒れず、ぎょろりと眼球がこちらを捉えた。

『オオワタツミより——』急速にかさを増し、エリの背後に競り上がる高波の気配。

『コノチハ、オボチ、ススチ、マヂチ、ウルチ』迫り来る大水。

 ズザザザザザザザザ————!

「——ぐぅぅッ」

 波頭を念力で受けるが、臨界部が激しく波立った。抉られるように念力が徐々に弱まっていった。

 耐えきれない…!

 ぱしゃん。

 遂に念の波動はひしゃげて、俺は水の中に取り込まれた。

「——! ——!!!!」

 水中で光が屈折して歪んだ、加織の像が何か叫んでいた。水をかいた。もがく程に上下もわからなくなった。息が。がっばっと、口から泡が一気に逃げていった。生臭く塩辛い海水の味。

 このままでは——。

 俺は左手の人差し指の指先に力を集めた。震える照準。力の全てを一点に集中し、圧縮。

 そして、放った——。

 水を螺旋に巻き込み、水壁を貫く細く鋭い弾道。

 

 パンッ

 

 エリの鼻先で赤が弾けた。真後ろに倒れていく華奢な身体。

 そして、あっけなく地面に叩きつけられて、仰向けに転がった。

 その瞬間、俺の周りの水の膜も、破られた水風船のように形を失った。

「げっは、がっは」

「大丈夫!?」

「か、加織は、大丈夫か…」

「もぅ、自分の心配をしてよ!」

 加織に支えられながら立ち上がる。エリが起き上がってこないかを気にして、臨戦態勢は解けなかった。

 

 けれどその日、少女の骸は沈黙したまま動くことはなかった。

 

 


 その後、俺の勝利はすぐに国中に知れ渡った。

 俺は神示を覆した英雄として、生き残った多くの国民から持て囃された。

 しかし生と勝利の歓喜に沸き立つ国民をよそに、俺は倒れた父の事で、それどころではなくなっていた。

 それでも、加織とこれからも生きていける未来を作ることができた。その事が俺は嬉しく、誇らしかった。

 多少怪我したものの、健康そのものだった。加織の方が傷が深かったくらいだ。

 生を噛み締め、救えなかった命への償いと弔いのために一生を使おうと、改めて固く誓った。


 ——しかし。

 俺たちは再び、彼女と対峙することとなった。

 

 知らせを受けたのは勝利から四日後のことだ。

 父に付き添っていた俺は、光毅さんから連絡を受けた。

 海須家との交渉の後、月花家が回収して、北第三地区にある生物研究施設に保管していたエリの死体が突然目を覚まし、職員を暴殺したのち、東第二地区へ入った、と。

 その時、南第五地区にいた俺は加織と一緒にすぐさま東第二へと向かったが、時既に遅く、滅茶苦茶になった街を再び目の当たりにする事になった。

 

 荒れ狂う空。水害の爪痕。怨嗟が辺りに満ちていた。

 失意の中、それでもエリの足跡を辿ろうとすると、そこに突然、黒衣の男が現れた。

「日の御印様」

「あなたは——海須の…」

「はい。私は、海須の遣いの者です。エリはアシハラにおります」

 顔まで覆った黒子頭巾の下で、男は笑ったように感じた。

 

「加織、行こう」

 嫌な予感と不信感しかなかったが、どんな思惑があれど、その言葉を信じるより他なかった。エリがまだ生きているのなら、俺がこの手で滅ぼさなければならない。不屈不敗の日色家の矜持にかけて。

 加織は眉間に皺を深く寄せて、一度だけ頷いた。

 

 

 

 アシハラ——アシハラノ小島。本土の北部の海域に浮かぶ、唯一の離島。

 滑空能力はないので、自分の足で疾駆する。

 海岸に着くと、また別の海須の遣いが待っていた。加織は俺や賢臣ほどの速度で走ることはできないので、海須のヘリコプターであとからやってくる事になっていた。

 俺は手配されていた小型のボートに乗り込む。不気味な黒頭巾は一言も発する事なく慣れた動きで、エンジンのついたボートを操作した。そして荒れた海を割いて、俺を小島へと運んだ。

 

 島には砂浜に面して大きな洞穴の入り口が覗いていた。そこには大きなしめ縄のついた鳥居があった。

 俺は洞窟の奥へと進む。しばらく行くと、開けた場所にでた。天井は所々空が垣間見え、その間には木の根がつたって垂れ下がっていた。少し下がったところには、海水が対面側の穴から流れ込んできていて、ちゃぷちゃぷとと波が音を立てていた。足場は朽ちかけた人工的な石畳。遺跡のような印象を受けた。

 

 その波打ち際に彼女はいた。

 俺に背を向け、ぼそぼそぼそぼそと何かを呟きながら地に伏していた。

 海水に濡れた髪が床に張り付いて、広がっていた。

 ふと、自分の足元を見た。

 足を退けると、そこには無数の文字が散らばっていた。

 俺では解読することのできない、見たこともない文字が石に刻みつけてあった。

 エリを見た。背中にかかった髪の一束一束が床に広がっていた。それは忙しなく動いているようだった。

 よく見れば石の床に文字を刻んでいたのだ。

「——ッ」

 あまりの異様さに息を呑む。

 すっ、とエリが襟首を掴まれて上につられたような不自然な動作で立ち上がった。

 少しこちらに振り返って見えた顔は、苦しげに眉が寄せられて、頬には涙が伝っていた。迷子のような弱々しい表情。

 動揺で気を取られた瞬間、鋭い毛先が俺に向かってきた。

「っ」

『タゴリ、隠せ』

 髪を避けたと同時に、濃霧が立ち込める。あたりが真っ白になり、視界が奪われる。

「くっ…どこに…!」

『タギツ、水、呑み込め』

「くっ」

 再び俺の方に押し寄せる激流。対処が遅れる。

 ——しまっ…!

 

「英くんに! 触らないで!」

 今追いついてきたらしい加織が背後から念力で俺を庇った。相殺する力。

 振り返ると、加織が力強く微笑んだ。

「ありがとう加織。頼りになるよ、ホント」

「ふふ。あとでもっとたくさん褒めてね。さ、油断し——」

 白い霧の中から呼び声がした。

『イツク、水、喰らえ』

 先ほどとは別の方向からの攻撃。

「きゃ——」

 素早い攻撃に対応しきれなかった加織が、透明な蛇のような水の塊に絡め取られる。

「加織!!!」

 助けようと近づこうとするが、今度は俺に向かって攻撃が飛んできた。加織から引き離される。

「——!!」

 蛇は肢体をくねらせて、加織の身体を丸呑みするように包み込んでしまった。

「加織!」

 エリを叩かなければ。瞬時にそう思って目を凝らしたが、エリの姿は白霧で捕捉できない。

 俺は足を曲げて、跳び上がった。

 天井の近くから下を見下ろす。数カ所空いた天井の穴から射す光を背中に受ける。

「ああああああああああッ——」

 自分の中の力を全て搾り取るように、念力を放った。血液が沸騰でもしたかのように熱い。短期間の交戦でも、精神も体力ももごっそりと持っていかれる。

 白い霧を抉り取るように真下に向かって力を解き放つ。そして、底にいたエリの姿を見つけた。

「くらぇぇえ!!!!」

 俺はそれを認めた瞬間、横に捻る力を加え、大水を放出するエリの横腹にぶつけた。

『——ヴッ! ウウッ…』

 エリはそのまま、岩壁の突起した所にぶつかって、そこにめり込んだ。

「!!! がっはっ…!!!!」

 俺は避けきれなかった水流に押されて天井を超えて穴から外へと突き上げられた。そして頂点まで達したあと、急速に落下する。

「ひ、英くん!!!」

 息も絶え絶えなままの加織が手を伸ばして俺を浮かせてくれたおかげで、怪我をする事なく地面に着いた。

「は、はは、本当に加織がいないとダメだな俺は…」

「私だってそうだよ」

 よろよろと近づいてきた加織に支えられて立ち上がる。

 エリの叩きつけられた壁に視線を向けた。

 

「アアアアアアアアアア!!!!!!——」

 

 この世に居ることに耐えかねたような慟哭。

 天と地、世界が震えた。

 黒雲が渦を作った。波が荒々しく波を立てた。

 

 ———— ドッ ————

 

「——ぐあっ」

「あうっ」

 見えない衝撃波。俺たちは吹き飛ばされる。体を洞窟の壁に激しく打ちつけた。朦朧とする意識。

 白い幽鬼は、岸壁の上で磔になったまま、激しく全身を震わせた。そして、唱えた。

『孵ロウ、喪ワレタセカイノ、ハハノ統ベルクニヘ——』

 エリは白目を剥いたまま、多量の涙を流し、大きく身を逸らせて頭を抱えた。髪の毛が壁面に文字を刻みながら、徐々に木の根と絡み合っていった。

 エリの口が、ぱかりと開いた。

 つんざくなに語ともしれない、聲。

『=============================================================================================================================================================================——……』

 地面が揺れ、割れ壊れる。黒雲の隙間からは雷鳴が轟く。

 直感した。

 これは呪詛であり、神による宣告であると。

 そして、全てを吐き終わると、エリはそのまま岩と木の根と同化するように石のように固まった。

 

 そして、それと同時に全ては晴れ上がった。空は蒼天。波は凪いだ。総ては一過して、静けささえあった。

 

 しかし、本能的に理解する。これは、自分たちの勝利ではないことを。

 

 

 

 その後、その事実はまた再び世界に伝えられた。事実を隠蔽することも一族内で議論となったが、息を吹き返した父が、それを許さなかった。

 偽りの勝利で人々を騙すなど、言語道断であるとして、一族の長としての全責任を受けるとの声明を出した。

 民衆は手のひらを返し、半分は日色家と月花家を糾弾し、半分は落胆して全てを諦めた。

 そうして、世界は明けることのない虚無に包まれた。

 

 


 そして、俺は、それから三ヶ月、一切何も食べず、一睡もすることもなく、エリの破壊を試みた。

 しかし、石像となった彼女に傷一つもつける事は叶わなかった。それどころか、島ごと破壊することも叶わなかった。散りばめられた文字にはエリの死後も解けることのない呪術が施されていた。

 来る日もくる日も破壊を続けたが、結果は同じだった。

 俺は力の使いすぎで血管が破裂を繰り返し、手がボロ雑巾の様になって、加織に止められるまでそれを続けた。

「帰ろう」

 そう言われて、やっと心が戻ってきたようになって、加織の腕の中で一晩中泣いた。

 夜が明けてから、北第一地区にある家に帰った。家には建てた時にはなかったフェンスと黒壁、警備システムが設備されていた。暴徒となった民衆から自分たちを守るためだと光毅さんから説明を受けた。やるせなかった。

 父からは文書で勘当の通達を受けた。


 それからしばらく抜け殻のように日々を過ごした。

 そして、そうして時間が過ぎ去る中、ふと、俺の中に願いが生まれた。

 世界が終わるまで、加織と一緒にいたい。

 そして、俺は残り少ない時間を尊ぶふりをして、その願いに縋りつくように、加織と二人きりの日々を過ごした。

 

 

 

 夢を見せられたと思う。けれど、結局俺は裏切ってしまった。

 

 世界は予定通り、今日の零時に終焉を迎える。

 

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