四章 二話 ### 十五時 四〇分 ###
屋敷に向かう道すがら経緯を話す。左目が痛むことも伝えた。
薫さんはただ相槌だけを打ちながら、最後まで全てを聞いてくれた。
「ヒデ坊に問題があるんだ、そういう時は」
「だよね…」
「そもそもバツイチに相談したって仕方がないだろうに」
「あ、そうだ。もう十五時だけど、その、小枝子さんとは…」
真顔ですら迫力のある顔に一睨みされて、縮こまる。何年一緒にいても、これだけは慣れない。
薫さんと小枝子さんは元夫婦だ。十年くらい前に離婚してしまったので、お互いに今は独身だけれど。
二人は俺が生まれるよりも前、まだ年若い頃から日色家と月花家にそれぞれ奉公していた。俺と加織が許嫁として引き合わされた頃からよく顔を合わせる様になり、数年の時を経て交際に発展し、結婚した。
二人とも仕事第一人間の恋愛下手だったこともあり、俺と加織が二人の後押しをした事で決まった話だった。結婚式のスピーチも俺たち夫婦で引き受けたくらいだ。
けれども、仕事第一であるが故のすれ違いを繰り返し、互いに一歩も引けない性格の為、三年ほどでスピード離婚。近年になってやっと仲直りしたけれど、公の場でしか顔を合わせていない様だ。
薫さんはため息を吐いた。
「別れたのはとっくの昔。誰より知ってるだろう」
確かにそうだ。俺と加織は、薫さんと小枝子さんの始まりから終わりまでを知っている。
「でもさ。ほら、最近は仲直りしたんだし」
俺はそう言って食い下がる。薫さんは腕を組んで、通りがかりにあった木の様子を気にしながら言った。
「俺は日色家に、小枝子は月花家に。其々の生涯を捧げて、そこで果てると互いに誓いを立てたんです。だからいいんですよ、これで」
二人らしいなと思った。自分には絶対無理だ。引き離されているなんて、耐えられない。今だってしんどい。
「俺には無理だな。最期の時は一緒がいい」
「もし、この世界が終わらずにこの先何年も続いても、あんたたちは一緒にいるんでしょうなぁ」
「勿論」
そんな世界があったら、どんなに幸せなのだろうか。前にもそんな事を考えた。あの時は、実際に加織とそんな未来を歩めるのだと思っていた——。
しかし。あと数時間のうちに、世界は必ず終わる。
これは俺が生まれるよりも前、俺の先祖の初代が生まれるよりも前——世界が生まれる時に既に決まっていた事だ。
「通信で連絡は取れるんだし、最期に話だけでもしてね。最期なんだから」
俺がいうと、薫さんは考え込むように唸ったが、ひとつ頷いた。
そうこうしているうちに、本邸の玄関に着いた。
自動でドアが開くと、嗅ぎ慣れた材木の香りが鼻をくすぐった。しかし、月花家で感じた様な安堵感はない。
入ってすぐの正面の壁。
不屈不敗。
横型の人の身丈ほどもある書道額にはその文字が荒々しく書かれている。
「とりあえず、目の具合を見てもらわんと。旦那様のかかりつけの狭山さんが常駐してるから」
そう言って、薫さんは縁側の先へ俺を促す。
その時だった。正面から人影が此方に歩いてきた。
空気がにわかに重苦しいものになる。俺は拳をぎゅっと握り込んだ。
「何故、ここにいる」
聞きたくない声が、鼓膜を打った。自ら赴いておきながら、妙な話ではあるが、この声を聞くと緊張で体が強張る。
「体に障りますから、あまり動かれては!」
「邪魔だァ」
心配して側に寄った薫さんを強引に押しのけて、声の主は俺の方へずかずかと歩いてくる。
真っ直ぐに向けられる、圧倒的強者の視線。
どんな顔をしていいのかわからない。
そうこうしているうちに、目の前に大きな体躯が立ち塞がる。
次の瞬間。ゴッという音と共に右の頬に衝撃が走った。
俺は空いていた内縁の戸の外に転がり落ちる。そうしてから、拳で殴られたのだと、理解した。
何処からそんな力が出るのか、見上げた青白い顔は、侮蔑と積怒の表情で俺を見下ろしていた。
「もう二度と顔を見なくて済むと思っていたんだがなア」
「親父…」
日色家の当主であり、俺の実父である日色氏照は、厳格な人だ。潔癖の理想主義者。
俺はこの人に憧れて、この人を最も恐れてきた。
「薫。何故これを中に入れたア」
「旦那様、ヒデ様は左目の調子が悪い様なんです。狭山さんに診ていただく許可をいただけませんでしょうか」
畏まった口調になった薫さんは、さっと膝をついて頭を下げてくれた。
「ふん、印が疼くか」
縁側の上の父は、仁王立ちで腕を組むと、
「この家に、敗者の居場所など無い」
冷徹に告げた。
「一度勝ったからといって、結果がこうであれば、何も意味はない。英雄とは世界を助け、救う者なのだ」
そう、俺は一度仮初の勝利を手にして、結果としては負けてしまったのだ。
そして、その事から逃げている。今朝、加織に刃を向けられるよりも、ずっと前から。
「お前が代々受け継いできた伝統を切った。厄災に際した時、負けたものなど一人もいなかった——海須家に屈してはならんのだ」
厄災は、ある一族によって、齎される。
それが、海須家だ。そして日色家、月花家、海須家を総称して、御三家と呼ぶ。
厄災は、百年を区切りとして第四の段階を踏み、世界を破壊する。
それは、預言書に記された神示であり、必然として起こる、過去から未来までの歴史である。
そして、百年ごとに来る忌み年に災禍を齎す、海須の御印を倒すこと。
それが日色の御印がその身に宿す、使命だ。
俺の前は曾祖父が印を宿した。曾祖父は厄災に於いて死者を一人も出さなかったという偉業を成し遂げた伝説の人だった。
父は高らかに謳い上げる。
「日色家は人の前に立つ、不屈にして不敗の英傑の血筋。皆の生への願いを背負うているのだ! 日色家に生まれたのなら。この血を受け継いだのならば。英雄は負けてはならん。ましてや御印を宿したのなら尚のこと」
伝統的に、日色家では厄災の世代に合わせて、月花家より娶った女性と子供をもうける。
目も開かない赤ん坊の左目には印が現れる。
御印が現れた子供は丈夫に育ち、生まれた時から強い生命力と超能力を有している。
父には御印はない。
しかし、日色家にあって、彼は誰よりも、そして、命を賭して使命を遵守する男だ。
彼は日色家の当主として、この国の有力者としての責務を重んじそして何よりも日色の御印——俺を育てるために生涯を費やしてきた。
彼は、膵臓癌を患っている。
そして、彼は余命宣告を受けており、その通りであったなら、一年前に死ぬはずだった。
今も生きているのは、彼の頑強な信念が可能にしている、奇跡の所業。
彼は半年前の厄災の後、死にかけたが、再び息を吹き返した。
俺がエリを討ち果たしたと知らされた瞬間、意識をなくし、危篤状態になった。そして、数日間生死の境を彷徨った状態にあった。
しかし、エリが復活すると、同時に父は憤怒とともに息を吹き返した。
日色が勝つまでは死ねない。世界を救うまでは死ねない。苛烈な、不壊の志。
父が俺に手をかざす。
「それなのにお前は…!」
俺の身体が宙に浮いて、遥か後方に吹き飛ばされる。
そのまま庭の池に放り込まれた。水飛沫が盛大に上がる。
それなりに深さのある暗い水の中、手足をばたつかせて空気を求める。
「ぷはっ! げほっげほげほ…」
水を飲んで、咳き込みながらなんとか這い出す。
過去にも何度もあった。日々の鍛錬の度に殴り飛ばされては、池の中や瓦の上に転がされた。投げ飛ばされて障子を枠ごと破り壊したことなど数えきれない。
蛭子の様に地面に伏している俺に、父の言葉が突き刺ささる。
「お前は世界の期待を裏切ったんだ」
体の芯が震え、起き上がれなかった。
「お前は日色家の恥だ」
「…」
「例えお前が負けることが宿命でも。一度はそれに打ち勝ったとしても、だ」
そう、俺は一度、勝利したのだ。
厄災をもたらす、海須家の御印、〈エリ〉に。
しかし、エリは、数日後に息を吹き返し、再び厄災を振り撒いた後、彼の地に眠っている。
決して解かれることのない終焉の呪いを遺して。
「夢を見せるものは、最後まで理想を遂げなければならない」
世界は終わると教えられてきたのに、無茶苦茶だとは思う。だけど、その通りだとも思う。
子供の頃、祖父に曽祖父の写真を見せられて、「英もこの人のようになるのだよ」と頭を撫でられた。
小学生の頃は俺の力に皆怖がって近づいてこなかったけれど、中学に入ると、みんなが俺の能力に一目置いた。周囲に馴染みたくて、運動では力を使わずにでも良い成績を出せるように努力した。
高校をでて、大人になるにつれて、自分より年上の人たちにたくさん期待された。
英くんなら助けてくださるかもしれない。そう言って、手を握ってくれた良仁のお母さんの顔が浮かぶ。
いつだって俺の小さな器以上の抱えきれないようなものを託されてきた。
日色の人間が、負けることは許さない。
かつて父に言われた時、そこには確かに信頼があった。
俺は、世界中に中途半端な夢だけを見せて、その責務を果たせなかった。
立ちあがろうにも、鉛のように体は自由が効かない。腕にすら力が入らない。
「御印無き者が何を言っても、響かんかア」
「…」
大きな掌が猛然と頭上に近づき、ガッと、髪の毛を掴まれた。引き起こされ、痛みに耐えきれず、身を起こす。
そしてそのまま、池の淵まで再び引きづられ、首の根っこを掴まれて強く押された。咄嗟に池の縁の石に手を着く。鼻先に触れそうなほど近くに水面がある。
「この三柱の御印を、」
片手で頭を固定された後、もう片方の手が顔に伸びてくる。
そして、父の指によって、左目が無理矢理開かれる。こじ開けられた瞼は、乾いてひりひりと傷んだ。
水鏡に映り込んだ俺の左目には日色の紋が、再び浮かんでいた。
「なぜお前だったのだ」
——お前だからこうなったんだ。
良仁の親父さんが言っていたことが重なる。
「俺が御印を手に入れていたら、きっとこんなことにはならなかった。爺さんの左目に浮かんだあの色を俺は一生持てないと知った時の失望がわかるかア?」
頭蓋が割れそうなほど、力が込められる。
「なぜ俺には印がない!!」
池に映る父が憤悶の表情で、自らに向かって問うように言った。
映り込む偽の太陽の照り返しが、剥き出しの眼球をたしかに焼く。
「は、ハハハハハハ」
唐突に父は笑い出し、数歩後ろに下がった。俺は束の間解放され、力なく仰向けでそこに倒れた。
父は日輪へ手を伸ばす。掴み取ろうとするかのように、開く。凶暴な笑みが垣間見える。
「そうか、今日お前がやってきたこともまた打ち砕くべき宿命! 決められた最後にさえ、必ず何かが起こるものだ! 今日という日にも新しい命が生まれる様に! 終焉の日だからといって、死を齎すのは世界と時間だけでは無い!」
両腕を広げて、溢れる生命の気配を放出する様に、地に立つ。
「旦那様ぁ! 静まりください! 本当だったら立っているのだってやっとなんだ! あなたが死んでしまいます!」
薫さんが叫ぶが、父は顧みず、咆哮する。
「定められた宿縁を断ち切り、神をも越えてやろう!」
ぎろりと、視線が俺に差し向けられる。
「日色は不敗だ」
「ぐっ」
念力が俺の体の自由を再び奪った。磔にされているように、宙に浮かべられる。その間にも、体の組織が外圧できしめくように締め付けられる。胸が反り、顎が上がった事で、首が晒されて、息ができない。
「あがっ、」
父の手が次第に拳に握り込まれていくのに合わせて、締め付けが強まる。
「がっはッ」
吐血。襟周りが真っ赤に染まる。
「ヒデ坊!!」
薫さんの焦った声が聞こえ、使用人が数人騒ぎに気がついて外へ出てきていた。しかし、誰も止められる者はいない。
「世界の終わりを待つことなんてない。日色の恥はここで消し去ってやろう」
父の拳が閉じ切る。
ぐしゃ。
「————」
音にもならない潰れた悲鳴。
加織と賢臣につけられた傷が加圧で開き、新たに血が吹き出した。
ぱっと拳が開いて、それと同時に俺は地面に落とされた。重心が後ろにいったせいで、背中から叩きつけられて、後頭部を酷く打った。
「ごぼっ」
血の塊が口から出て、目が霞んだ。
——死ぬ。殺される。
朝からずっとそんなことばかりだ。
父親に殺されるなんて、負け犬には似合いの末路なのかもしれない。きっと罰だ。
せめて、加織に殺されたかったのか? いや。
加織と死にたい? 果たしてそうだろうか?
いや、俺は加織と——。
俺は倒れたまま掌を父に翳した。すかさず父も対応する。
通常の視力では見えない、念力の磁場が拮抗して——相殺した。
俺は人差し指をこちらに招くように曲げる。
父の背後の盆栽を次々と浮かばせて、父の背を目掛けて突進させる。すぐさま反応した父は、手刀でそれらを撃ち落とした。
「ハッ」
父は手をぱっぱと払い、自ら撃ち落とした鉢の割れた盆栽を拾い上げる。片手で根っこを掴んで状態を確認した後、恨めしそうにこちらを睨んだ。
「なぜ抵抗する? 抵抗してどうする!」
盆栽を放って、顔を真っ赤にしながら、激昂する。
「そもそもなぜお前は生きているのだ。爺さんは厄災の後、三日とたたずに死んだ。それが御印を宿す者のさだめ。神が定めたからではない! 印の者は厄災に打ち勝つためだけに生き、勝利の瞬間の為に生命を使い果たすものだ! どうして生き恥を晒す!」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ——屋敷全体を震わす地鳴り。怒気が可視のオーラとなって、父から立ち込めている。
俺は渾身の力を奮って立ち上がった。
父が溜めの動作に入った。仕掛けてくる、と思った瞬間にはすぐ側に迫っていた。
鳩尾に下から突き上げるような拳が捩じ込まれる。体を大きく後ろに逸らして、バック宙で回避した。
俺はその勢いのまま着地時に大きく跳ねて、屋根の瓦の上に乗った。衝撃でばりんと何枚か踏み壊した。
すぐに父が跳躍し、屋根に飛び乗る。開いた両足で着地して、俺より多くの瓦を壊した。
「また逃げるかァ!!」
「俺は、ただ、最期まで加織と一緒にいようって決めたんだ」
加織が生きているのなら、俺は死ねない。
例え、加織が俺を殺そうとしていても。
けれど。
「…なのに、彼女からも逃げてしまった」
彼女の本心を知るのが怖かった。
取り返しが効かないほど、彼女に嫌われていたら。そう考えるほど
「けど、俺やっぱり、彼女に会いたい。向き合いたい。最期の時は隣にいたい」
俺は彼女と最期まで生きたい。
そんなこと、俺には許されない事は分かっている。けど、少なくとも俺は…。
「だから親父、俺は今ここで、あんたには殺されない」
父は目を見開いたままの、鬼のような形相で、腹から笑った。
「やっと口を聞いたと思えば、そんなことを! ハ! 嘆かわしい! 月花は同志だが、使命を忘れ、他者に縋るなど! やはり今ここで果てろ!」
父の足元でぱりんと、音がしたかと思った時には、左のこめかみに衝撃が走り、瓦の海の中に頭からのめり込んだ。口の中に新鮮な鉄の味が広がる。
行き着く間もなく頭蓋骨を鷲掴みされて、宙吊りになる。つま先が辛うじて屋根に触れる。背後には何もない。手を離せば、真っ逆さまだ。
その時。
屋根の上に降り立つ人の影が見えた。
「お義父さん! 待ってください」
そこにあったのは——
「かお、り…!」
愛しい人の姿だった。
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