三章 二話 ### 十二時 二十一分 ###
東第二地区に来ていた。
第二地区は東西南北全て、民間人の生活区の割合が大半を占める。他の地区と比べても、人口密集度が高い。
俺は最も人口の多い中心街から離れ、人目を忍んで移動する。
とは言っても、先程街の入り口から見えた市中には、殆ど人の気配がなかった。亡霊の住む街の様に静かだ。店の軒先には商品が出ておらず、家屋の門扉は固く閉ざされていた。
そして、誰の目にも止まらずにやってきたのは町外れの一角。小さな一階建ての一軒家があって、俺は玄関の扉の前に立った。
表札には井ノ上の文字。
緊張で濡れた手を拭きながら、ごく普通のインターホンに指を置く。
すると、玄関の真横にある二坪程の庭に面していた大窓が開き、誰かがこちらに顔を出した。それは、ちょうど頼りにしてここまで来た人物、その人だった。
「良仁!」
「英…。どした」
戸惑い混じりに、こちらに手をあげて返事したのは、俺が唯一気兼ねなく友人と呼ぶことができる井ノ上良仁だ。高校卒業して、数度会ったくらいなので、会うのは久しぶりだった。
「いきなりで悪いんだけどさ、少しだけ休ませてくれないかな。相談したいこともあってさ」
「え、あ、ああうん。あがって」
良仁が一度引っ込むと、とたとたと足音が聞こえて、玄関の錠が外れる音がした。
ゆっくりと開かれたドアの隙間から、目の前に現れた良仁は高校の頃よりも筋肉がついて、がっちりとした体躯になっていた。
しかし、間近で覗いた彼の目は焦点が不慥かで、うつろに澱んでいた。相対しても生気が薄い。
「悪いな。ありがとう」
「ううん。また会えて嬉しいよ」
良仁の頬が僅かながらに蒸気する。照れ屋の良仁は高校時代からよくこういう表情をしていたので、もの懐かしさを覚えた。ほぐれた空気も相まって、雰囲気も和む。
「その服やばいな。ズタズタじゃん」
「あー、うん、ちょっとな」
「中で話そう」
「お邪魔します」
応接間に通された俺は、部屋の中をぐるりと眺めた。棚にはトロフィーや賞状、家族写真などが置かれている。
良仁の家に来たのは数えるほどで、専ら良仁の部屋に直行で上がり込んでいたけれど、この応接間にも何度か入った事がある。
良仁の両親に招かれて話をすることになった時だ。良仁の両親は俺に酷く親切で、俺の家のこともあって俺を煽てるように話すので、やりずらかったのを覚えている。
糸を手繰る様にあの頃を思い出す。
学校にいるのが憂鬱で、とにかく早く帰って加織に会いたかった。
俺は生徒会長をやっていた。というか、やらされていたに近い。
自分の意思は殆どなく、半ば強制的に立候補させられ、生徒会選挙での得票はぶっちぎりの一位。学生時代、俺は周りから何かと持ち上げられた。凄く嬉しかった反面で、やりづらかった。
快活に見える様に拘りもなく沢山のことをした。どれも長続きはしなかった。
あの頃から続いている趣味といえば、試験勉強とか、家で体を鍛えている時などに聴いてたクラシック音楽。ショパンのボロネーズなんかをよく聴いた。
これは吹奏楽部だった良仁の影響だった。
俺は懐かしくなって軽い調子で、麦茶を運んできた良仁に尋ねる。
「良仁、まだトランペットやってるのか?」
「やってるわけないだろ」
コップを机に置くのと同時に、戸を閉めるように言われた。
気まずさと寂しさを誤魔化すために曖昧に笑う。良仁は一口だけ麦茶を飲み込んだ。
「…なんか、ごめん。ちょっとやっぱ、今日は、落ち着かなくてさ」
旧懐を誘うあの日々は、遠い過去なのだ。今あるのは今の俺たちで、今ある現実だけ。
でも、こんな日なのだ。過去に想いを馳せることしか、俺たちにはできない。
そんな事を考える内に、一つの記憶が蘇る。
——そういえば、あの頃、一度だけ"あの子"に会ったんだった。
春。命が生まれる季節であり、入れ替わる季節。
終わったはずの冬の名残のある、冷ややかな春。鶏が卵を産んで、東風の吹く前の、その間。
彼女は、そんな空気の中でただじっと、俺を見つめていた。
学校を出て、すぐの坂道の上の樹木の横。棒のような手足が覗く青いワンピースに、生成りのニット。
その日、授業を終えて足早に校門をでると、黄昏時の斜陽を背にして、彼女は佇んでいた。痩せた小さな身体から、背負ったリュックサックがはみ出しているのが見えた。
亜麻色の髪を風に靡かせて、何かに耐え忍ぶように寄せられた眉。
次々と帰路をいく他の生徒には目もくれず、明らかに俺だけに注がれる視線に、その場から動けなくなった。その眼力と気迫に圧倒されたというよりは、あまりの朧げな存在感に、目を背けることができなかった。
目を離したら実像は消えてしまうのに、一生忘れる事ができないような、どこか幻惑めいた少女。
やがて、彼女は夜を連れて、その場から消え去った。
俺は後を追うこともできずに、しばらくその場にとどまった。
この時の俺は、彼女の正体を知らなかった。
「英?」
「ん、あ、ごめん」
「それにしても、もう会わないと思ってたから驚いたよ」
「ああ」
「なんだか、落ち着いちゃったな、英」
「そうか?」
「うん。というか、取り繕って被ってたものが脱がされちゃったみたいな」
「……」
「あ、ごめん。悪い意味では、ないんだけど」
言葉尻を濁されて、返答に困ってしまう。
自分でも心当たりはあった。話題を切り替えようと、苦し紛れに言葉を継ぐ。
「よ、よかったよ。また会えて。お前くらいしか友達いないからさ」
「…よく言うよ」
苦味のある笑顔で、良仁は言った。
後方で掛け時計の針の音が妙に大きく聞こえた。
「なんでもできて、頼めばなんだってやってくれて。すごく強くて、リーダーシップがあって。みんな英を頼りにしてたじゃないか」
「そう、なんだけどさ…。だけど、みんな、ほら、俺を押し立てるみたいなところあっただろ。仲間だけど、なんか俺だけ目線を合わせてもらえないような感じ…」
良仁が言った、被ってたものが脱がされたという表現はまさにそうで、俺はずっと被り物一枚で、みんなが望む俺——日色英を演じていたのだ。
正直な心中を吐露すると、意外そうになのか、相手にされていないのか、良仁は眉を上げて言った。
「でも、あんなに良い奥さんもいてさ。贅沢だよ。あ、こんな時に惚気はやめてくれよ。高校時代でもうお腹いっぱい。こっちは彼女の一人だって作れなかったのに。あ、いい雰囲気になった子は何人かいたんだよ? けど、結局いつも、さいごの話し合いで理想が食い違っちゃってさ」
「それでさ、それ、なんだよ…実は——」
「——ははあ。それは災難だ…」
俺が今朝のことについて話すと、どんよりと、俺と一緒に肩を落としてくれる良仁は変わらずに人が良い。
「どうしたらいいと思う」
「いやあ、俺独り身だしなぁ…」
腕を組んで真剣に考え込む良仁はやはり人がよかった。良仁はぽつりとこぼす。
「何も、こんな日にね…」
ざわりと泡立つ皮膚感覚。
加織や光毅さんが時間がないと言っていた時は感じなかったのに。
御家の人たちに言われるのと、良仁のような一般の人にとでは感覚が違った。
昨日だったらよかったのだろうか。加織は何故今日にしたのだろう。
「昨日の話はどうでもいい」と、彼女は言った。
でも、賢臣の話から、昨日から彼女は俺を殺す算段をつけていたようだ。答えをくれる人はここにはいない。そして、俺は答えが白日の元に晒されるのを恐れていた。
その時——。玄関のドアが乱暴に開かれる音がした。
廊下の床が深く軋む音と、憚る事のない足音が近づいてくるのが聞こえてきた。
「ったく。ちくしょう。酒屋が酒売らずにどこ行きやがったんだ。酒がなくてやってられっかつんだよ、ちくしょう」
荒々しい悪態をついて顔を見せたのは、良仁の父親だった。
その風貌は、記憶の中の彼とはまるで変わってしまっていた。
全体的に丸くなった体型だけでなく、纏う雰囲気がまるで別人になっていた。
アイロンがけがしっかりされ、パッキリとしたワイシャツが良く似合う人だったのに。だらしなく前の空いた、ヨレヨレのシャツは何日も洗われていないのが一目でわかった。
にわかに胃の底が切なくなるような痛みが滲み出す。
「親父…」
「良仁、酒だ。酒はねぇのか」
「ないから買いに行くって出て行ったんだろ…お客さん来てるから、静かにしててよ」
「ああん?」
じろりと俺を見た良仁のおじさんは、目を剥いて驚いた後、口の端から嘲りを吹き出すように嗤った。
「は、ははは。これはこれは」
良仁と同じく、鬱屈を凝縮したような瞳が俺を見下ろす。
「日色サマがなんの用だ」
侮蔑を含んだ声。
平身低頭に断っても、それ以上に低い位置からあれこれと菓子折りやら贈り物をくれた人の影は全くなくなっていた。媚び諂っていても、優しかった笑顔も、今はもうない。
「良仁に話があって…。でも俺、もう行くよ良仁。話せただけでもよかった。おじさん、お邪魔しました」
居た堪れなくなって立ち上がった中腰の俺に、良仁は言う。
「でも、どこに行くっていうんだよ」
「それは…」
俺が床に視線を彷徨わせると、おじさんはハンッと鼻を鳴らした。
「なんだあ、俺とは話したくないっていうのか」
酒がなくても据わった目は、俺を圧迫するように見ている。
「いえ、そんな、事は」
「じゃあほら、座れ」
顎で示されて、仕方なく元の位置に座り直す。
必死で作る愛想笑いも、罪悪感に歪む。ひどく喉が渇いたが、目の前の麦茶に手を伸ばすのは憚られた。
おじさんも俺の対面にどっかりとあぐらをかいて座った。そして良仁の分の麦茶を奪って飲み干した。
「たく、味気ねぇな。…そうだなあ、お前の武勇伝を聞かせてみろ。いつの話だってかまわねぇ。さぁ、話せよ。お前は何をした? 何ができたんだ?」
「…」
「親父!」
良仁が咎める様に叫ぶと、おじさんは一つ舌打ちをして「いいじゃぁねぇか」と良仁を遇らう。
「じゃあ、あれだ。お前の家の周り、まだ人が集まってるか?」
隣に座っている良仁が心配げな顔で覗き込んでくる。俺はそれをやんわりと制して、おじさんの方を見てぎこちなく頷いた。
「…ええ。今朝も。今も、いると思います」
「はは、こんな日まで。ご苦労なこった」
家を取り囲む黒い防護壁の向こう。さらにフェンスの外側に見えた陽炎を思いだす。
過去の記憶を交えて、想像はくっきりとした像を結ぶ。
拡声器と、大きなパネル。旗や写真ボードを燃やしたことで立ち登る黒煙。
心が死んで濁ってしまった、数多の双眼。
警備システムが稼働しているので、彼らは囲いの中はおろか、フェンスの中にも入ってこられない。
あれは、俺への糾弾の声だ。非難だ。罵倒だ。俺に向けるしかない怒り。そして、慷慨悲歌のうねりでもあった。
「だけどよぉ、俺も押しかけてやろうかと思ってたんだ。冷やかしにな」
「おい親父」
制する良仁の声も無視して、おじさんは続ける。
「今更、お前にもどうしようもできないもんなあ」
昏い眼には、どこか生き生きとした光明が差し込み、口元には歪んだ笑みが浮かぶ。
俺が黙り込むと、おじさんは机に肘を置いて話し始めた。
「なんだぁ、話さねえのか。…俺はなぁ、人生で何も残せなかった。結果こんな飲んだくれのろくでなしさ。酔っ払うしかできねぇ奴がよ、酔っ払って、そんな哀れな自分を誤魔化す事すらできねぇ。俺を笑うか? 笑えよ、なぁ」
拳で強く、机の上板が叩かれる。麦茶の中の氷がカランと、場違いに涼やかな音を立てた。コップの側面に浮かんだ雫が近くにある同士で絡み合い纏まりながら、下へと伝い落ちる。
「ああ、そうか、無駄だよなぁ」
言わないでくれ。と思った。
今すぐ立ち上がって、この家から飛び出したい。そして、どこまでもどこまでも走って、しまいには海に飛び込んでしまいたい。車に轢かれたって、この国で一番高い山から飛び降りたって、俺は死ぬことはない。けれど、息ができない場所では生きられない。
だから、ただ波に身を委ねて、海底に沈んで、眠る様に——。
しかし、すくんだ様に、足は動かない。
「——こんな日だ」
おじさんは平坦な声色で言った。
やめてくれ。心の中で悲鳴をあげる。
今朝、加織からも逃げてまで必死で追い出して、目を背けてきた事実を俺に突きつけるのをやめてくれ。
そんな胸中の懇願は届かずに、断罪のギロチンの刃は落とされる。
「今日、みぃんな死ぬんだからよ。話なんて全部無駄だろ」
ぐらんと視界が下に落ちる様に揺れて、思わず首に手をやる。首はしっかりとついていたままだったが、多量の汗に濡れていた。
そのままだらりと腕を落とし、固まることしかできない俺は、罵声を、自らの罪を、頭から浴びた。
「お前が失敗したせいで、こうなったんだろうが! 世界が終わるのはお前のせいだ!」
ガチャーンッ
と、叫びと共に立ち上がったおじさんが机をひっくり返して、俺に詰め寄る。そして、俺に向かって振り上げられた拳に良仁が縋りついた。
「やめろよ!」
「離せ! 邪魔すんじゃねぇ!」
俺は、揉み合う二人をぼんやりと眺める。
逃げても逃げても追ってくる。逃避した先にも現実はある。
俺に流れる血と大敗の記憶がそれを呼び起こす。
「何をボケっとしてる! 無力な俺たちを心の中で笑っているのか?」
良仁を腰に引っ掛けたまま、おじさんは俺の胸ぐらを掴んで引き寄せた。膝立ちの姿勢になったが、うまく体に力が入らずに、掴まれた襟首につられる様な格好になった。唾が飛ぶ。
「お前、だから、こう、なったんだ!」
ただ、なすがまま、俺は何もいえない。おじさんは一言一言を俺に刻む様に叫び浴びせる。
「だから、そういう言い方はないだろ親父!」
良仁は立ち上がって、おじさんの腕を押さえる。
「うるせぇ、良仁お前だって死ぬんだぞ! ちゃんとわかってんのか! お前だって"厄災"を見ただろう!」
「…」
「…」
机がひっくり返った時に転がった麦茶と氷が、絨毯の波間に染みを作っている。撥水性の高い絨毯の毛の表面で水は上辺を伝って、じわじわと広がっていく。それは俺の真下まで伝わってきて、ズボンの膝を冷たく濡らした。
おじさんの興奮しきった鼻息だけが聞こえていたが、ふとため息と共に、俺の胸ぐらの手が離された。
「言い返しもしねぇのか、腑抜けが」
彼は正しい。これは、確かに俺の失敗なのだ。そう思うからこそ、俺は加織からさえも逃げてきたのだから。俺は、一切の取り返しがつかないことをしてしまったのだ。床に手をつく。
「も、申し訳…」
「ごめん、帰ってくれ」
謝りかけた俺を遮るように、良仁は沈鬱な表情でそう告げた。
「…謝るのは違うだろ。君は、戦ってくれたじゃないか。それに、君は、一度は勝っただろう。みんな君に全部乗せて、勝手に夢を見た。だから、やめてくれ」
良仁に肘のあたりを引っ張られて立ち上がる。
「お前こそが、厄災だッ!」
おじさんは目を剥いて、その場で叫んだ。
良仁はおじさんを鋭く睨んでから、俺の背中を押して、外へと促した。
俺の後に続いて玄関の軒先に出てきた良仁に振り返ると、彼は目を伏せた。
「母さんが亡くなってから、ああなっちゃったんだ…。連絡してなかったから英は知らないと思うけど、半年前の厄災で死んだんだよ」
ひゅっと自分の喉が鳴った。罪責感に四方八方から押しつぶされて、ぺしゃんこになった。
「俺、やっぱり、」
中に戻ろうとすると、片手でとめられた。
「英を責めるつもりで言ったわけじゃないよ」
「…」
あの日のことを思い出す。雨と嵐。飲まれゆく街。そして、どこまでも広がる赤い海。恐ろしい記憶。
胃がひっくり返そうになって、口元を押さえる。良仁が背中をさすってくれたが、その感覚も遠く感じるほどの目眩が襲う。
「俺を恨んで、当たり前だよ」
「恨むわけないだろ」
垣間見えたのは、虚無を孕んだ、鳥のような無機質で真っ黒な目。
「別に、君のせいじゃ、ないだろ」
良仁は口だけ笑ってみせた。無理をしているのがすぐに見て取れてしまった。
生じてしまった虚しさを産み落とすように、良仁は言葉をこぼした。
「だって、だって決まっていた事なんだから」
「…」
「みんなだって、君が思うほど、君を憎んでなんかいないよ」
良仁は穏やかな表情になって、俺を見た。
悟りきって、全てを諦め、手放した、晴れやかな顔。
「世界が終わるのなんて、皆知ってるだろ」
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