二章 二話 ### 九時 十五分 ###
「お」
俺は足を止めて、その壁を見上げた。
鬱蒼とした樹々の合間に自宅と同じくらいの背丈の異質な黒壁がそびえている。うちのように周囲にフェンスは張られていない。
ナガナキに曲を止めてもらうように操作して、あたりを見回す。そこには誰一人もおらず、深閑とした空気があるだけだった。
つなぎ目のない塀に触れ、その場所を探す。
ここだ。俺は掌を当てた。
ピーンポーン
と、間が抜けるくらい平凡なチャイムの音が響く。
暫くして、壁にカッターで切り抜かれたような四角い筋が入って、入り口が現れた。
中に入ると、手入れの行き届いた樹々に囲まれた庭園が広がっている。隙間に玉砂利が敷かれた飛び石のある通路を進む。
此処は敷地内に三つある庭園の内、一番大きい。そこかしこ無数に敷かれた立石が目立つ、どこか異空間めいた独特の雰囲気のある庭。
その風景に郷愁が胸に迫るようだ。
そして、松の木や灯篭を横目に、玄関の前に立った。
その長い歴史を感じる入母屋屋根の立派な作りのお屋敷。
月花。表札にはそう書かれている。
ここは加織の実家だ。
「どうなされました! 英様」
自動で磨りガラスの扉が横に開いて、加織の乳母をしていた小枝子さんが迎えに出てきた。
「驚きましたよ。先程モニターに英様が映って。さぁさぁお入りなさい。あら、加織お嬢様はご一緒ではないのですか?」
「小枝子さん! お久しぶりです。元気そうでよかった! あー…っと、俺一人なんだ…」
小枝子さんにはとてもじゃないが、本当のことなど言えない。俺に原因があるとは思うけれど、小枝子さんは必ず加織の肩を持つので、最悪月花家の敷居を跨がせてくれなくなる可能性がある。
はぐらかすと、彼女は訝しがったが、屋敷の中へ入れてくれた。
そのまま客間に通された。縁側の向こうには、広い中庭の枯山水がよく見える。苔生した大岩を中心に、砂でできた波紋が幾重にも描かれている。
俺が座布団の上で正座してみたりあぐらをかいてみたりしていると、人の気配が近づいてきた。俺は、さっと正座に直る。
「やぁ、一体どうしたんだ」
敷居をくぐって現れたのは、月花家の当主である月花光毅さんだ。
線の細い体と、どこか色香のある淡麗な顔立ち。片目に緩くかかる横わけの前髪。その下に覗く長いまつ毛。加織と面影が重なる。
光毅さんは、加織の実兄にあたる。
「君の顔がまた見れるとはね。あれ、加織は」
光毅さんにもすぐに訊かれて、俺は気まずさに耐えることができずに視線を下に逸らした。
「お久しぶりです。…実は、その…俺、家出をしてきまして…」
光毅さんは表情を固くした。派手さはないものの、端正な顔立ちの彼の真顔には凄みがある。
「この期に及んで、加織に愛想つかしたっていうのか?」
「いやいやそんなはずないです! 実はその…急に加織に包丁で切り付けられて…」
「…っははは! あの加織が、君にね。余程のことがあったらしいね。何したんだい」
「それが、見当もつかなくて…」
俺が俯いて口ごもると、また光毅さんは細面に似合わない豪快さで笑った。そして一通り笑った後、目に浮かんだ涙を拭って光毅さんは言った。
「日色の
「やめてくださいよ」
御印様——久しぶりにそう呼ばれて、砂でできた心臓をシャベルでざっくりともっていかれたような気持ちになる。冗談混じりなのはわかっているが。
光毅さんは、俺の言葉を気に留めることもなく、
「加織は日色家との縁の証だが、実質、月花は先代が生まれ嫁いで子を成した時点で役目を終えている。粗相があればどう扱ってくれても構わないよ」
と、微笑んだ。その顔と裏腹な乾いた言葉に俺は目を伏せる。
月花家は俺の生家と密接な関係にあり、ある条件を満たした時だけ、月花の家から娘が嫁いでくるのが慣しになっている。加織はそのしきたり通りに俺の許嫁となり、正式な妻になった。
光毅さんは、庭の方に目をやって、自嘲気味に言う。
「僕だってそうだ。姉が継ぐはずだったこの家を今更になって継がされた。所詮はお飾りさ」
月花家は女系の家で、当主は長女が務めるしきたりがある。
しかし、光毅さんと加織の姉である菊華さんは、数年前に一般の男性と駆け落ちをして家を離れた。それ以来、月花家とは疎遠だ。そして今、彼女の代わりを務めているのが光毅さん、というわけだ。
そんな内情があって、彼は時折、卑屈な発言をする。
「そんな言い方しないでください」
口から出た言葉は思ったよりも語気が強くなった。彼への想いももちろんあった。しかし、何より、義理の兄といえど、聞き捨てならない。
「俺は、加織と結婚できて幸せでした」
「…そうか。すまない。愚痴をこぼしてしまった。許して欲しい。それに、兄としては、嬉しいな」
「すっ…すみません…生意気な事を言って…」
「気にするな。私が悪かった。それで、そういえば、真っ先にここに向かってきたのかい?」
口だけ吊り上げて、不本意ながら俺が頷くと、光毅さんは苦笑いを浮かべた。
「実家に帰る妻なら良く聞くがね。嫁の実家に帰る夫か」
「ははは…」
光毅さんが暗に言った事の意味が、ガツンと見えない衝撃とともに頭を打った。
最近の俺は変わった気がする。気が小さくなったというか。笑って誤魔化す事が増えた。
俺の感情の機微を見透かしてか、光毅さんは、はっきりと容赦ない言葉を口にした。
「実家には帰れないか」
「…」
「それで君は、匿われる為にうちに来たのか?」
「いいえ」
訂正しなければならないと思い、即座に顔を上げる。光毅さんは静かに笑った。
「では、君は何をする為に?」
「仲直りしたいんです。加織と。一刻も早く」
大真面目に俺がそう言うと、そっちか…と声を漏らしながら、光毅さんは呆れたような顔をした。
「それは…そうだろうね」
「はい……じゃないと今にも死んでしまいそうで…」
「……君、色々と悪化してるね。前から隠さない男だったけれど」
「とにかく、ご助力を得たいと思って。光毅さんから加織を説得してくれませんか?」
「そんなことをしてなんになる? やはり、君は逃げてきただけだな」
「……」
「今すぐ戻れ」
冷や水を頭からかけられた様な気持ちになって、目を伏せる。
光毅さんは視線を合わせない俺の目を、縫い付けるように見た。
「これは助言だ。そして、これが私にできる精一杯の助力さ」
「いや、でも。加織と二人きりでは冷静に話し合いできるかどうか…間に入ってくれるだけでも…」
「加織には、結婚した直後に、二人の問題には口出ししないで欲しいと言われている。あの子は意思が強いからね。無駄だろう」
「…わかり、ました」
光毅さんのいう通りだ。二人で解決しなくてはならない問題なのだ。それは、わかっているのだ。
そこで、光毅さんは背筋を立てた姿勢で、立ち上がった。
「さあ、帰ってくれ。私だって時間がないんだ」
「…話を聞いてくれて、ありがとうございます」
「気にすることはないさ。月花と日色の仲だ」
「あ、ひとつだけお願い聞いてくれませんか…」
「なんだい。まだ食い下がるか?」
「いやあの、シャツ、いただけませんか…。パックリいってしまって…」
七分袖の袖口をぴろぴろさせて見せると、光毅さんは深い溜息を吐いた。
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