第10話 奇跡、降れ

「なるほど、リリアナ様にはこの世界に来たその日にこのような能力が宿っていたわけですね?」

 未だ赤らむ顔を縦に振り、肯定を示す。

「はい。元の世界ではありえない力が、ここに来た瞬間に使えるようになるなんて、なにか作為的なものを感じたんです」


「ふむ、それでは、この世界の危機というのはどういう意図があってのことですか?」

 響くは低く優しいガドルの声色。

 ぎくり。文字が可視化できるならばリリィの頭上にはきっとそのような音が書かれているだろう。


 どう言おうか。まさかフェルがそう言ったのだと正直に話すわけにもいくまい。下手な嘘だと断じられて終いだ。けれど時間をかけて考えれば、不審がられる可能性もある。

「えーと、私の知ってるフィクションの作品でそういうのがあって…もしかしたら私がこんな力を使えるようになった理由は、世界の危機とかかなぁー…って」


 咄嗟にそう言うや否や、リリィは羞恥に耐えられず顔を伏せた。

(は、恥ずかしい…!こんな歳でこんな理由を口にするとか…!)

 やはり苦しい言い訳でしかないので、二人とも不信感を抱いてしまっただろうかと、ゆっくりと二人の方を見上げると、何やら神妙な面持ちだ。


 そんな似た雰囲気を漂わせ顔を見合わせる兄妹に対して、リリィがはてな?と思うより先にマーナが、

「実は、リリアナ様の言う通り、この世界には半年前からある未曾有の事態に見舞われています」

 真剣な表情は、からかっているのではないと一瞬で理解できるものだった。


 世界の危機、それは一応事前にフェルから聞いてはいたが、その実態は詳しくは知らない。

 あるいは、一般人が認知していないような危機が迫りつつあるのかとも思っていたし、この町の様子を見るに、まだ世界の危機だと判断しているような緊迫感は無かった。


 ゆえにこそ、戯言と言われる可能性が高かった幼稚な言い訳で、ここまで真剣な表情を見せてくるとは思いもよらなかった。

 想定外の反応に、リリィは遅れて姿勢を正す。


「もしやリリアナ様がそのことを理解したうえで発言したのかもと思いましたが、昨日の質問への返答からおそらくこちらの事情を知っているわけではないと思うので、説明させていただきます」


 そう言ったはいいものの、マーナは数秒の間、思案するような顔を見せ、すぐに発言を訂正する。

「いえ、それよりも見てもらった方が早いですね。まずはこの映像を見てからにしましょうか」

 言いながら、マーナは宙に画面を発生させ、なんらかの操作を行う。



 するとそこに映し出されたのは、大きくひらけたグラウンドのような荒野。遠くには緑が見えてはいるが、その荒野には草一本たりとも生えてはいない。


 そして、大きな町を背負って立つ数多の人の群れが映り込む。彼ら彼女らは皆一様に武器を構えて、険しい表情を崩さない。

 耳の長い実直そうな顔立ちの青年、異様に髭の発達した背の低い中年男性、瞳を赤く輝かせ妖しく牙を伸ばす女性。さらには己の肉体を獣に近しい姿へと変化させる者までいる。


 ある者は剣を正眼に構え、またある者は槍を持ち、あるいは身長の倍はある大槌を振り回し、もしくは瞑想するかのように心を落ち着けている。

 皆が皆、すぐさま戦闘へ移行できる準備を完了させていた。


 そして今度は景色をぐるりと回転し、臨戦態勢をとる人々と対峙する生物を画面に映した。否、それは生物などというものではなかった。


 確かにそれらは皆生き物の姿をとってはいる。虎や馬、狼に熊。様々な姿形を有してはいるけれど、既存の生き物にそれはよく似ていた。


 だが、決定的にして致命的に違うところが一つ挙げられる。それは体を構成する組織が黒紫に輝く結晶であるということ。

 生き物というにはあまりにも無機質なその結晶の獣たちは、呼吸をすることもなく、ただじっと、目の前の人間の動作を待っている。


 両軍の距離はおよそ100m。数秒の静寂は、天をも貫くかというほどの鬨の声で破られた。

『戦闘、開始ーー!!』


 大地を踏み締める、いや、踏み抜くような勢いで両軍の先頭部隊はぶつかり合う。

 これから、手に汗握る戦いが始まる…というところで映像は終わってしまった。


「これは、一般に公開されている報道用の軍の戦闘映像です。一部でしかありませんが今はこれで十分でしょう」

 そんなマーナに続けて、ガドルが口を開く。

「そしてこの結晶の化物こそが、この世界を脅かす危機、通称マジュウと呼ばれるクリスタルゴーレムです」


「マジュウ…」

 反芻するようにガドルの言葉をなぞるリリィに、彼はうなずき、

「はい。半年前、突如として現れ、各地を襲撃するゴーレムたちです。術者やその仲間達は一向に姿を見せず、目的も外見も不明な集団、あるいは個人による世界規模の危機なのです」


「そして、このマジュウ自体はそれほどの脅威とは言えないものの、この半年間、マジュウによる襲撃は一度も収まらないのです。各地にある町に、週に一度必ず訪れる災厄は、途切れることはありません」

 恐ろしそうな声音で、そうリリィに告げた。


「並大抵の魔力ではこうはいかないのです。国という単位で魔法を行使しなければ実現不可能なその襲撃に、なんと世界中のどの国家も関与していないのです」

 言葉を紡ぐ彼の声には重みがあるように聞こえた。


「おそらくは、この世界の技術を超えた何かを用いた異界からの侵略者。あらゆる研究者がそう結論付けています。だからこそ、リリアナ様から得られる並行世界の情報には大きな価値があるのです」


 そこまで聞いて、リリィはハッと気付いたようで、

「でも、私が…そんな人たちの仲間っていう可能性も…ありますよね?」

 言いづらそうに、けれど、言わずにはいられない。そんな驚くほど正直なリリィに、二人は苦笑を露わにした。


「いえ、これまで沈黙を貫いてきた彼ら、あるいは彼女らが、わざわざ味方を一人だけ敵地へ送るメリットがありません」

 おや、それはどういうことだろうか。味方を送り込む利点がないなんてことがあるのだろうか?


 その疑問に、ガドルが、

「連れてきた使い魔も町の結界内では無力。おまけに本人は役場まで来て魔力検査を行い、戸籍登録をしたいと言ったんです。それもなんの武器も持たずに、ですよ?これでリリアナ様がスパイだったら大したものです」


 言われてみれば確かにそうかもしれない。結界を張った町の事情を、並外れた技術を持つ異界の侵略者が理解していないなどと楽観視することも出来まい。

 むしろ理解していなければ、このような大きなアクションの無い現状は作られていないのだ。


 加えて、連れた魔物は結界で無力化できるし、武器も持たず、手の内を明かし、ここでこうして町の中で人間に囲まれることを容認している。

 今のリリィを敵のスパイと思う方が難しいことは、少し考えるだけで理解できた。


「それでは話を戻しましょう。リリアナ様の言う通り、この世界には危機が訪れています。今すぐ世界中の人が危険に晒されるわけではありませんが、規模は大きく、半年間進展のない不気味な状況が続いています」


「緊急性はないもののこのような事態はまさに世界の危機といえるでしょう。もしかしたら、このタイミングで世界を渡ったリリアナ様は、この脅威に対抗するために来てくれたのかもしれません」


 三人は一息つく。

 なんだか大きなことのために呼ばれたんだなという実感が湧いてくる。


(これからどうなるんだろ…)

 リリィにとって、今の状況は難しいと思えた。


 この世界の住人は異界からの脅威を受けている。そのために異世界に関する研究が進められており、リリィはそれに利益をもたらす可能性を秘めているのだ。


 その重要性は、先ほど言われた世界そのものにとっての賓客という言葉からも理解できるだろう。

 下手をすれば、この世界の誰よりも優先度の高い人物として扱われてしまうかもしれない。


 けれど世界を救うとフェルと約束したからには、一つの場所に留まり続ける事は愚策に他ならない。

 なんとかして、自由に動けるようにしてもらえる状況を作らねば。


 思考を巡らせていると、リリィの鼓膜にマーナの声が配達されてきた。

「リリアナ様、先ほどの異能はどのような能力なのでしょうか?出来ればこれも報告書にまとめておきたいので」


「あ、はい。《治癒の輪ヒーリング・リング》は、範囲の中にいる人全てを癒すものです。肉体と精神体を同時に癒し、傷はもちろん、病気も治せるみたいです。まだ試してはいないんですけどね」



 瞬間。勢いよく立ち上がるガドルとマーナ。

 二人の顔には驚愕が貼り付いている。額から汗が流れ、目を見開き、これまでにない動揺を見せる。



「それが本当なら…」

「いえ、まさか…」

 ボソボソと、聞き取りづらい声は、正確な情報を届ける事はなく空気に溶けてゆく。


 様子が普通ではない。異常なまでに気が動転している。

 なぜそこまで動揺しているのか、その理由がリリィにはわからない。


 確かに異常な性能かもしれないが、実際に二人の目の前で瀕死の重傷を治して見せたわけでもなし、どれほどの病気や傷まで治せるのか確認したわけでもなし。

 フェルから伝え聞いた異常なまでの治癒能力を披露したわけではないのだ。


 だというのに、この反応。二人がここまで様子を変化させる理由が、情報が足りなさすぎる。

(ど、どうしたんだろう?もしかして、何か悪いことでもしちゃったのかな?)

 そんな兄妹に、リリィまで不安になってくる。


 するとそんな状況を打破しようとしてくれたのか、突然、部屋にけたたましい音が鳴り響く。


 いきなりの聴き慣れない音に、リリィとフェルがビクリと驚くが、それは少しだけ、携帯電話の着信音に似ていた。

 マーナが慣れた手付きで、もはや見慣れた空中ディスプレイを起動させ、通話を始める。


 よく見ると、マーナの耳に何かがはまっていて、口元には球体が浮いており、マーナの声に合わせて波打つように動いている。


「ゼレーナ?何か用?今はあなたの世間話は…ええ、今ちょうどその話をして…わかったわ。すぐに向かうから、ちょっと待っていて」


 リリィにはゼレーナの声が聞こえなかったあたり、電話のような機能だったのだろうが、それに関して詳しく考える暇は、リリィには与えられなかった。


「兄さん、リリアナ様。ゼレーナから急いで病院まで来るように言われたわ。急ぎましょう」

 いつもの丁寧なものとは違い、理知的な雰囲気を思わせる話し方は、おそらく彼女本来の口調なのだろう。

 ゼレーナと話す時にもそうだったが、リリアナに対して口調が崩れてしまう事は今まで一度たりともなかった。きっと彼女の胸中にはまだ大きな驚きが渦巻いているのだろう。


 三人はすぐさま病院へ行くことにした。

 道中の二人の背中からは、言い表しようのない不安を感じた。


 〜〜〜〜〜〜


 昨日も来たゼレーナの診察室。そこで彼女は厳しい表情で告げる。

「精密検査の解析を急ピッチで進めた結果、あることがわかったよ。リリィちゃんが異能、あるいは超能力と言われる力を持っていることが」


 精密検査とやらはそこまでわかるのか。身体検査でもわからないような事も解析できるのであれば、面倒な手順を踏んでまで稼働させた甲斐があるというものだ。

「マーナの言ってた通り、さっきまで話してたんだろうさ、みんな顔に書いてあるからね」


 ゼレーナがざっと三人と、ついでにフェルの顔を見渡し、ふぅ、と短いため息をつく。

 次いで、さて、と前置きしてから、

「リリィちゃん。あたしにも説明してくれるかい?こっちはリリィちゃんが異能持ちってことしか知らなくてね。どんな能力なんだい?」

 と優しく訊いてくる。


 ゼレーナは二人の驚愕とその理由を知っているのだろうか。言動から察するには、あまりに情報が少ないが、マーナの友人である彼女は何かを知っているのかもしれない。


「は、はい!私の能力名は《治癒の輪ヒーリング・リング》。効果は、範囲内の人の肉体と精神体を癒すこと…です」

 いきなり話題を振られたことに驚きつつも、リリィは答える。


「んー、それは元の世界にいた時から使えるような力だった?」

「いえ、ここに来てから使えるようになりました」


 二人とは異なり、ゼレーナに驚きは見られなかった。精密検査によってある程度は予想できていたからなのだろうか。

「ふーむ。一応使って見せてもらえるかい?」

「あ、はい。《治癒の輪》」


 小さな白い部屋を、柔らかな銀色の光が満たしてゆく。徐々に空気に入り込むように消える光を見届けてから、緑髪の医師は何かに納得したような様子でうなずいた。


「確かに治癒魔法に似てるね…ざっと魔力を見ても異常もなさそうだし…。なるほどね…こりゃ取り乱すのもしょうがないか。ちょうど親父さんもいるし、みんなついといで」

 席を立ち、みなを先導する。


 理解が追いついていないリリィも、足早に進む三人に遅れないように後を追った。

 茶色い髪の兄妹は、なおも表情を固くしている。



 着いたのは3階の病室。2階までとは異なり、ところどころに見えていた木の模様が多くなり、自然の中にいるような錯覚を起こす場所だった。

 思わず深呼吸したくなるだろう。いつものリリィだったなら。


 けれど今はそんな気は起きない。周囲の重苦しい雰囲気を前にしてそんなことをする気になったら、それはもう空気の読めない変人でしかない。


 そんな中たどり着いたのは角にある小さな病室だった。その前に立ってから、ゼレーナはノックをして「どうぞ」と返って来てから入室する。

「親父さん、ちょっとごめんよー」


 気安いその声には、低くも優しさを感じさせる音が返ってきた。

「ああ、ぜっちゃん。ちょうど話が終わったとこだよ。ああそうだ。ぜっちゃんも見てくれ、今日の家内の顔色はとても良くて…おや、ガドルにマーナか?母さんの見舞いに来てくれたのか?」


 その声はとてもガドルのそれによく似ており、茶色の髪は整えられ、老紳士といった風貌の男性がそこに立っていた。

 もし実際にタキシードでも来ていれば、映画に出てきそうな紳士だと思ったことだろう。


 年齢は70代に到達しているだろうと思えるが、背筋は長身を見せつけてくるかのように真っ直ぐ伸びている。

 穏やかな表情は、縁側でお茶を飲んでいる風景が目に浮かぶようで、まさに優しいおじいちゃんといった見た目だった。


「親父。ごめん、見舞いってわけじゃないんだ」

「おう、そうか。ん?そちらのお嬢さんは?」

 老紳士は、息子の背後にたたずむ銀髪の女性に気が付いた。


「はじめまして、リリアナです」

「おお、これはご丁寧にどうも。私はガドルとマーナの父のオードルと言います」

 ゆっくりと挨拶を返したのは年のせいというわけではなく、おそらく生来の穏やかさなのだろう。

 滲み出るような優しさがそれを物語っている。


 二人が自己紹介を終え、タイミングを見計らっていたゼレーナが口を開く。

「あー、ベレードの親父さん。今日この子を連れてきたのには訳があってね。あ、ちょっと席を外すよ。リリィちゃんもついといでな」


 リリィはフェルを抱きしめながら、一度室内から逃れる。

 さっきから何がなんだかわからないリリィに、突然ゼレーナが頭を下げてきた。


「リリィちゃん。いきなりこんなところまで連れてきてしまってすまない」

「いえ、そんな!それよりも、なんでマーナさんたちはあんなに…」

 そう訊くと、少し言いづらそうにしながら、二人の動揺の理由を教えてくれた。


「実は、ここに入院している二人の母親が魔力循環不全症候群という病気に罹っているんだよ」

「それはどんな病気なんですか?」


「文字通り、精神体を巡る魔力の流れに異常が発生して、通常の状態を保てなくなる病気なのさ。精神体にも肉体と同様、頭部や胴体、手もあって足もある。症状が出る場所によって、右手が麻痺したり、足が動かしづらくなったりするんだけど、最悪なことに彼女の症状は精神体の頭部に現れたんだ」


 息を呑む。肉体と精神体は常に同じ座標にあり、命と心を保ち続ける。もし精神体の頭部という重要な部分に障害が発生すれば、結果は想像するに容易い。


「なんとか延命技術で三年間持ち堪えたけど、まだ完治方法がわかっていない難病でね。二人とも、いや、親父さんも含めて三人とも、一応覚悟はしていたんだけどさ」

「そこに、私の《治癒の輪》ってことですか…?」


 困ったような顔で、そういうこと、となんでもないような声色で言うゼレーナは、今どんな感情を抱いているのだろう。

「精神体を治せるなら、って二人は考えたんだろうね。もう話す事も出来ないって覚悟はしているだろうけどさ。自分の母親ともう二度と話したくないなんて、そんな悲しいことを思ってたわけじゃないのさ」


 その言葉が、リリィに負担をかけないようになんでもないみたいな態度で言ったセリフが、皮肉なことにリリィの心に深く突き刺さる。

(…か…)


 元の世界との繋がりを、家族や友人との関係を、迷わずに断ち切ったリリィにとって、その言葉は彼女の決断の否定に他ならない。


 よくもまあ、自分を前にそんなことを軽々しく言えるな、なんて思いはしなかった。なぜなら、ゼレーナの言葉こそがなのだから。

 当たり前のことを言っただけの彼女に対して怒る道理などあるはずもない。


 けれども、少しだけ、本当にほんの少しだけ、昏い思いが心に滲む。

 消えぬ過去が、鈍い痛みが、じわりと音を立てて蘇る。


 その小さな染みを振り払う。誰にも気付かれぬように、わからぬように。

 顔に出さずに心の変調を処理することは慣れっこだからと。


(大丈夫。私は大丈夫…)

 言い聞かせるように、否、まるで自身に暗示をかけるように、心の中でそう呟く彼女の様子に気付く人はいなかった。


 慣れた作業だ。この程度のこと。

 いつものことだから、大丈夫。


 たった一呼吸で、彼女はまるでコインを裏返したように、あっさりといつもの様子に切り替わる。


「とても仲の良い家族だったんですね。話せなくても、大事に思ってもらえるなんて」

 なんでもないように放ったその言葉。それは本心からの言葉だった。

 家族から大切に思われること。妬ましいほどに心底羨ましい。


 当たり前のことだ。当然のことだ。須らく家族を大事にするなど人として、いや、生物としての本能に近いのだから。何も知らぬ人がリリィの胸中の声を聞けばそう言うだろう。

 だがリリィにとっては、それに憧れるのは至極当然の帰結だった。




 なぜならそれは、家族から大切に思われるということは、リリィが心の底から求め、ついぞ得ることはなかった代物なのだから。





 そんなリリィの言葉から気持ちを理解したのか、フェルはリリィの右肩に登り、頬を押し当ててくる。

『リリィさん。大丈夫ですよ。今はボクがついてますからね』


 そんな愛らしくも優しい声に、リリィの顔が綻ぶ。

「うん、ありがとね。フェルちゃん」


 両者のやり取りを微笑ましそうに眺めていたゼレーナは、真剣な表情に戻り、再度頭を下げてリリィに願う。

「そこであたしから一つ頼みがあるんだ。どうか、お袋さんにリリィちゃんの能力を使ってあげてくれないかい?」


 想像だにしなかった願いに、リリィは困惑する。

「え!?でも、試したことないですし…それに治るかもわかりませんよ…?」

「大丈夫さ。責任はあたしと町長が取る。なにがあってもなんとかするから、一度、やってあげて欲しいんだ。緊急の救命措置は誰にでもできることだから、これも似たようなものさ」


 優しい声には悲壮感すら漂わせていた。

「親友の母親が治るかもしれないなら、あたしは何度でもこの軽い頭を下げて頼むよ。だから…どうか…!」


 ただの娘に、それも昨日知り合ったばかりの人間に対して、この医師は誠心誠意、頼み込んでいる。

 恥を偲んで、大切な親友の母のために。


 その瞳には、確かな火が灯っているように見えた。それは覚悟の火だ。

 リリィにとって、だった。


 ゼレーナの頭を下げる光景に、リリィの胸が打たれないわけがなかった。

 こんな誠意を見せられて、なんとも思わない人間はいない。少なくとも、リリィはそんな人間ではなかった。


 そうだ。ここでこの気持ちに応えなければ、自分が救えるかもしれない人を見て見ぬふりなどしてしまえば。


 そうしたら、きっと。


(きっと、私は私を誇れない…!)


 ならば、もう考えることは何一つとしてない。

 リリィの覚悟は固く、意思を伝える声を紡ぎ出す。


「わ、わかりました。私もこの力を病人に使うのは初めてですが、頑張ってみます…!」

 その言葉が耳に届いたゼレーナは満面の笑みを浮かべ、

「ありがとうね。恩に着るよ」

 と、心底安心したような顔で感謝を述べた。


 そうして、二人はもう一度、病室の中へと足を踏み入れる。

「ぜっちゃん、リリアナさんと何を話してたんだい?」

「すぐわかるさベレードさん。それじゃあ、リリィちゃん。頼めるかい?」


 リリィは皆が囲むベッドに近づく。そこには茶色の髪にところどころ白髪を混ぜた老婆が寝転がっていた。というよりも、白髪の方が多いようだ。無理もない、三年間眠り続けているのだから。

 頬は痩せこけ、寝息はか細い。

 けれど確かに生きている。


 リリィは、フェルの言葉を思い出していた。

『生きてさえいればリリィさんの意思一つで即座に完治できます』


 その言葉が嘘だとは思ってはいない。だが、もし自分がなにか失敗してしまったら?そう思うと足が竦む。


(気合を入れろ、私…!)

 そんな臆病に喝を入れるように、大きく息を吐いてから、大きく吸い込む。木目の壁や天井から漂う柔らかな木の芳香を肺に溜め込むと、意識しなくとも落ち着くことができた。


 静寂が満たす病室に、複数の人の呼吸が混ざって聞こえてくる。

 不安を、あるいは緊張を漏らす吐息を、


(そんな思いを、今、吹き飛ばしてやるんだ…!)

 覚悟は胸に、火は心に。翳す手に今、光を紡ぐ。


「よし…!いきます。《治癒の輪ヒーリング・リング》」

 鮮やかな銀髪が、風に靡いて光を乱反射させた。


 銀色をたたえた、神々しくもある輪が、眠る貴婦人を優しく照らす。

 初めて見る光景に、オードルだけは口をあんぐりと開けて、呆然としている。


 ガドル、マーナ、そしてゼレーナの三人は、真剣な面持ちで、事の行方を見逃さぬように注目していた。


 それから、数瞬ののち、透明な輪は弾け、内包していた銀色の光が優しく空間に溶けてゆく。

 リリィ自身も、体にあった疲労感がなくなるのを感じ、能力が正常に作動した実感を噛み締める。


 それからどれくらい経っただろうか、それは一瞬のようでもあったし、数十秒もかかったような気もするのだ。



 確かなことは一つだけ。ベッドに寝ていた老人が、ゆっくりと緩慢な動作で瞼を上げたことだった。



「あら…ここは…」

 吐息と同じくか細いその声はしかし、明確な空気の振動で以って、皆の鼓膜にかすかに届く。


「カナリア…?起きた…のか…?」

 信じられない。だが、信じたい。夢にまでみた愛する人の、穏やかな瞳に、老紳士は目を奪われる。


 震える声で、瞳を潤ませてそう訊ねたオードルに、穏やかな表情を浮かべて笑いかけるはカナリアと呼ばれた年老いた淑女。


「ああ…あなた。おはようございます…」

 弱々しくも確かなその声に、微笑みをたたえるシワの刻まれたその顔に、皆の心が咳切るように喜びを溢れさせた。


「カナリアぁ…俺は、もう二度と…お前と…話せないと思って…ああぁぁぁ……!」

「ああ、お袋…親父、良かった…本当に…!」

「母さん、母さん…。嬉しいものね、こんなおばさんになっても…ううぅぅ…」


 涙を流す。声を上げる。

 恥も外聞もなく、ただ大切な人が再び自分の前にいることに、歓喜に打ち震える三つの影は、太陽の光に照らされて、木造の病室にすすり泣く声を響かせていた。


 そんな彼らを前にして、リリィは筆舌に尽くしがたいほどの達成感で心を満たすのだった。

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