第8話 そこにいる
影が、そこにいる。
真白に染まった、背景という概念を失ったその場所で、影が身動ぎ一つせずに佇んでいる。
あれはなんだ、ここはどこだ。
そんな風に考えることはなかった。
疑問もなく、質問もない。色のないその空間には人の影を映したなにかがいるだけ。
だが、そんな謎めいたことだらけの状態には何故だか得心がいった。
この真白の世界にあの影が存在することはなにもおかしいことではないと直感的に理解する。
むしろパズルのピースがしっかりと嵌ったような、不思議な符合と奇妙な感覚が胸中にあるのみ。
すると微動だにしなかった影が、わずかに動きを見せる。どうやら口を動かしているらしい。
なにかを喋っているのだろうか。
「……ば……」
聞こえない。ノイズがかかっているような感じはなく、単純に遠くで小さな声を出しているから聞こえないような雰囲気だ。
「が…ば……」
影は近付く。真っ黒なその容姿はしかし、ほんの少しも恐怖を感じさせることはなかった。
「がん……て」
何故だろうか。その影を、自分はよく知っている。
これは、そう…
「がんばって」
そう言って、
「ん……」
もぞもぞと寝返りを打つタイミングで目が覚める。
寝返りを打つような大きな動きをしている時は、睡眠中で最も起きている状態に近いらしいことを実感するように、むくりと滑らかに目を覚ます。
リリィの枕から少し離れた位置で丸まっていた小さな狼は、目を閉じてはいたが、眠ってはいなかったようで、
「あ、リリィさん。今日は早いですね。おはようございます」
と、マスコット的な愛らしい容姿を惜しげのなくリリィに見せ挨拶する。
どうやら、リリィの眠りからの覚醒には少なからず時間がかかるものと覚悟していたのだろう。その表情には面倒が省けたと言わんばかりの安心感が如実に表れている。
そんなことは露知らず、リリィはまだ少し重い瞼に指を当てながら、普段の数倍ゆっくりとした口調で返す。
「んー…おはよぉ…」
昨日、フェルとともにお風呂に入った後、すぐに寝てしまったことを思い出す。一緒に眠りについたくせに、フェルからは今さっき起きたような雰囲気を感じられない。狼の睡眠時間は短いのだろうか。
寝ぼけ眼を指で擦りながら、なんだか変な夢を見ていたような気がするが、その内容が思い出せない。
それが面白いものでもないことは分かったが、興味を惹かれるなにかを見たような感覚が胸にわだかまる。
だが、起きてしまえば就寝中に見る夢など忘れてしまうのは必然であるし、そも夢というのは脳が一日にあった出来事を整理しているときに見るフラッシュバックのような映像に過ぎない。
つまり夢には意味などなく、脳内の活動の副産物でしかないという話だ。
リリィが起き抜けにそんなことを考えられるほど覚醒しているかは定かではないが、
「んー…まあいっかぁ…」
とゴムに負けぬほどに伸びきった声でそんな呟きをもらす程度のものでしかないことだったのだろう。
しかし、絶妙なタイミングで眠りから覚めることができたのも事実で、リリィはすぐに行動を活発化させる。
立ち上がり、顔を洗いに洗面台までしっかりとした足取りで動く姿からは、凛々しさすら感じられた。
顔を洗い、歯を磨き、服を着替える。フェルが歪んだ空間に手を入れて出してくれた着替えは昨日と同じ刺繍の施された厚手のローブだ。
フェルが人型に変わった時も同じものを着ていたし、もしかすると、上位界ではこのローブが流行っているのではないか、などと益体もないことを考えているうちに着替えも終えてしまった。
「そういえば、昨日、寝る前にも言いましたが、今後人の目がある時は念話で話しかけるので覚えておいてくださいね」
家を出発する前に荷物確認をしようと声をかける母親のような態度をとるフェルに、思いがけず笑みがこぼれる。
「うん、大丈夫。覚えてるよ」
言いながら、リリィは靴を履いて、トントンと爪先で音を奏でる。
「よし、それじゃあ行こうか」
元気ハツラツといった様子で、フェルを胸に収納し、ドアに手をかける。
(こんな部屋があるホテルの朝食ってどんな感じなんだろ…)
うきうきと進むリリィの顔には喜色満面の晴れやかな表情が見られた。
ところ変わって二階、大広間。
大きなその空間というキャンバスは数多の料理で彩られていた。
和洋折衷、ジャンルを問わず所狭しと並ぶ品々に、なにを食べようかと悩む者、ステーキ待ちの列で楽しげに会話する者、様々な料理がありつつも減りの早い料理を慣れた手つきで補充するホール担当の職員。
なんとも旅行気分にさせてくれるものだと感心してしまいそうになる風景に、目を奪われるのも仕方がないことだろう。
部屋によって座るテーブルが決まっているようで、案内された場所は何やら他のテーブルよりも奥まった位置にあり、椅子も円卓も過剰に思えぬ程度の装飾が見受けられた。
やはり最上階はスイートルームというだけあって、朝食を摂るにも待遇が良いらしい。
リリィは立ち上がり、料理を見繕うためにトレーを持って歩いてみる。
パッと目に付くものだけでも、高そうな材料費や産地にも拘っている様子が目に浮かぶようで、料理人の創意工夫が見て取れる。
「んー、あれも美味しそうだし、これもいいなぁ…」
昨夜はほんの少しだけ焼き魚を分けてあげただけということもあり、フェルにもたくさん食べさせてあげたいと考えたリリィの足はあちらへ向いてはこちらに向いて、爪先の方向も迷子になっていた。
しかしここで声が響く。
『リリィさん、決まりそうにないなら希望を言ってもいいですか?』
それはフェルの声だった。他の人には聞こえないチャンネルを設けて、そこから念話の術式で話しかけている。
実際、使い魔と主人はある程度の意思疎通が可能らしいので、リリィは人目を気にせず胸元のフェルにうなずきを返し、
「うん、いいよ。なにが食べたいの?」
とフェルの言葉を促すのだった。
やがて数分ののち、一人では食べられないような量の料理をテーブルに乗せて、リリィは少々不安な心持ちになる。
「……フェルちゃん、これ大丈夫なの?私の分の3倍くらいあるけど…」
額を流れる汗は眼前の食料の軍勢に気圧されたからだろうか、訝しげな表情からも不安は隠れてはいない。
『本当は数日間飲まず食わずでもなにも問題ないのですが、食欲がないというわけではありません。それに、世界中の美味しいものはいくら食べても食べ尽くせませんから』
リリィとは対照的な料理の山への期待を隠そうともしないその顔に、つられてリリィも笑ってしまう。
もぐもぐ、もぐもぐ。
『んー、とっても美味しいです!』
可愛らしい黒い体毛を震わせて喜ぶ姿は、愛嬌を振りまく嵐のようで、幸せそうな顔は見ているこちらが嬉しくなるほどだ。
先ほどの不安も忘れて、リリィはフェルと一緒の食事を存分に楽しむことができた。
笑顔を振りまく愛くるしい子犬と、美しい女性の姿は、大広間に咲く大輪の花のごとく、周囲の雰囲気を柔らかに色付けていた。
食事を終え、まだマーナとの約束の時間にはならないので部屋へと戻ってきた。
ゆっくりと過ごそうと思っていたが、ふと、フェルが声を出した。
「リリィさん、一応言っておくんですが、マーナさんには気を付けておいてください」
声を潜めるようなフェルに、その穏やかな内容ではない言葉に、リリィは一瞬顔をこわばらせる。
「それってどういう…」
唐突なフェルの警告に、リリィは単純な疑問を返すにとどまった。
「あの人は、霊眼を持っていますから」
「れいがん?って幽霊が見えるみたいなあれ?」
はい、と返事をするフェルに、リリィはより一層疑問符を増やす。
一応、リリィも聞き覚えがあるそれは、霊視とも呼ばれ、実体のないこの世ならざる者を視ることのできる眼のこと。
いわゆる、霊能力者に備わっている眼力を指す単語である。
それの何に気を付けなければいけないのか、リリィにはとんと分からなかった。
しかし、フェルは首を振り、否定を示す。
「でも、半分正解で半分間違いです。詳しく説明すると、一般に幽霊や悪霊と言われるものは、亡くなって肉体を離れてなおも生命の輪廻に反発し、浮遊する精神体のことを指します。つまるところ霊眼によって見えるのは精神体なのです」
精神体はこの世界には広く知らせている魂の形。霊眼を持つ者は、普段ならば見ることも触ることもできないその精神体を可視化するのだという。
幽霊の正体は死した者の魂。この世界に則した言い方をするならば精神体であるということには納得がいく。
「んー?」
首を傾げ続けるも、答えは出ない。フェルの否定にはリリィの認識との差異が確認できないからだ。両者の霊眼に対する見方には、今のところ相違点がない。強いて言えば魂と精神体という言い方の違いくらいだ。
ゆえにこそ、フェルが首を振った理由が思い当たらないのだった。
「そして、霊眼は肉体から離れた精神体はもちろん、実は肉体と重なっている精神体のこともある程度把握できるのです」
諭すように、教えを施す宣教師のようにも視える小さな狼は続けて説明する。
なるほど、死した者の精神体が視えるのなら、生きている者の精神体も視えるというのは道理である。
フェル曰く、精神体は肉体と全く同じ座標に在り続けるという性質から、生きている対象は二つの体が重なっているためひどく視え辛いのだそうだ。
反して、肉体を離れて単独で視ることができる状態ならば、より明確に視界に収めることができる。霊眼を有する霊能力者が度々生者の気配をも敏感に感じ取る事例の正体は、肉眼と霊眼で二つの体を見ているかららしい。
「加えて、精神体は心を映す鏡でもあります。それを観測できる霊眼保有者に嘘をつけば精神体にも変化が現れ…」
「嘘がバレるかもしれないってこと?」
その通りです、フェルは満足そうにうなずいた。
「幸い、リリィさんの体はこの世界においては生まれたばかりも同然です。赤ん坊と同じく精神体は揺らぎ、霊眼でもはっきりと視える状態でないこと。そしておそらく、マーナさんの霊眼が純度の低いものであることも加味すれば、今はまだリリィさんの嘘が見破られることはないと思います」
「ああ、そうなんだ。良かったぁ」
ほっ、と安心するように息をはく。とりあえず、今すぐ嘘がバレるようではないらしい。
「彼女の様子とフィッツ医師の発言から、マーナさんが霊眼を持っていることは本人ですら理解していないかもしれません」
彼女の目は、生命力が満ちている生きた状態の精神体しか見えていない節があるようだ。
二つの体が重なっているときは、理論的に言えば生命ではなくなった浮遊する精神体よりもくっきり視えるのだそう。
しかし実際には上述したように、肉眼と霊眼が干渉し合い、視え辛いのは確か。つまり、肉体と重なるということを加味せず、こと精神体に限って言えば、生者と死者を比べれば、前者の精神体の方が霊眼にはわかりやすく視えるはずだ、とフェルは言った。
けれど、とフェルは警戒するように言葉を紡ぐ。
「マーナさんは、その純度の低い霊眼と
呆れるように、もしくは賞賛する様にため息をはくフェル。
「普通ならあの程度の霊眼は脅威にすらならないのですが、リリィさんの嘘がバレると面倒な説明を彼女にしなくてはいけなくなるので、気を付けておいてください」
そう締めくくった彼女は、面倒な相手に出会ってしまったといった表情を隠しもせずに、まあ、彼女が自分の眼を信じているからこそ昨日はスムーズにことを運べたのも事実ですが、と述べた。
マーナの貫くような視線にはこんな秘密が隠されていたのかと驚く反面、なるほどと腑に落ちる感覚もある。
リリィは疑問が解けたことによって清々しい相貌を見せ、
「うん、じゃあこれからはなるべくこの世界に来た経緯を悟られないようにするよ」
と己の考えを示した。
「はい、お願いします」
小さな頭部を深々と下げるフェル。親切にしてくれたマーナには悪いが、嘘を貫き通す決意は固いのだった。
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