第2話 ここから、いざ
睡眠とはいいものだ。
それは生活において、そして生命の維持において、重要な行動の一つであり、充分な休息は身体の調子を整える。
夜の静けさと虫の歌声に身を委ねるもよし。昼間の暖かなひだまりにウトウトと瞼の力を抜くのもよし。
そんな小さなことですらも幸せに感じさせてしまうのだから、眠るという行為はなんと魅力的なのだろう。
もしも自分が七つの大罪のどれかを犯してしまうとしたら、それはきっと、いや間違いなく怠惰だ。
なんて確信してしまうくらいには睡眠という行動を好んでいる。
しかし何事にも終わりはあるというのは常であって、睡眠もまた例外ではない。
起床の度に、布団の温もりとお別れをしなければいけないのは辛いが、しかしそこは割り切ってしまわねばならない部分。
寝起きは決して悪いわけではないのだが、上記のような理由もあって、起きるという行為には幾ばくかの倦怠感が付き纏う。
がしかし、今回のそれにはいつもの倦怠感は感じなかった。
なぜなら……。
(……ん。柔らかい……)
小さな、しかして確かな、心地良い柔らかさを頬に感じたためである。
頰に押し付けられては
それは、そう、例えるならば肉球のようだと、誰もが口を揃えて言うだろう。
うっすらと目を開けると、そこには少し前に見た子犬のような姿があった。
……はて、自分には子犬の知り合いなど居ないはずなのだが。
と探し物を求めて脳内を見てゆくが、それは意外と早く見つかった。
それは夢としか思えないような白い空間と異世界の事情、そして頼みごと。
さらに、そこには小さな犬がいたのだった。
ああいや、狼だったか。と思い出すが、しかし脳内にはまだ睡魔という名のモヤがこびりついている。
そのため、思考力は低下しており、少し開いた瞼の重みにも耐えられない。
再度、視界から情報が消え失せようとしていた、その時。
プニプニ、プニプニ。と犯罪級だと言っても過言ではないその柔らかさに意識の大半を持っていかれる。
不承不承といった様子で起きようと思うものの、完全に起き上がる前に少しだけこの極上の
……しかし、それを許すフェルではない。なにより、そんなことを許してはいけないのだ。
なぜなら、この後もやらなければならない事がある。故にここで時間を食うわけにはいかない。目を開けながらも起き上がる気配のない【彼女】に、チビ狼は声をかけて起こそうと試みる。
「起きてくださーい。聞こえますかー?」
可愛らしく、しかし丁寧な口調で話す声に、返答する彼女。
「んん、あと、五分……」
まだ意識が覚醒しきっていないが故に、彼女からは息を漏らすようにかすかな返事が出るのみ。
定番といえば定番な言葉を漏らしながらうずくまる様子を見て、
(思考力が低下している寝ぼけ状態だと、こう答えるように脳ができているのでは?)
なんて益体も無いことを考えてしまう。
しかしここで粘られても困ってしまうので、少し強引でも起きてもらうことにした。
「ダメですよー。起きてくださいー!」
口調を強めて、必死に彼女の顔を押す。
するとそんなフェルの心が届いたのか、
(ん……仕方ないか……)
と、目をこすりながら上体を起こす彼女。
まだ体に居座ろうとする眠気をすっぱりと切り捨て、重い
覚醒した脳に送られる視覚情報は、壁を成す丸太の軍勢と、顔のすぐ横にいる手乗りサイズの狼であった。
兎にも角にも睡眠からの覚醒にはこの言葉が必要不可欠であろう。そう思ったかは定かではないが彼女は口を開き、
「ん、おはよう」
とだけ呟くように言った。
応接室にいたときは色など気にしていなかったがこうして見るとフェルの毛は艶やかな黒を主張していてとても可愛らしい姿に似合っていた。
「もう! 動かないでくださいとは言いましたけど、これは寝すぎです!」
愛らしい相貌を、これまた愛らしく頰を膨らませて怒りを露わにするフェルに、流石に粘りすぎてしまったかなと思い、謝罪をしておく。
「ごめんごめん。なんかこのベッド気持ち良くてさ」
しかし転移後は睡眠状態になるのなら先に伝えて欲しかった。分かっていたならすぐに起きることだってできただろうに。なんて、つい数秒前までの自分を高層ビルもかくやというほどの高さの棚に上げて思う彼女のふてぶてしさは、男だった時と相違ない。
しかしそれとは対照的に大きく変わった部分が、脳に超特急で届けられてくる。
男性だった時のひときわ低かった声が高くなり、少しずつ明瞭になってゆく脳は頭から長く伸びた髪を認識する。そして、胸にはあり得ないはずの大きな違和感。
顔を俯かせると、さらりと音を立てたかのように肩から顔の真横へと滑らかに移動する髪は、殊更に主張を強め、加えて胸部の衣服を盛り上げる肉体の隆起が視界に入ってくる。
(おおー、本当に女になってるー)
応接室での時と同じように、あまり大げさの驚くことなく、変化した自身の体に感嘆する。
未だに半信半疑であった異世界にうんたらかんたらという話は、嘘偽りでも、
ともすればこれもまた夢、という可能性もあるのだろうが、その確率は極めて低い。
なぜなら、これほどまでに明確な
だからこそ、今の状況を現実であると断言できる。
そもそも、このような状況を信じたいとも思ってしまうのだ。
その訳としては、彼女もまた人であり、『マンガや小説のような世界だったら』と夢想することも当然あったから。それが今、目に見える形で実現したとあれば、
じ〜んと感動に胸を高鳴らせていると、彼女はふと、あることに気付く。
「ん、あれ? フェルくん浮いてない?」
そう、手乗りサイズのフェルが、ベッドに腰掛けた彼女の顔の隣に居続けるのは流石におかしいと、今更ながらに気が付いた。
まあ、起き抜けにすぐ気付けというのも無理な話だろうが。
彼女の疑問にフェルはきょとんととした表情を見せながら、さも当然だと言わんばかりの声音で返答する。
「そうですね、上位界の生き物なので」
「上位界って、それ自体初めて聞くよ」
フェルが言った上位界という単語も、浮いていることも初耳だ。がしかし、応接室でも目線は合っていたのでおそらくあそこでも浮いていたのだろう。でなければかなり目線を下げて会話していただろうし。
「ああ、そうでしたね。そういえば、そこの説明はしていませんでしたね」
応接室にいた時より幾分(いくぶん)か気楽な様子でフェルが言う。
どうにも忙しなかったので、話しておこうと決めていたことも漏れてしまったらしい。
フェルはそのことに反省しつつ、けれど今日中に済ませなければいけないことがあるので、すぐさま行動を起こした。
「説明不足はこちらの責任です。上位界については落ち着いてからお話ししようと思います。まずは、早速戸籍登録に行きましょう」
ぺこりと頭を下げてからフワフワとベッドを離れるフェル。それに続くように彼女も立ち上がり、ログハウスから外へ出る扉に向かう。
そしてほんの少しだが、歩くうちに気付くこともあった。
(あんまり歩きづらいとかは無い……かな、多分)
突然現れた胸のせいで少し足元が見えないけれど、違和感はそこまでない。
この感じならば身長や脚の長さに大きな変化は無いのだろう。
「あ、そうだ。フェルくん、鏡とかある?」
「姿見なら、そこに立て掛けてありますよ」
それなりの大きさをしたこのログハウスならばあるだろうと、なかば確信しながら訊く彼女。
小さな前脚で指差し…否、脚差しながら返答するフェルに対し、自身の考えを吐露する。
「一応、どんな風に変わったのか見ておきたくて」
言いながら、教えられた方向に目を向ける。
ゆっくりとずらした視線。
徐々に目に入る鏡面の反射。
角度を変え、光の反射を避けた先には……。
見たことのないほどの美しさを、その身で以って体現する女性が映っていた。
息を飲んだ。
あまりの美しさに目を見開く。
それは全身を隠すように足元まで伸びた厚手のローブを着てはいたが、そんなことは些末なことだ。たったそれだけでそこに映る彼女の美貌は霞むことすらありえない。
『美』という一文字が、仮に肉体を得たのであれば、このような姿になると確信するほどに。そんな思考が馬鹿な考えと一蹴できぬほどに。
猛烈で、強烈で、鮮烈なまでの、暴力的とすら思ってしまえる美貌。
不思議なことに、いや、至極当然なことに、これが己の姿だという認識が、随分と離れたところにあるような感覚がある。
この空間内にいるのはフェルと自身だけ。であれば鏡に映る『人』は自分以外にあり得ないというのに、そのことは理解しているのに実感がまだ湧かない。
けれど、そんなのろまな脳を置き去りにして、眼球は情報を読み取ろうと鏡の中の女性に注視する。
細部まで、その美しさを味わうかのように。
まず目に入ったのは、芸術品の如く整った身体のバランス。全てが緻密に計算され尽くしたかのような奇跡的な肉体。あらゆる特徴が互いを損なうことなく引き立てあっている。
その体は端的に言ってしまえば凹凸が激しい。例えば、己が存在感を遺憾なく発揮する胸元の隆起に、ローブを着ていても腰に手を当てると際立つくびれ。
けれどもそれらは調和を保っていて、自然とため息が出そうになるほどだ。
次いで視界に入るは長くしなやかに伸びた手。そして伸びやかな背筋を見せつける八頭身。男性であった時ですらモデル体型だと言われたそれらの特徴は、女性へと変じることにより美しさを増していた。
すると今度は、鏡の中の女性は腰に当てていた手を足元に運び、ローブの裾を僅かにめくる。
必然的に映り込む素足。それは白く、しかし血色も良さも主張しており、少々儚げに見えつつも健康的な肌を惜しげもなく晒している。
裾から手を離し、鏡に近づいてから再度注目する。
目線をやるのは首から上だ。
我先にと視界に飛び込んでくる情報の中で一際目立つのは、先ほどうつむいた時にも見えた長い髪。
腰まで届くその髪は鮮やかにすぎる銀髪で、白に金色の刺繍が入ったローブに実に良く映える。
視線を少し下げ見えてくる顔は小さく、目の色は青。長い睫毛はそのサファイアの如き瞳を強調する。
顔にあるすべてのパーツが、いや、それどころかその身体の細部に至るまで、美しく在れと神に命じられたかのではないか、と改めて思ってしまうような美しさであった。
そんな、感嘆符をいくつ使用しても飽き足らぬほどの感情に、体の動きを止めていると、横から声が聞こえてくる。
「どうですか? びっくりしましたか?」
からかうような口調のそれはフェルの声。
すると身体は、ようやく動作を思い出したかのように、フェルの方向を見やる。
驚愕は未だ胸の内にあれど、頭は返答を口に出す余裕があったようで、言葉を伝えるべく動き出す。
「そりゃあね、かなり驚いたよ」
言い終わるや否や、彼女はまるでコインを裏返すかのように、ひどく手慣れた様子でするりと感情を切り替え、フェルとの会話に移る。
まだ感動に似た気持ちは心にあるが、そのままでいても会話に集中できずに生返事をするだけになってしまうのは目に見えている。
それはフェルに対してあまりにも失礼なことになってしまうので、流石にいけないと考えたからだ。
「ふふふ、あなたの男性だった頃もカッコよかったですけど、女性のあなたは格別に綺麗ですよ。ここに転移して、あなたを見た時の衝撃は凄かったんですから」
愛らしい顔を笑みに染めながら言うフェルに、彼女は対照的な微苦笑を浮かべ、あっさりと返した。
「いや、ワシがカッコいいとかいうお世辞は要らないよ。にしても……」
いや、お世辞じゃないんですが…。というフェルの呟きは届かず、彼女はまた姿見に目を向ける。
すると、彼女は表情を不服そうなものへと変えた。
「この垂れ目はなんとかならないかなあ」
それだけは少し不満があった。上述した特徴と相まって目尻の下がった優しげな目元は彼女の包容力を訴えてくるかのようで、その目元の特徴は男性であった時をそこまで大きく変わらない。
手足の長さも劇的に変わったわけではないこの体型や目元を見る限り過去の自分、つまり男だった時の外見をもとにこうなっているのだろうか。いやしかし、性別を含め変わっている部分も多くあるのだからそう決め付けるのも早計に過ぎるというもの。
まあ、今はそれは横に置いておくとして、問題はこの目だ。それは実を言うと男の頃から気にはしていた。優しげな目元には青い光を有する瞳が堂々と座している。思わず先程のように見入ってしまいそうになるがそれを振り払い、心の中でだけ言葉を紡ぐ。
(こんな容姿じゃ舐められやすいんじゃないかな?)
そう、以前から気にしていたことはそれだった。男の時ならばなんともないが少し気になる程度だ。例えば、年下から威厳のあるように見えないというくらいで。
しかし今は状況が違う。女性となり前よりもおそらく非力になっているであろうこの肉体は、いざという時に力を発揮できるのだろうか。
これから自分は未知の世界で暮らしてゆく。女性であるがゆえの面倒ごとなども思いつくのだ。この容姿であるならば尚更に。
そんなトラブルに出くわす確率が、このおっとりとした外見では上がってしまうのではという考えが頭を離れない。
すると、怪訝そうな顔の彼女の様子に慌てて、
「ど、どうしたんですか!? まさか、女性になってしまったことが今になって……」
と、彼女の心の内など知る由(よし)も無いフェルが的はずれな、しかし優しい言葉をかけてくれる。
「ああ、違うよ。ごめんね。心配かけて」
流石に自分の思考に没頭し過ぎたかと少し反省して、穏やかな口調で答える。
いや、没頭し過ぎたわけではないだろうが、自分の変化した容姿を前にじっと鏡の前から動かなければ誰だって心配するだろうと思う。それも先程とは違う表情で。
少なくともこの小さな狼はそう考えてくれたのだ。当然といえば当然の反応かもしれないが、出会って間もない自分のことを心配してくれていることに心が温まる。
「そうですか? 何かあったら、遠慮せず言ってくださいね?」
彼女の返答を聞いたフェルは小首を傾げつつ、またもや優しい言葉を投げかけてくる。
(お〜、優しい子だね)
たまらず、フェルの気遣いに感激するのも必然。
(それはそうと、一人称を変えとこうか)
《彼》の一人称はワシだったが、この姿でそう言うのは少しばかり
そして、
(この外見なら、私……とかでいいかな。あ、そうだ)
「フェルくん。私の名前って自分で変えていいのかな?」
葛藤など一切ないかのように一人称を切り替える彼女。
そして、今さら女性になった自分の名前について何も考えていなかったことに気付く。
「あ、それならご自由に決めてください、とのことです。前の世界とは違う人生を送るのですから変えても良いですし、以前のお名前でも良いんですよ?」
以前のお名前でも…という部分は無理に自分を変える必要は無いという気遣いなのだろう。だがそこには気付かなかったのか、彼女はフェルの言った「前の世界とは違う人生」という言葉に、ほんの少しの喜色を滲ませた。
しかしその喜色を滲ませたのも束の間で、彼女はあっさりとした様子でこう答えた。
「そうだね、でもあの名前は男だった私が名乗るべきものだと思うんだ。なにより今のこの顔じゃ似合わないし、変えることにするよ」
彼女はなんでもないかのように声にしていたが、それは異常な考え方だと、そのセリフを聞いたなら誰もがそう思うであろう。
その理由として、人という生き物は自分の名前に思い入れがある。それは親や家族から貰った大事な名だから。
こう育ってほしい。このような人物になってほしい。名付けた者の思いが籠もったそれは、単なる記号などではない。
(それを、外見に似合わないというだけで…?)
フェルのこの名だって手放すことは出来ない大切な宝物に等しい。そう思うからこそ彼女の無関心さに不思議な感覚を覚える。
と同時に応接室で思った、現状に不満があって抜け出したがっているという印象に確証に似たものを獲得する。
しかしおそらくそれは踏み込んで良いものではないだろうし、これからの彼女の生活等に悪影響でも出たらことだ。気遣い以前の常識として、触れないようにしようとフェルは心に決めた。
そしてそんなフェルをよそに、自身の新しい名前をうーんうーんと唸りながら考える彼女。
そして数秒経ったのちに顔を上げ、大きく頷いた。
「うん! 私の名前は、リリアナにしよう」
「良い名前ですね」
「ありがとうね。と言っても、マンガで出てきた名前なだけなんだけど」
「それでは、リリアナさん。そろそろ行きま…」
その声は彼女によって、いや、リリアナによって遮られる。
「フェルくん、リリィで良いよ」
微笑を浮かべ、そう言うリリィにフェルも微笑み、
「わかりました、リリィさん。それでは行きましょう」
「はーい」
フェルの提案に、間の抜けた、しかしはっきりとした声で答えるリリィ。
フェルは浮いてフワフワと、リリィは裸足でペタペタと移動し、今度こそ扉に向かう。
簡素な丸太小屋に似つかわしくない両者の特徴的なその容貌にはワクワクが、そしてほんの少しの緊張が見受けられる。
今、ここから、聖女の旅が始まる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます