ぼくはヒロインになった。
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第1話 プロローグ
そこにあるのは、息を呑むほどの白だった。
白く、それは誰も手を付けていない白無垢。それ以外の色を何一つとして存在させていないことが容易に理解できる場所。
そんな、ともすれば無とすら言えるような空間に二つの影が浮いている。
片方は人の形に近く、もう片方は小さな子猫、否、子犬のような形状であった。その二つの影はじっと動かないことに飽きたかのように、言葉を交わし始める。
『やっぱり全然居ないなぁ』
最初に口を開いたのは人型の影を所有する者。声の雰囲気から察するに男性、雌雄で表現するのであれば雄と分類されるだろう。
『それはそうですよ、もう諦めて素質のある人の多い戦争時代に絞りましょうよ』
返答したこちらは子犬の影を映した者。愛らしさを感じさせる声はしかし、男女雌雄を判別させるには足りない。
外見には似合っているのだが、それは性別を判断させるには及ばないと言わざるを得ない。
二人……という表現が適切なものであるのかは判然としないが、両者はさらに会話を続ける。両者の前に広がる大きな光の膜を凝視しながら。
『駄目だよ。文化的、時代的な差が激しい者の魂を連れてくるなんて。というか戦争時代の《適正者》なら大体の人は歴史的な重要人物なんだから、その世界の歴史に大きな影響を与える事になるよ』
『そうは言っても全然居ないじゃないですか』
『大丈夫。きっと現代でも《適正者》は居るよ………ん?』
そう言って、彼は何事かを思案するような表情に変わったのち、すぐさま異なる顔へと変化する。
『どうしました?神様』
一度に顔の色を二回も変えた人影をもつ者に問うたのは子犬の影。
どうやら人影の名は神だという。
それが役職や肩書きであるか否かはここでは分かる筈もないが、ともかく
『居た。見つけたよフェル!!』
対して、子犬の影に返答した[神様]なる存在は、目に見えるほどの喜色を声にも顔にも表している。
期せずして、子犬の影の名も[フェル]ということが判明。
そしてフェルも、神様とやらの言葉を皮切りに浮き足立つ。
『ええ!?本当ですか!?』
信じられないような、信じたいような、相反する気持ちを隠しながら驚愕に目を見開くフェルに、神様は少しだけ得意げに口を開く。
『ああ、本当も本当さ。今すぐ呼び出して依頼しよう。頼めるかい?フェル』
『任せて下さい!』
一も二もなく了承し一目散に行動するフェルの様子から見て、神様が見つけ出した存在は待望のだれか、あるいはなにか、であることは誰しもが容易に想像がついたであろう。
『さて、これがダメだったら、また1から探さないといけないから、なんとか了承して欲しいんだけど……』
一瞬だけ難しそうな顔になりながら、行く末を見守るしかない彼の表情はしかし、一つも揺らいではいなかった。
まるで[依頼]とやらが承諾されることがわかっているかのように。
『それは彼次第だね』
そう言って彼が見つめる光の膜に映し出されたのは、穏やかな表情をした一人の男性。
彼の名は、今はまだ語るべきではない。とだけ言っておこう。
そして場面は移り変わる。
光の膜に映る光景が変わる瞬間と同時に。
~~~~~~
短く、そして浅い眠りに終止符を打ったのは奇妙な感覚だった。
浮遊しているような、しかし二本の足でしっかりと立っているような、決して同時に成立するはずのない状況がともに成立してしまっているかのような、途轍もなく不思議な感覚。
そんな未知の原因はなんなのか。不安と興奮がちょうど半分ずつくらいの気持ちを落ち着けつつ、閉じていた瞳を、ゆっくりと開けると……
そこには、見慣れない天井でも、ましてや見慣れた天井でもなく、どこまでも白い、穢れなき色が広がっていたのだ。
自分のいるこの白い空間が狭いのか、あるいは広いのか、はっきりと分かるわけでもないのだがそれは『広がっていた』と形容するほかあるまい。
(ん?なんだ、ここ……お?)
そんな謎を凝縮したような不思議な空間に、当然といえば当然の疑問を抱いていると、不意に前方に影を見つける。いつからそこにいたのか、いったい何者なのか。不明な点は数あれど、しかし警戒に足る存在ではなかった。
なぜならその形は、紛うこと無き子犬。人ならば、いや哺乳類ならば、愛らしさを禁じ得ぬその姿は見つかったのを確認したかのようなタイミングで口を開く。
『突然お呼び立てして申し訳ありません』
それの発したこれまた愛らしい声はこの空間に響いているのだろうか。どうにも空気の振動が鼓膜に届いている感覚がない。それは通常ならばあり得ない感覚。先程から押し寄せる不可思議の波に揉まれ、彼が発した言葉は、
『なんか…可愛い手乗りサイズの子犬が喋ってる…』
驚くほどに素直な感想であった。また、子犬の声と同様に己が口にしたその言葉すら空気の振動を感じられない。
『声に出てますよ。それと、犬ではなく狼です』
男性の漏れ出た声にほんの少しだけムッとしたような雰囲気を纏わせて反論する子犬……訂正、チビ狼。しかし犬か狼かなど、詳しくもない人からすれば些細な差異なのだが、どうやら当人にとっては重要な違いらしい。
『ふーん、まあいいか。一応訊くけど、これって夢?』
そんな狼の不満と、先ほどまでの自身の驚愕、そしてこの場所への疑問を十把一絡げに一蹴し、男性は疑問を呈した。
眠りから覚めたような感覚はあったのだが、それが確かである保証はないし、何よりこんな理解の追いつかない状況を現実であると断言できてしまうようなファンタジックな思考回路はあいにくと持ち合わせてはいないのだ。
『いいえ、ここは言わば応接室です。何も無い、真っ白な空間ですが』
しかし、夢だという可能性は否定されてしまった。その否定すら確かだということは断ずる事は出来ないけれど、少なくとも彼は《夢を否定する夢》なんて面白いものを見たことはないので信じてみることにした。
だがそうなると、男性にとってはこのような状況に覚えがある。
主に創作物の中で、という但し書きが付属するような覚えでしかないが。
『ってことは、いったいなんでワシはここにいるの?』
しかしそれを飲み込み、率直な疑問を口に出して訊いてみる。そんな創作物の中でしか見たことのない状況を訊いてみるなどあり得ないし、なによりもっと訊くべきことは山のようにあったのだから。
『それも含めてこれからご説明させていただきます。まずは自己紹介しますね。ボクの名前はフェルといいます』
予想外にも、小さな狼の対応と口調は継続して丁寧だった。その狼の態度から、男性は敵意やそれに似たものはないだろうと、警戒に足らないという先程の自分の考えを後押しし、自己紹介を返そうと再度口を開く。
『あ、初めまして。ワシは』
そんな安心を隠しながら挨拶を返そうとしたがそれは叶わなかった。
『ちょっと待ってください。失礼を承知で訊くんですが、いつもその一人称なんですか?』
遮る言葉は躊躇いながらもその問いかけを相手へ伝える。そもそもこのフェルという生き物?の雰囲気からは人の言葉を遮るような印象は受けなかったが、それを超えるほどに驚いたのだろうか。
とはいえ咄嗟に口をついて出るほどに年齢に似つかわしくない一人称であったのだろう。なにせ彼は18歳だし、ワシという一人称が定着するような訛りや方言も見受けられないのだから不思議に思わぬ方がおかしいとも言える。
『ああ、そうだよ。でも、気にしないで。これがワシのデフォルトだからね。んじゃ、もいっかい自己紹介しようか』
しかし彼にとって一人称で驚かれることは珍しくもないのであまり気にせず、気を取り直して自己紹介をしようと声を発する。
はずだったのだが、小さな狼は身振り手振りで以って彼の声に待ったをかける。間髪入れずに狼の声が耳に届く。
『それには及びません。一応こちらには資料がありますので。それはあなたの情報を大まかにまとめたものです。お名前も載っているのでわざわざ自己紹介する必要もありません。お呼びしたのはこちらですから、なるべくあなたには手間をかけないようにしています』
『ワシのプライバシー……。まあ、別にいいけど』
耳に入る音の中には、プライバシーの権利を土足どころか乗馬しながらその蹄(ひづめ)で侵害するような内容が含まれていたが、気にしないことにした。その資料とやらにどれほどの情報があるかは分からないが、きっと自分の簡素な事情くらいしか載っていないのではないか、と思ったからである。
それは先程のやり取りでチビ狼が自分の一人称を把握していなかったことからも推測できる。想像に過ぎないがその資料には自身のプロフィールと年表のようなものしかないのではないか。そう思い彼は会話を続けることを選択する。
『それじゃ、さっき言ってた説明っていうの、してくれますか?』
優しく問いかける彼のその言葉に、フェルは本腰を入れるように身を正し、口を開いた。
『それでは、少々長くなってしまいますがご説明させていただきます。まず、あなたにとっての異なる世界、いわゆる並行世界が危機に陥っています』
あまりにも王道マンガのようで、それ故に心躍るような話ではあるが、今ここで気分を昂らせても時間を食うだけなので、彼は表情を変えずに短く相槌を打つだけだった。
『定番っちゃ定番だね』
『その際、英雄と聖女が力を合わせて、危機を打破するのですが……』
『どっちかが居ないからワシが呼ばれた、と。これも王道だね』
彼の話の理解の早さは、似たような物語を知っているからという理由が大きいだろう。まさか自分もその渦中に入るなど思ってもみなかったが、そんな展開に憧れないわけがなかった。
ゆえにこそ、その言葉を飲み込むのも早いのか。あるいはわかりやすく簡潔なフェルの説明も、それに手伝っているかもしれない。
『はい、その通りです。そして、あなたには………』
彼の飲み込みの早さもありテンポの良かったフェルの言葉はしかし、ここで止まってしまった。
少しだけ言い淀んだ後、意を決して、ついに[依頼]の本題に触れる。
『……聖女として世界を救って欲しいのです』
それは彼の性別を理解した上での依頼。英雄の対となる存在の片割れが不在な現状を打破するための苦肉の策が今回の件なのだ。
つまり、聖女に相応しい人物を並行世界から連れてくるということ。それに抜擢されたのが、今この場にいる彼なのだ。
しかしながら、人というものは少なからず自身の性別に思い入れのようなものを持っている。
男らしく、あるいは女らしくという思考の根幹には、己の性別に対しての誇りに近しい感情があって然るべきなのだ。
ゆえにこそ、此度の、ともすれば彼の性別を否定しているとも捉えられかねない依頼を承諾してもらうには相応の苦労と、加えて彼からの反論があるだろうとフェルは考えていたし、それに対しての不安も勿論(もちろん)抱いていた。
しかしノータイムで返ってきた言葉は、覚悟していた反論でも、承諾までの苦労を想像させるようなものでもなく……
『へえ、それで?』
ありえないほどに簡潔な返答だった。
まるで、フェルの言葉が依頼の本題だと思ってすらいないような顔で、次の発言を促すものだから、フェルは思わず……
『え!?その、失礼かもしれませんが、あなたは…』
と、彼の性別を再確認するような言葉を発するが、ここでそれを訊くことは失礼に当たってしまうのではないかと、言い淀んでしまう。
なぜならフェルが訊こうとしている内容は[お前は自分の性別を分かっているのか]という、馬鹿にしているともとれてしまうような質問なのだから。
『?』
彼は頭に疑問符を浮かべ、次いで首を傾げて思案するが、文脈と言い淀んだフェルの様子からすぐに質問の内容を察し、
『ああうん、男だよ』
彼はうなずく。さも当然のごとく。
『ですよね!? え、だったら、女になるなんて! とか、そういうのは……』
たまらず湧いて出た疑問を口にするが、それに対しての反応も早かった。
『ないけど?まあ、英雄よりもそっちの方が性に合ってるからね』
『そ、そうですか…』
ここまでくると、もはや彼は自分の性別に執着など無いのではなかろうか。あっさりしているだとか、サバサバしているだとか、そんな形容詞では表せないような感覚を覚えた。
彼の様子からは、男のままが良いとか、女になりたいだとか、そういう思考が一切読み取れない。もしこれがフェルの思考を理解し、不安にさせまいとそういう演技をしているのであったら驚愕を超えて称賛に値するだろう。
(《適正者》だからで片付けるのはおかしいほどの受け入れっぷりですね…)
あるいはこのような性格であるからこそ、この場に呼ぶに至ったのだろう。おそらくはこの反応も想定した上で彼をここに呼んだのかもしれない。それこそまさに神のみぞ知ることなのだが。
しかしこれ以上踏み込む必要もないだろう。フェルにとっては都合が良いと言えばその通りだし、これも彼の個性なのだと思うことにして、再度彼の答えを確認することにした。
『それでは、ご了承いただけるということですか?』
と、ここまで訊いてやっと聖女になるということが[依頼]の本題であると理解したのだろう。得心がいった表情を隠すこともなく、彼は答える。
『ああ、うん。そっちに行って、聖女になって、頑張ればいいんでしょ? 了解したよ〜』
予想していた答えではあるものの、相応の苦労や反論を覚悟していただけに肩透かしを食らったような気分だ。
狐や狸に化かされたと言った方が信じられるくらいに、簡単に承諾してもらったことに恐怖すら感じるレベルだ。
『でも、本当にいいんですか? 元の世界に戻れるかもまだ訊いていないのに?そこに関する説明もするつもりだったんですが…』
しかしそんな中にあろうとも彼の気持ちと故郷との繋がりを案じるくらいには余裕があるあたり、フェルの性格の良さが窺える。彼もそう思ったのか少し顔が綻ぶ。
『それも大丈夫かな。あ、それとこれだけは訊いておきたいんだけど』
しかし、その気遣いすらも無用だと言ってしまえる彼は世捨て人か何かなのだろうか。あるいは元々自分の故郷や環境に不満でもあって逃れようとしているのかも?
そこまで思考を巡らしかけるが、フェルには彼の最後の質問にしっかりと答える義務がある。
『はい、なんですか?』
フェルは小さな体の、これまた小さな背中をピンと伸ばしながら彼の質問を促した。
『そっちの世界の文明ってどれくらいなのかな』
それは想像していたよりも現実的な質問であった。
生活する上でその情報は必要不可欠であるからこそ、堅実な疑問であるといえよう。
己の性別や元の世界に対する執着心のなさは目立つが、決して自身の命を軽んじているという訳ではないのだろうか。
そのことにフェル少しばかり安堵した。少なくとも、彼が死にたがりだという可能性は低くなったからだ。フェルだってそんな人物を連れて行きたいとは思わない。彼はこれから大きな役割を担ってもらわなければならない人物なのだから。
『ご安心下さい。現代日本と同程度です』
その安心は嘆息とともに吐き出して、彼に返答する。
『中世風じゃなくて良かった反面、テンプレを逃したガッカリ感が……って、そうなると戸籍みたいなのもあるってことだよね? そこらへんはどうすればいいのかな?』
どうやら、戸籍やらに思考がたどり着くほどの冷静さや判断力は持っているようだ。
こうして見ると、取り乱さず冷静に話をできているところはとても良いことだ。それはフェルにとっても彼にとっても。
ここまでの理解力があるのであれば、全てを説明せずとも、あとは説明が必要になった時に随時教えていけばいいかもしれない。彼もここで一気に説明されたって全てを理解することはできないだろう。
フェルは胸中で今後の見通しを立ててゆく。
『ご安心下さい。ボクも案内役としてついて行きますから。共に戦う英雄と出会っても気付かない、なんて事を防ぐ為にも同行しろ。と、神様にも言われていますし』
『あ、神様なんているんだ。じゃあ、フェルくんは神様の部下なのかな?』
『そのようなものですね。それでは質問は以上でよろしいでしょうか?』
彼の質問が打ち止めになったようなので確認をする。
『はーい、問題ありません』
戻ってきたのは少し間延びした、しかしはっきりとした返事。
その後、フェルはその世界についてのとても簡単な説明だけをして、その他のことは随時教える形にする旨を伝える。
彼もそれを快諾して最後にこんなやり取りをした。
『それでは、転移術式を発動します。目を覚ましたらログハウスにいると思いますので、あまり動かないでいて下さいね』
『はーい。ってそうだ忘れてた』
ここまで来て何を忘れていたのだろうか、フェルは少しだけ首を傾げるがすぐにその必要はなくなった。
『フェルくん、これからよろしくね!』
なぜなら喜色を纏わせて彼がそう言ったから。快活で人好きのする笑顔は憂いなどないかのようで、フェルの心を少しだけだが落ち着かせてくれた。
『……ふふっ。はい、こちらこそ』
虚を突かれ、不意に笑みが零れてしまうが、悪い気はしない。
今日は色々と驚いたり怖くなったり、そして笑ったりと自身の忙しなさを実感することが多いが、その原因たる人物が飄々としているものだから、つられてフェルの気も緩んでしまう。
なんとも不思議な人だと、そう思いながら少しだけ気を引き締め、
『それでは、転移開始!』
フェルは、彼の存在に対して世界間転移を実行した。
〜〜〜〜〜〜
『無事に転移出来たようだね。………ああ、良かったー。これがダメならまた探しなおしだったよー。それにしても全然動揺しなかったな、彼。適正者だからと言われればそれまでなんだけど』
やっと一安心、といった様子で顔のシワをほどき、ひとりごちる。
しかし彼の仕事はまだ終わってはいない。疲れた体に鞭を打ち、再度光の膜とにらめっこを開始。
そしてここから、彼の、あるいは彼女の、語り継ぐべき物語が始まる。
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