第13話 龍珠

 頭上に稲妻が轟き、もうもうと雲が立ち込める。まるで平屋の屋根が抜けて、雷雲が押し寄せてきたかのようだ。

 李珠はへたり込む。


 ――止まれ、あやかしども!


 びゅうと嵐に似た風が吹いて、雲に隙間を生む。そこから巨眼と丸太のような牙が見えた。

 おそろしい龍の表情だった。顔の部分だけが、天井からこちらをのぞき込んでいる。

 崔月倫が解き放ったあやかし達は、時が止まったように、空間に縫い留められている。よく見ると体が小刻みに震えていた。あやかしの中には、狂ったように口を開き、逃げようと必死の形相になっているものもある。


「夜叉国の山から、集めてきたあやかし共がねぇ……」


 扇で肩を叩いて、崔月倫はにんまりと笑う。


「……久しぶりねぇ、王仙夏」


 ――これが最後だ。


「百五十年前もそう言ったわね」


 崔月倫は翡翠の櫛を揺らし、手を広げて倉庫全体を示した。

 李珠らを導いた三人の娘は、唇と目を線のようにして、油断なくこちらをうかがっている。


「ごらんなさい。わたくしが百五十年で築き上げた、大辰国における『足場』を」


 へたり込んだ李珠を、徐文が起こしてくれた。

 崔月倫はもうこちらを見てもいない。視線は、上――王仙夏だ。 


「わたくしは、敗れた後も龍珠を大辰国のあちこちに散らしておいたの。宝物としてね。国の取引が活発になれば、わたくしの龍珠を収めた宝石もいずれは各地に散らばっていく。人は富を増やしたいものだからね」


 姉の体をした龍は、勝ち誇ったように笑っていた。


「各地で、わたくしの龍珠を身に着けた人が、わたくしの人形となっている。大辰国は遠からず大変な混乱になるでしょう。この倉庫に貯めておいた、山のあやかしは――」


 崔月倫は扇を開き、優雅に空気を薙いだ。

 途端、暴風が巻き起こる。徐文と、道士である揺蘭がかばってくれなければ、李珠は吹き飛ばされていただろう。


「だめになってしまったけれど、ね」


 雨粒と砂が押し寄せて何も見えない。

 風が止んでから目を開くと、山のあやかし達は、すべて黒々とした土くれに変わっていた。


 ――むごい真似を。おぬしが、山から連れてきたあやかしであろう。


「役に立たぬのだから、棄てるのよ」


 崔月倫は天井と、そして李珠に目を向けた。弓のように弧を描いた目が、不気味だ。


「李珠、あなたに会えてよかった。あやかしにとても興味深い体だもの」


 ぞくりとする。思わず李珠は、みんなの後ろに隠れてしまった。


「では、再見さよなら。出直すわ」


 崔月倫はさらに笑って、吹き荒れる風へ溶けるように消えていった。


「王仙夏よ、今度は壊さないようにね。あの時のように……」


 壊れる、と聞いて李珠は変に思う。けれどもどんな質問も発せなかった。

 急速に眠気が訪れ、意識が闇にのまれたからだった。

 深い深い、そして冷たい眠り。陰の気配が李珠を包み込んでいく。



     ◆



 李珠が目をさますと、黒龍堂だった。李珠は立派な寝台に寝かされて、なめらかな手触りの布をかけられている。

 こんな上等な寝具は使ったことがなくて、思わずこのままずっと寝ていたいと思ってしまった。体が泥になってしまったように、ひどくだるいのだ。


「誰か、いますか……」


 薄く開いた視界に、何も見えない。

 呼びかけると、ふわりと安心する香がきた。二本角がある店主、王仙夏が李珠を見下ろしている。黒い尻尾が相変わらず石の床に垂れていた。


「王仙夏、さま」


 なんだか安心した。王仙夏は李珠の額に手を当て、熱をみているようだった。


「……大事はない。疲労と、そして陰気による一時的なものだ」


 そうして、耐えかねたように頭を下げた。


「私の気配がおぬしに影響したのだな、やはり」

「……え?」


 王仙夏はひどくすまなそうな顔をしている。

 助けてくれたのだから、いつものようにすまし顔をしていればいいのに。それか初めて会った時のように、少し意地悪なことを言う前振りなのだろうか。

 けれども王仙夏はいつまでも心配そうで、不安そうで、店内をうろうろしていた。


「おぬし、なぜ自ら、崔月倫のもとへ行った」


 言ってから、王仙夏は隅っこを睨む。金色の猫は、金華。そして青い毛並みの山犬は、一目五。

 どちらもへいつくばり、背中をみせていた。


「おぬしらもだ。手がかりをつかむまではよい。実際、手柄だ。けれども踏み込むことまではあるまいよ」

「申し訳ないです」


 金華が顔を上げた。


「俺と一目五ならば、何かあっても逃げられる、と」


 王仙夏はぱちんと指をならし、焚いている香の数を増やした。中央に置かれた机からは、三つの白い煙が立ち上っている。


「崔月倫のもとに誘った、三人の娘がいたのであろう? ならば、その先に、あの悪龍がいることは容易に想像ができるはずだ」

「けれども」


 今度は、山犬の一目五が喉を鳴らした。


「李珠はあなた様に、かんざしを通して呼びかけていたようなので」

「……それが問題なのだ。おぬし、知らぬわけではあるまい」

「は、はい。しかしこんなに早く」


 いてもたってもいられずに、李珠は寝台から降りた。ふらつく。


「わ、わたし」


 あやかし達を庇うように、王仙夏の前に立つ。思い切って背の高い顔を見上げた。


「わたしが言ったんです! 中から、お姉ちゃんの声が聞こえたから」

「それこそが罠であったのだ」

「でも、見捨てられません! それに」


 李珠はぐっと口を結んで、王仙夏を見返す。

 ちょっと前なら考えられないことだった。姉がいなければ、ほんとうに何もできないはずだったのに。

 でも、今は姉はいない。

 李珠が、自分で、言わないと。


「これを見てください」


 頭にさしたかんざしを外し、店主に突き付ける。それは王仙夏にもらったままにしておいた『招きのかんざし』だった。

 夜叉国と李珠を結びつける、『あやかし道具』である。


「これがあれば、王仙夏さまに声が伝わると」


 しゃべる牛の時は、あんなに頼もしく、守ってくれると言ってくれたではないか。

 王仙夏は長く息を吐き出した。病人のような、重くて、辛そうな息だった。


「……話さねばならん、な」


 王仙夏は手を振ってあやかし達を下がらせた。

 金華と一目五は煙のように消える。

 店主はじっと李珠を見つめ、対面に座るように促した。そして、驚くことに、店主自らがくりやから水をくんできてくれた。

 李珠が冷たい水を飲み干すのを待ってから、王仙夏は尋ねる。


「体は、もう大丈夫か」

「はい」

「そうか……」


 王仙夏は目を伏せる。


「おぬしが気を失ったのは、私のせいだ」


 李珠は目を瞬かせる。崔月倫との戦いで、王仙夏はむしろ李珠を助けてくれたのに。


「おぬしには、あえて隠してあったことがいくつもある。その一つが、あやかしと人との関係についてだ」


 王仙夏は視線を彷徨わせた。目が不思議なほどに定まっていない。迷っているのかもしれない。

 普段は澄ましていて、そのくせ、要所要所で意地悪なことを言う。けれども意地悪なのは見かけだけで、本当はとてもやさしいということを、李珠だって気づいていた。


「かつて、あやかしが人の世を奪い取ろうとした話はしたな」

「は、はい」

「その時、主にあやかしと戦ったのは、道士達だ。道士とは、才に恵まれ、努力をし、私のような道術も一部ながら使える者たち。彼らは、あやかしを友とする」


 李珠は揺蘭の姿を思い出した。赤い狐のあやかし――赤狐せっこと一緒に、花神の謎を解いた人だ。


「私も、かつて道士と共に戦った」


 王仙夏は目を閉じている。瞼の裏に、遠い昔を描いているのかもしれない。


「他方で、生まれながらに、あやかしの友となる者もいる。特に修行がなくとも、あやかしに好かれ、あやかしの方から助力を申し出られることさえもざらだ」


 李珠は思わず目をしばたかせた。肯定するように王仙夏が目線を下げる。


「おぬしが、そうだ。しゃべる牛の時から『もしや』と思い、花神で確信に変わった」


 けれども、と王仙夏は間を置く。


「そのような者は、あやかしと強く結びつきすぎる」

「結びつく?」

「あやかしを操る。けれどもあやかしにある『陰』の気配を、より強く受け、人そのものにある『陽』の気配が弱まってしまう――要は体調を崩すのだな」


 王仙夏は痛みに耐えるように言った。


「影響は、二つの要素で決まる。あやかしの強さ。そして心の結びつきの強さ。強力なあやかしと、友になるなど最悪だ」


 王仙夏の尻尾が、石の床で悩ましげにくねっていた。ふとみると、香の白い煙も角の上でつむじを巻いている。

 悩んでいるとこうなるらしい、とは徐文に先日教わったことである。


「あやかしの気は『陰』。人の気は『陽』。もともと、そうたやすく交わるべきではなかったのだ。大辰国の前に世が乱れていたのも、あやかしの力に人が容易く触れることができたから――つまり、悪心あるものがあやかしに触れ、悪心あるあやかしがさらに人をそそのかす」


 王仙夏は指を二つ立てる。


「このため、大辰国で二つの律が生じた」


 まず、と王仙夏は言う。


「人間側の掟。あやかしの力のことは、秘密にすること」


 夜叉国のことや、あやかしのことは、大辰国でも限られた人しか知りえない。その秘密で、一つ目の掟は保たれているという。

 建国の歴史など、どうしてもごまかせないあやかしの活躍は、おとぎ話にすることで実態を隠している。


「もう一つは、あやかし側の掟だ。あやかしは、人間と友達になってはならぬ」


 具体的には、と王仙夏は言う。


「人間を助けてはならない。助けてはならぬから、『取引』が必要になる」


 李珠は変に思った。


「黒龍堂のような、取引のみが可能ということだ」


 李珠はようやく、初日に王仙夏が頑なに取引に拘った理由をぼんやりと察した。


「対価をとらずに人を助けてはならぬ。道士でない人間と、深くかかわってはならぬ。そうした関わりがやがて大きく世を乱してしまうから」


 でも、助けたい。

 だから、対価をとって、李珠を助けた。

 対価が間に挟まる分には、友情とか、思いやりとかではなくて、取引だから。

 李珠は妙な理屈にうーんと唸っていたが、最後には、思わず笑ってしまった。


「なんだ?」

「いえ……優しいですね」


 むしろ、人を助けるために理屈を探したみたい。

 あの夜、本当は王仙夏は李珠を追い出してもよかったのだろう。そして徐文や揺蘭を間に挟んでもよかった。

 けれども、王仙夏は李珠の頼みをその場で聞いてくれたのだった。


「なにを愚かな」


 王仙夏は尻尾を揺らし、口を曲げ、眉を吊り上げた。

 長い指を李珠につきつける。


「よいか。さらに言うがな。たまに現れるのだ、おぬしのように、道士でもないのにあやかしを惹きつけるものが。おそらく――姉も同じような体質だったのだろうが」


 王仙夏は苦々しく続けた。そのいやそうな顔が、急に慌てて張り付けたみたいで、李珠にはどこかおかしかった。


「その場合、道士でもないのに、道士の真似事ができてしまう。あやかしの力を使いこなし、使役する。ただし、道士のように修行をしたわけではないゆえ、普通の人間と同じく――いやそれ以上に、あやかしからの陰気を受けるのだ」


 李珠はようやく気絶の理由を察した。


「あ、わたし」

「そうだ。お前は、不本意にも、私と心を通わせてしまった。それゆえ、私の陰の気の影響を受け、倒れた」


 李珠は考えた。

 それってもう友達、ということだろうか。


「……角とか、尻尾とか、怖いですけど」

「そういうことではない。かつてほど私を恐れてはおらぬだろう」


 ああ、と李珠は思う。

 あやかしのことは今でも怖い。けれども、王仙夏のことはそこまでもう怖くない。いろいろなあやかしがいる、とわかったからだろうか。


「確かに、そうです……」

「私はかつて、道士の娘を一人、傷つけている」


 角の生えた額に、王仙夏は手を当てた。


「その者は、おぬしよりいくらか年上の娘であった。国が乱れていた故、私も人間の世界で戦わざるをえなかった。だが、人間の世界で戦えば戦うほど、私の発する陰の気がその道士を蝕む」


 王仙夏は李珠を見やる。目を細めて昔を思い出しているかのようだ。


「その『招きの簪』も、その娘が残していったものだ」


 ふと、李珠は数日前に見た、不思議な光のことを思う。その光が金華や一目五に気づかせてくれたし、初日には、黒龍堂に導いてくれた。

 まさに『招きの簪』だった。

 その光の中に、女性の姿が見えたけれど――。


「おぬしを巻き込みたくはなかった。私を恐れている間に突き放せば、いくらかましであっただろうが……その機会はすでに逸していたのだな」


 李珠は黒龍堂から一方的に追い出されたことを考えた。あれは、これ以上、王仙夏と李珠の絆が深まることは危険だと判断したのだろう。

 けれどもこんなに心配して、怒ってくれる王仙夏は、やはり『いいひと』なのだと思えた。


「うーん……王仙夏さまとなら、友達になってもいいかもです」

「………………話を聞いていたか」


 頭痛がしたように王仙夏は目元を揉む。

 目をかっと怒らせて、王仙夏は怖い顔をつくるが、中身を知ったせいでもう怖くない。

 王仙夏は絶望的な表情でうつむき、頭を振った。尻尾も、そこに生えた毛も、元気がなく垂れている。


「崔月倫と戦うため、私が人の世にでれば、おぬしはまた体調を崩す。おぬしの体は、もう私の気配から影響を受けるからだ。これを何とかせねば……戦えぬが」


 待っていたように入り口の戸が叩かれた。


「もういいですか」


 徐文の声だった。


「入れ」

「もう入っておりますが。王仙夏殿、どうでしょう。そろそろ、賭けてみてはいかがでしょう?」

「なに」


 王仙夏は眉間にしわを寄せたまま、掌礼する徐文を見た。


「かつては、そのような不幸になりました。しかし、建国から百五十年、あなたも対策を考えておられたはず……」


 徐文は胸を叩いた。


「不肖、この徐文もお手伝いいたします。あなたは圭城府で人を助けてきた、あなたの力になりたいと思う人はあなたが思う以上に多いでしょう」


 王仙夏は、じっと香の白い煙を睨んでいた。上でとぐろを巻いていた白い糸は、やがて龍の形になり部屋中を飛び回る。

 徐文が言葉を継いだ。


「確かに、龍の気配は周りに影響を及ぼします。あやかしと心を通わせやすい者には、なおさらに。けれども、対策があるはずではありませんか?」


 王仙夏はしばらく宙を睨んでいたが、やがて頷いた。


「私から生まれた『龍珠』か」


 王仙夏がぐっと手を握ると、そこには空のように青々とした珠がいくつも握られている。

 姉の翡翠とは異なり、とても澄んでいて、夏が結晶したかのような熱く爽やかな気配がした。


「崔月倫と戦うため、これを、用いてみようか」


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