第12話 黒龍
姉をさらった人が、目の前で李珠らに再び笑いかけてきた。
「おいで」
「おいで」
「今度こそ」
三人は背を向け、走り出す。体重がないかのように、足音さえもなかった。
りん、りん、と鈴の音が転がる。
逃げ去っていく娘らの背中に、李珠は心臓を掴まれたような気持ちになった。姉を見失った時と同じなのだ。
「ど、どうしよう」
迷って、震えている間にも、少女らは外の雑踏に紛れてしまう。
今なら、まだ――!
焦りが李珠を突き動かした。
「お、追いかけます!」
李珠は店を飛び出し、少女らを追った。
もう、姉の手がかりを失いたくなかった。
「待て、李珠!」
金華と一目五も続いてくれる。
少女らが駆けていくのは
娘らはどんどん逃げていく。このままでは見失ってしまううえ、迷ってしまうだろう。
「乗れ!」
山犬、一目五が李珠を背中にのせてくれた。李珠は青色の毛皮をしっかりと掴む。
金華は少年の姿に戻り、塀の上を走っていた。
鈴の音を頼りに少女らを追い掛ける。
女の子達が笑いながら角を曲がった。そこには一つの建物が口を開けている。
「くさい」
金華が言った。
「あやかしくさいぞ、ここ」
李珠は入り口の梁を見上げて、立ちすくんだ。このまま入っていいのだろうか。引き返して、他の人を呼んだり、するべきではないだろうか。
迷っていると、李珠の耳に聞き慣れた言葉が飛び込んだ。
――李珠、助けて!
「
間違いなく姉の声だった。
「あ、あたし、行きますっ」
李珠が言うと、金華は頷き、一目五は苦り切った顔をした。
「ああ、くそっ! 『風水破り』!」
入り口に特段の変化はない。一目五は鼻を鳴らした。
「ここには罠がないようだが――奥には、絶対、なにかあるぞ」
李珠は、王仙夏からもらった|簪《かんざし)をぎゅっと握った。
「王仙夏さま、いってきます」
時折は聞こえた、あの頼もしい返答はなかった。ここ数日、ずっとそうだった。王仙夏は李珠を遠ざけようとしているのだろうか。
「それでも、あたし――お姉ちゃんを見捨てられません」
李珠は、開けっ放しになっている倉庫の入り口をくぐった。どうしてだか、昼間だというのには働いている人の気配をまったく感じない。
「君、だんだんと大胆になってきたな」
金華が尻尾のような髪を揺らし、笑う。李珠はむっと口を結んで奥へ奥へと進んでいった。
だだっ広い平屋は、全体が倉庫のようになっていた。奥には光が届かず、代わりに青白い灯りが辺りを照らしている。
獣の匂いに、李珠は鼻を押さえる。ここまで招いた少女らは、姿は見えない。
地底のように静かだった。
また一つ壁を過ぎた時、李珠はたくさんの檻が置かれている場所を発見した。むわっと獣臭が強くなる。
「山のあやかしだな」
一目五が辺りを見回す。檻に入っているのは、獣に似たあやかしばかりだった。
李珠はぞっとする。
一つとしてまともな形がないのだ。足が一本きりであったり、顔が異様に大きかったり。四本足に見えて、目が脇の下についているというのもいる。
山にいる生き物の四肢をばらばらにして、てんで気まぐれにくっつけたような有様だった。
唸り声が、獣の臭に交じって部屋を満たしていた。
「山に住むあやかしは、でたらめな形が多い」
一目五がいう。
「人間の影響が少ないせいであろうかな」
李珠は一つ一つの檻を確かめ、声を殺した。
「これ、崔月倫が用意したものでしょうか?」
「おそらく。夜叉国からここへ招き寄せたのだろう。夜叉国の中でも、『山』に住むあやかしは強力なものが多い。王仙夏がいたのは、夜叉国の街に過ぎない」
金華が一つ一つを調べながら応じる。紅い虎が吠えたが、金華はべーと舌を出していた。
「この
人間が消えても、他の地区ほど騒がれない。
金華の言葉に、李珠は背筋が寒くなった。
王仙夏の言葉を思い出す。
「確か、昔、崔月倫は人間の世界を乗っ取ろうとしたって」
これほどのあやかしが、圭城府に放たれたら恐ろしいことになる。
体の芯から震えてくる。
「どうして」
応じるように、いっせいに灯りが消えた。直後、光が爆発する。
入口を塞ぐように、姉の体に入った崔月倫が立っていた。
「よく来たわね」
崔月倫が言った。李珠は相手をきっと睨む。
「お姉ちゃんの体を返して下さい……!」
「それは無理なこと」
崔月倫は、きれいな扇で口元を隠している。でも目つきを見れば笑っているのは明らかだ。
「ここに来る途中で、気付いたでしょ? 姉は自分でわたくしを迎え入れた」
「そ、そんなことは……!」
「あるのよ。むしろ、当然のこと。あなた方は贅沢な暮らしなどしたことはなかったろうから」
李珠はいやいやするように体を揺する。
贅沢に憧れて――? どんな気持ちがあったにせよ、姉が盗品を買ったとは信じたくはなかった。
李珠にとって大好きな存在だったのだ。どんな悪事にも関わってほしくない。
「事実よ。しかし安心して? わたくしが、好きなだけ、姉の体に贅沢をさせてあげている」
崔月倫の体は、確かに玉や宝石で磨き抜かれていた。姉、李麗の体が、李珠達が手が届かないような輝きで飾られている。
眩しすぎて目が眩んだ。
その周りには、ここまで誘ってきた三人組の娘たちもいる。彼女らは崔月倫から褒美の銀をもらい、くすくすと笑っていた。
「この体はやはりなかなかいい。市井の生まれのようだけれど、たまにこういう体が出ますの。龍のこころを受け止めるばかりか、美しく、道士として稼ぐことも出来る」
李珠は頭を振った。姉の姿をした悪龍を、きっと睨みつける。何度も、何度も、言葉を叩きつけるように言った。
「お姉ちゃんを返して下さい!」
「うるさい子」
崔月倫は面倒そうに扇を振った。
「答えは、否。ただし……」
美女は扇の先を突きつけてくる。
「交換ならばできるけれど?」
「交換?」
「代わりに、あなたの体をいただければ、姉を返しましょう」
李珠は眼を見開いた。
「そ、そんなの無理ですっ」
「姉が大事なのでしょう? 何よりも大事なのでしょう? 自分の身を犠牲には、できないの?」
「それは……」
崔月倫はにんまりと笑った。
「あなたの姉も同じだ。美しいもの、高価なもの、恐ろしいもの――そうしたものを見たとき、人の本性は顔を出す。わが身可愛さという獣がね」
李珠はあの路地で、姉が盗品を安く買ったことを思う。
優しいお姉ちゃん。
でも――李珠は他の姉を知らない。飯屋で一緒に働いて、小さい頃から一緒にいて、母親のようにしてくれた。
だから、だろうか。
圭城府の闇と一緒に、姉のこともあまり知ろうとしなかった。すべては闇からぽっかりと浮かび上がるあやかしのようなものだ。
「あなたに、お姉ちゃんのことを教えてあげる。これでも好き?」
崔月倫は、遠くから李珠と目を合わせた。
途端、頭にある光景が飛び込んでくる。李珠がうんとうんと幼い時の記憶。
いるのは、姉と、母。幼い李珠はまだ布に包まれた赤ん坊だ。
――お願いね、李麗。
病床の母は姉の手を握った。
――あなたは私の代わりに、李珠を、みんなを幸せにしてあげて。
やせ細った母を、李珠は覚えていない。それはみんな李麗が引き受けた。
李麗は母の願いを受け止め、李珠と暮らすためにいつも大変な苦労をした。父親は兵士で遠征も多い。だから、李麗は、ずっと苦労をしていた。
「あなたが知らなかっただけ。ほんの少し、贅沢を夢見ようと思っても、あなたがそれを責められるはずがないでしょう」
だって知らなかったのだから。
崔月倫は笑う。姉の顔でそんな意地悪なことを言われると、心の一番柔らかいところに針を突き立てられたかのようだった。
思い出を汚していく。
足元が崩れていくようだった。
「違います。わ、私は、お姉ちゃんに悪く思われても仕方がない、けど……!」
李珠は叫ぶように言った。
「あなたが悪く言うのはダメ! お姉ちゃんは、そんな人じゃありません!」
李珠は続けた。
「それに悪いところがあっても、大好きです!」
叫んだとき、崔月倫の後で火花が散った。
まず入り口から飛び込んできたのは、刀を閃かせた徐文だ。
後には赤い狐を連れた道士、揺蘭が続いている。
「ごめんね、尾行させてもらっていた」
徐文はにこりと笑うが、いつもより強ばっている。刀を抜いて身構えているけれども、顔は真っ青なのだった。
「大辰国を危うくさせるこの悪龍には、君が一番近いところにいける気がしたからね」
崔月倫が舌打ちをして腕を振るった。
あやかしを閉じ込めていた檻が、はじけ飛ぶ。
李珠は土煙でせき込んだ。涙がにじむ視界。毛むくじゃらの一本足や、一つ目の獣、|翅《はね)が生えた魚、そして人面鳥など、いろいろなあやかしが部屋中を跋扈する。
それぞれは好き勝手に騒ぎまわっていたが、崔月倫が扇を振ると、すべてが李珠らに目を向けてきた。
「まずい」
金華が慌てて柱の陰に隠れる。
山犬、一目五は李珠を守るように立ちはだかってくれた。
「李珠!」
徐文と揺蘭が声をあげる。
けれども、山のあやかし達はぴたりと動きを止めていた。鳥や、飛び上がった獣さえも空中に静止している。
まるで、そこに縫い留められたみたいだった。
「出たか、王仙夏」
崔月倫が、憎々しげに扇子を閉じた。
急に空気が湿っぽくなり、頭上で雷鳴が轟く。
「大辰国を守る黒龍め」
雨。
水滴とともに、龍の叫びが部屋をつんざいた。
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