第11話 胡同(フートン)
李珠が黒龍堂を去って二日後。
武官、徐文はこっそりと黒龍堂を訪れた。宮殿からは夜叉国へと通じる秘密の出入り口があり、普段は道士が管理している。町中から夜叉国へ向かっている李珠は、かなりの特別扱いだった。
黒龍堂は、様変わりしていた。
まず賑やかになっている。胴体に顔がついた
夜叉国の困りごとを持ち込むあやかし達で賑わうのもまた、黒龍堂のもう一つの姿である。狭い店内には、王仙夏に従う使用人――いや、使用『あやかし』もいるのだろう。
「繁盛してるなぁ」
思わず徐文は呟いてしまう。
李珠がいた数日は、夜天祭のころだ。本来は夜叉国でも店への往来が途切れる、『定休日』にあたっていたのだった。
「徐文か」
こっそりと伺っていた徐文だが、あっさり店主に声をかけられた。
あやかし達は、店主の機嫌が一気に傾いたの察したのだろう、霞のように消えてしまう。
「ど、どうも」
「何をしに現れた」
店の奥から響く声は、機嫌が悪いせいか、遠雷のようだ。
「様子はどうかと思いまして」
「……問題ない、と伝えておけ。崔月倫の情報は、順調に集まっておる。夜叉国の街で協力しようとしておったあやかしは、あらかた『潰した』」
ひっと徐文は足がすくんだ。
「問題は、山のあやかしだ。山海経の頃から、山のあやかしは始末に悪い」
徐文は細い目で、こくこくと頷いておく。
「残る謎は、李珠の姉、李麗がどこに潜伏しているか、ですね」
「うむ。そちらも検討はついておる」
王仙夏はそこで会話を打ち切ってしまった。徐文はそれでも、しばらくは黒龍堂の前で待った。
「まだ何かあるのか?」
「寂しくなりましたね。手厳しく追い出しましたから」
「その話か」
王仙夏の声に苦笑が混じった。
「おぬしも気にする方だな」
「あなたほどではありませんよ。あれほど言わなくても、あの子ならわかったと思います。聡い子ですから」
王仙夏が黒龍堂の軒先まで出てきた。店主は尻尾をくねらせながら、口元を歪める。
「わかっている。しかし、どのみち、人とあやかしさ。強く結びつけばどのような危険があるかわからぬ」
かつてのように――そう言いたいのだなぁ、と徐文は考えた。それだけに、これからのことを告げるのが、苦しくもあり、楽しくも、ある。
徐文はあえてわざとらしく言った。
「そういえば、金華の姿が見えませんね」
それは黒龍堂で働くあやかしの一人だった。
李珠の前では
「よもやと思うておったが」
王仙夏は目を閉じ、すぐに顔をしかめた。人間の世の様子を探ったのだろう。
「あやつらめ」
徐文はからからと笑う。
「みんな同じなんでしょう」
「なに」
「人とあやかし、陰と陽、そんなものが時々交じりあい、面白い何かが見える。だからこそ、他の龍も大辰国に協力したのでしょう?」
王仙夏はまだ目を閉じている。
夜叉国のよろず屋から、李珠達の様子を見ているようだった。
「……まさか、あやかしから手伝うほどとはな」
李珠は恐がりだ。けれども、それでもあやかしと向き合い、気持ちを汲んでくれようとする。少なくとも優しい。
あまりみない類いの人間で、だからこそ、あやかしに珍しく好かれるのだろうか。
「念のため聞きますけれども」
「徐文、私は指示をしていない。あやかしが、自ら、李珠を助けに行ったのだ」
目を開けた王仙夏は、腕を組んだまま難しい顔をしていた。
「……止めねば」
「お待ちください」
本題はここだった。徐文は頭を下げる。
「この騒動は、早く解決した方がいいです。皇帝陛下も、李珠の動きはそのままにせよ、と申しています」
「危険だぞ」
「けれども、李珠にとっては姉のこと。なにより――僕たち官吏にとっては、姉つまり崔月倫の居所を探す人は、多ければ多いほどよいのです」
徐文はにこりと笑う。王仙夏はうんざりした顔になった。
「こういうことか。李珠がこのまま、独自の推理で姉に辿り着けば、それでよし。ただし危険があるかもしれぬから、引き続き黒龍堂も注意せよ、と」
「そんなところです」
王仙夏は息をはいた。
「時折、人の方がよほどあやかしに見える」
「ははは」
きらり、と王仙夏の目が刃のように輝いた。
「徐文、忘れるな。陰と陽は、調和がとれていなければならぬ」
徐文は慌てて姿勢を正す。
「は、はい」
「私は同じ過ちを繰り返すつもりはない」
店主が去る。徐文は深々と息をはいた。
「寿命が縮むなぁ……」
◆
李珠の元に現れたあやかし、猫の姿をした
彼らと出会った翌日の昼過ぎ、李珠は寂しい路地を見つめていた。
古い石壁が延々と続いていて、あちこちで細い路地に枝分かれしている。圭城府に突然迷路の入り口が現れたようなたたずまいだった。
「お姉さんを探すのって、ここかい」
そう話す金華は、姿を少年に変えている。本来は金色の猫なのだけれど、あやかしの力で自在に変われるようなのだった。
今は、黒髪を後ろで縛った、十五、六歳くらいの少年の姿をしていた。
その後ろには山犬『一目五』がついているが、こちらの姿は普通の人には見えない。今の李珠は、年上の少年との二人組に見えているだろう
「はい」
李珠は頷く。
「
圭城府にある古い古い街並みのことだった。大辰国ができるずっと前からこの地にあり、大通りに面しているところは普通だが、奥にいけばだんだんと人が悪くなるという。
「お店で、お使いの台帳をみてみたんですけど、お姉ちゃん、何度かここに行ってました」
「へぇ」
金華は目をぱちぱちする。
「なんでだい?」
「古い市場があるみたいなんです。お椀とか、食器とか、壊れたらここが一番安いって」
「なるほどねぇ……」
李珠がここを調べようと思ったのは、飯屋である噂を小耳に挟んだからだ。
「ここのどこかに、宮殿を追い出された悪徳官吏のたまり場もあるって、聞いたんです」
山犬姿の一目五が、低い声で言う。
「なるほど。宮殿からの横流し品であれば、ここで手にしていた可能性がある、か」
「はい。たとえば、落とし物を拾ったり……」
李珠は懐から、布に包まれた翡翠の玉を取り出した。
金華が目を見張る。
「これ……」
「お姉ちゃんの櫛から落ちた、翡翠の玉です」
宮殿で、李珠は姉の体を奪った崔月倫と遭遇している。その時、王仙夏は李珠を守るため、姉がさしていた翡翠の櫛の一部を吹き飛ばしていた。
李珠が持っているのは、落ちた翡翠の玉の一つである。
玉を連ねた歩揺が弾けて、何個か散らばったのだ。大きさは小指の爪くらいあり、これだけでも李珠の何日分の稼ぎか、想像もできなかった。
「君も持っていたのか」
金華の言葉に、山犬姿の一目五が喉を鳴らした。
「王仙夏殿に渡さなくていいのか?」
「こ、黒龍堂にもいくつか置いてきましたし」
「しかしな」
李珠は顎を引いて、一目五に首を振った。
本当は、すべて黒龍堂で調べてもらうのがいいのだろう。けれども王仙夏に拒まれてから、李珠は姉と繋がる手がかりを手放してしまうことが、急に恐ろしくなった。
自分の手で姉を見つけたい――そもそも心のどこかでそう思っていたから、この手でも拾っていたのかもしれない。
金華が頭をかいて、話題を変えた。
「まぁいいか、過ぎたことは仕方ない。で、これでどうやって見つけるの?」
「え、それは……片っ端から、これを見せて、櫛を知っている人にあたろうと」
金華が笑い出した。
「ははは! それじゃだめだよ! もともと、盗品かもしれないんだろう? 知っている人がいても、絶対に話さないよ」
むぅ、と李珠はうなってしまう。じゃあどうすればいいんだろう。
「そもそも、お姉さんのことは、忘れの術でみんな記憶にないはずだよ。翡翠の玉をみせたところで、そうそう手がかりがあるとも思えないね」
金華はにっこりと笑って、玉を一目五の鼻先に差し出した。
「どう、わかる?」
一目五がすんすんと鼻を鳴らす。
「犬ではないのだが……」
そう文句を言いながらも、一目五は李珠たちを導くように進み始めた。
「来い。俺の鼻なら気配を辿れる」
李珠は一歩を踏み出した。
しばらくすると、市場がある。まだそんなに奥には入っていないけれど。ここは、姉達もよく買い物にきていた場所なのかもしれない。
器や食器が驚くほど安い値段で売られていた。
「知る人ぞ知る、って感じの市場だね」
金華が一つ一つの売り物を見る。
「貧しい人に、安い値で数を作らせる。それをこうやってまとめて売り捌くんだろう」
市場は、民家が途切れた広場の全体に広がっているようだ。軒先をそのまま店にしている場所もあれば、わざわざ天幕を広げて商いをしている店もある。
初めてくる場所なので、李珠は状況も忘れて目移りした。
金華が少年の姿をしているせいで、近所の兄妹が見物にきたくらいにしか思われていないだろう。
「気をつけろ」
一目五が囁いてきた。
「近いぞ」
売られているものを覗き込み、李珠は眉をひそめた。
「きれい……」
日用品がほとんどだけれど、時々、
李珠は店と、その裏から続く路地を見やる。
土が剥げてレンガが剥き出しになった壁が、延々と続いていた。この先は、
「ここから、その翡翠と同じ陰気が匂ってくる。当たりじゃないか?」
ここが、と李珠は店を見上げた。
太った、人の良さそうな店主がこちらに微笑みかけてくる。
「……王仙夏や道士が、来た感じはしないね」
金華が言う。
「崔月倫本人を追うので、忙しいのかな。李珠、お手柄かもよ?」
李珠は頷きつつも、心はもやもやしていた。姉が翡翠の櫛を手にしたのがここだとしても、それをどのように手に入れたのかが知りたかった。
「……お姉ちゃん、ここで櫛を買ったんでしょうか?」
お店というなら、その可能性が高い。道で拾ったという方がまだ救いがある。
「ふむ。盗品は、表に出ていないのかもね」
金華の言葉に、李珠は考えてみた。
知るのは、怖い。でも想像だけして確かめないことは、もっと恐ろしい気がした。
「おじさん」
と、店主に呼びかけ、
「もっといいものはありますか?」
そう尋ねてみた。一目五が唸り、金貨が口笛をふく。
店主はちょっと首を傾げた。
「……子供は帰りなさい」
そうとだけ言った。
頭の中で、なにかがかちりとかみ合う。
「大人と一緒なら、見せられる何かがあるんですね?」
店主はもう李珠を見ようともしなかった。
店主は『子供は帰りなさい』と言った。『もっといいもの』の存在を、否定してはいない。
「すみません」
李珠は急に背中を叩かれて、驚いた。後ろに、紺の衣を着た男性がいつの間にか立っている。
きれいに髪をゆっていて、口元に髭もある。大旦那様、といった風体だった。
「李珠、俺だよ」
金華の声で、男性は囁く。
あ、と思った。金華は、あやかしの力でまたも姿を変えたのだ。
「この子に、よい櫛を見繕ってやりたくて。見せてもらえませんか?」
店主は目を細めて李珠と金華を見ていたが、やがて腰を上げ、店の奥へついてくるよう手招きする。親子だと思ってくれたようだ。
「一見さんは、あまり入れないのですがね」
言いながら、店主は最奥部にある棚を開いて見せる。
李珠は目をまん丸に見開いた。櫛や簪、それに玉まで、色々な高級品が棚に詰まっている。
「これ、どこで」
思わず言ってしまって、李珠は口を塞いだ。
店主は人のよさそうな笑顔のまま、言う。
「それはきかぬ約束です」
宮殿からの盗品だ、と李珠は思った。後宮でみた女官や、香姫らと同じくらい華麗な出来栄えばかり。
李珠は懐から、翡翠の玉を取り出す。
「こ、これ」
店主は突き付けられた翡翠の玉に、首を傾げた。
「これは?」
「ここで売られた櫛の、一部ではありませんか?」
「それは……」
店主は首を傾げている。客ではないのか、と怪しげな視線さえ金華の方へ向け始めた。
「風水破り」
一目五が呟いた。
途端、店主の目の前で火花が弾ける。
「うう」
うずくまった店主に駆け寄り、李珠は一目五を振り返った。
「な、なにしたんです?」
「俺は、他人がかけた術を破れる。破るだけ、だけどな」
一目五は続けた。
「忘れの術が、一時的にだが解けている。今なら、話を聞けるだろう」
李珠は店主に振り向いた。翡翠の玉を突きつけて、尋ねる。
「わたし、お姉ちゃんがいなくなったんです」
店主は震えたまま、李珠を見つめてきた。
「あね、姉……?」
「ここで買った櫛に、あやかしがついていたんです。何か、知りませんか?」
短い間の、必死の訴えだった。
店主は気圧されながら、李珠の問いかけに戸惑っているらしい。けれども視線が李珠の顔に向けられ、何度も、思い返すようにまばたきした。
「そういえば、君によく似た、娘が来た」
店主は続ける。
「その櫛、仕入れた時から、ちょっとおかしかった。『早く売れ』、『見目のよい娘に売れ』、と夜にうなされるようになって」
店主は真っ青な顔で、ぶるりと震える。
「それで、できるだけ早く売っちまうことにした。軒先に出しておいてね」
李珠は想像してみた。
お使いの帰り道、あるいは一人の時、姉は市場を見て回る。その時、きれいな翡翠の櫛を見かけて、手を伸ばす――。
「盗品だと、お姉ちゃんは、知らなかったのかな」
少し胸のつかえがとれた気がした。けれども、店主は笑う。
「何をいうんだい、『いわくつき』って話はしたし、この市場でそんな高級品が売られていたら、まず盗品だってみんな気づくさ。気づかないはずがない」
心がずしりと重くなった。
金華が口を挟む。
「この櫛は、どこで?」
「そ、それは……仕入先は……」
「お願いです! 言ってください!」
店主は、金華の迫力と、李珠の願い、なによりあやかしの術によりもうろうとしていることで、ついに口を割った。
「
その時、李珠に向かって何かが飛んできた。
石。
金華の腕が叩き落とす。
「いてっ」
石は床で砂になってしまったが、金華の腕の一部が黒く焦げていた。山犬、一目五が李珠を守るように立ちはだかる。
「道術がかけてあるな」
石が飛んできた方向に、三つの影がある。李珠は息を呑んだ。
「いけない人」
「わるい人」
「約束をまもらない人」
口々にそう言って、口々に笑うのは、初日に李珠たちを夜叉国に招き入れた三人の娘たちだった。
夜天祭の時と同じ服を着ている。真ん中の少女が前に踏み出すと、りんりんと鈴の音が転がった。
三人はまったく同じ顔で、李珠たちに笑いかけた。
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