第3章:二つの龍

第10話 崔月倫

 李珠と徐文は、絨毯に乗って黒龍堂まで戻った。

 道士、揺蘭は他の人達と相談事があるというので、宮殿に残っている。李珠ら庶民にとっての天子様――皇帝に毒サソリが仕掛けられた件といい、花神といい、宮殿の道士達は今は大忙しのようだった。

 角が生えた店主、王仙夏は相変わらず香を焚いて店の品々を机に並べている。


「帰ったか」


 調べていた扇子を置いて、王仙夏は李珠らを見た。白い香の煙が、その周りにたゆたっている。

 二本の角と相まって、雲の中から龍が語り掛けて来たかのようだ。


「大儀であった。今日は、使いのあやかしがいる。茶でも出させよう」


 李珠は、いつもに比べてお店が温かいことに気づいた。足踏みすると、なんだか床がぽかぽかしている。

 徐文が教えてくれた。


温床オンドルが入っているんだ。竈で火を起していると、ここは温かい。夜叉国は陰気が濃くて、冷えるからね」


 確かにくりやから人の気配がした。正確には、人かどうかは、分からないけれど。


「……お姉ちゃん、見つけました」


 王仙夏は椅子を勧めたが、李珠はその前に言った。長く黒い尻尾が、ぱたりぱたりと動いている。


「おぬしのことは、見ていた」


 李珠は形だけ頷く。涙があふれてきた。


「でも、ぜんぜん知らない恰好でした……!」


 遊女のような、天女のような、艶やかだけども姉とはまったく違う恰好だ。髪型も香油で艶めかせ、結い方も優雅に変わっていた。それでも間違いなく姉だった。

 李珠のことを見下ろす目付きは冷たかった。けれども下から見上げて見える鼻や唇の形、ちょっとした時の眼差しは姉そのものなのだ。

 外見は姉、でも、中身は別物。

 そんな気味の悪さが李珠を苦しめる。姉を気味悪がらなければいけないことも、無性に悲しかった。


「おぬしの言うとおり。あれは姉であって、姉ではない。肉体は姉のものだが、中に危険なあやかしが入っている」


 徐文が厨や行き、二人のためにお茶を持ってきてくれた。

 机に座って、温かいものをいれると少し落ち着いた。夜叉国もすでに日暮れ時で、ひゅうひゅうと冷たい風が吹き込んできている。


「龍だ」

「……龍?」


 李珠は大辰国の昔話を思い出す。

 国ができるときの物語。

 遙か北方、騎馬の民であった大辰国の王族は、荒れていた前の王朝を退治して、大辰国を開いた。李珠が訪れた宮殿は、およそ数百年前からあり、前の前の王朝からずっと引き継いだものだという。


「古くから、この国の者らはあやかしの力に頼った。特に難儀したのは、治水であった。ゆえに水を司るあやかしである、龍に頼ったのであろう」


 王仙夏は長い尻尾を動かしながら、机の木目を睨んでいた。


「……あの?」

「昔は、私に似た存在が多くいた。しかし、今もこうして、人の地に残っているのは……」


 徐文が口を開く。


「王仙夏殿」

「あ、ああ」


 王仙夏は、顔を上げた。李珠に向けられた顔は、いつものように表情が消されていて、ちょっと歪んだ口の端が、哀しみとも喜びともつかない色を浮かべていた。


「崔月倫も、そうしたあやかし、龍だ」


 黒龍堂に、いつも以上の緊張がある。お茶の湯気が立っていて、かろうじて時間が進んでいるのがわかった。


「かつて、人の世を、あやかしが支配しようとしたのだ」

「支配、ですか?」

「うむ。人の世は『陽』の気配、あやかしの世は『陰』の気配で成り立っている。人の世をあやかしで満たせば、『陰』の気配が満ち溢れ、人は生きてゆけなくなり住人の座を明け渡す」


 李珠は、夜叉国の空気がひどく冷たかったことを思う。今は王仙夏のかんざしがあるから大丈夫だが、用意なく入った時には、本当に死んでしまうかと思ったものだ。


「大辰国の前の王朝が倒れたのも、そうしたあやかしが人間の世界を支配しようとしたためでな」


 李珠は、『国が乱れ、王朝が倒れた。そこを北方から今の王家がやってきて、新たな王朝を打ち立てた』としか知らない。


「およそ百五十年前だ。おぬしらは、『国が乱れた』ということしか知らぬだろう。大辰国の前の王朝でも、あやかしが人をそそのかし、人の世に陰の気を垂れ流そうとしたのだ」


 王仙夏は続ける。


「前の王朝は、もたなかった。ゆえに、北方から騎馬の民が南下し、彼らは精強、道術の才もあったがゆえに、人を支配しようとしたあやかしを夜叉国へ追い返した」


 そこで、王仙夏は口をつぐんだ。徐文が、李珠と店主を見比べながら、細い眉を下げて言う。


「今の、あやかしとの決まり事もその時にできたんだ。人とあやかしの距離が近すぎると、そういう、大変なことになる。だからあやかしと人の接点は、修行を積んだ道士だけ。例外は――」

「おぬしのように、偶然、夜叉国に迷い込んだ場合だ。その場合でも、『対価』をとって助けることになっている」


 王仙夏は額の、角の生えたあたりをかいた。


「あやかしと人を、できる限り、離そうとしたのだよ。対価を通じてのやりとりであれば、それは『取引』だ。対価がない、それでもお互い助け合うならば、友誼になる。けれどもそれは、長い目でみれば世を乱す――」


 李珠は不思議な気分になった。王仙夏はいつの間にか、李珠の方を見つめている。


「王仙夏さま?」

「あ、ああ」


 はっとしたように王仙夏は首を振る。


「……なんの話だったか」

「崔月倫の話です」


 徐文が話を戻す。やっぱり、おかしい。


「崔月倫は、前の王朝を滅ぼした、あやかしと人の乱を主導した龍だ」


 李珠は思わずお茶を落としそうになった。


「人の欲を刺激し、思い通りにする術に長けている」

「そ、そんな龍がどうしてお姉ちゃんにっ!?」

「おそらく、姉が拾ったという翡翠ひすいがついたくしは、ある種の龍珠だったのだろう」

「龍……珠?」

「龍が生み出す宝玉だ。崔月倫は、おのれの龍珠で人を魅惑し、物欲を刺激することに長けていた」


 徐文が難しい顔で、口を歪めていた。


「龍珠はまた、その龍の一部でもある。身につけたものの体を乗っ取ることも、あのあやかしならやるだろう」


 李珠は震えた。


「じゃ、あれは……」

「体はおぬしの姉。ただし、中身は龍に乗っ取られている」


 徐文が咳払いをして、身を乗り出した。


「心当たりが、あるかもしれません」


 李珠はびっくりして徐文を見やる。


「お姉さんの櫛を僕も見た。見事な翡翠の櫛だったけれど、実は明禁城で最近大きな財物の横流しが見つかったんだ」


 王仙夏が目を鋭くする。


「明禁城の宝物庫であれば、目録があるはずだが」

「はい。首謀者は市に流したというけれど、中には王朝設立時の宝物もありました」

「見た目は、普通の翡翠の櫛と変わらぬ。崔月倫が残した龍珠が、宝物に紛れて持ち出され、市井で売買、それをおぬしの姉が……」


 李珠は思わず身を乗り出した。


「ちょ、ちょっと待ってくださいっ」

「なんだ?」

「いろいろ変ですっ! そ、そもそも、お姉ちゃんが、なんでそんなものを持ってるんです?」


 宮殿から、盗み出された櫛。そんなものをどうして姉が持っているのだろう?


「なにかの、間違いじゃ……」

「李珠よ」


 王仙夏は言った。


「おぬし、あやかしを見てどう思ってきた」

「どう、って……」

「見た目どおりであったあやかしがいたか」


 恐ろしい牛の怪物は、本当は危険を予言してくれる、味方だった。美しい花を咲かせた『花神』には、たとえ国を危うくしても愛する人を振り向かせたいという欲望があった。


「人も同じだ。おぬしの姉が、見た目どおりであるとは限らんぞ」


 李珠は王仙夏は睨んでしまった。

 崔月倫に乗っ取られた、姉の姿が頭によぎる。派手派手しく着飾り、美しいけれども意地悪な笑顔で語り掛けてくる、李麗。

 あの甘い香も、胸が悪くなるだけだった。


「お姉ちゃんは悪いことしません!」

「それは、わからぬ。決めつけてはならぬ……」


 李珠はきっと王仙夏を睨んでしまう。龍はかすかに頷いた。


「これにて終いだな」

「……え?」


 驚く李珠に、王仙夏は告げた。


「あとは、私が差配する。犯人もわかった、今の姿もわかった。おぬしの手伝いはもう不要だ」


 王仙夏は李珠の頭に手を伸ばした。かんざしを取ろうとしたのかもしれない。


「王仙夏殿」


 徐文が言って、王仙夏ははっと首を振った。


「……そうだな、おぬしは崔月倫に知られておる」


 王仙夏は手を引っ込めた。


「そのかんざしはくれてやる。今までの対価の、釣りだ」

「王仙夏さま」


 李珠は思わず言った。角の生えた頭が、寂しそうに伏せられた気がしたからだ。


「さらばだ、李珠。達者で暮らし、姉を待つがよい」


 足下がぐにゃりと歪む。李珠は家の寝床に、ぽてっと落とされた。


「な、なんですか! 勝手に呼びつけたり、追い出したり!」


 自分でも驚くくらい声が出て、口に手を当ててしまった。


「李珠ちゃん、どうしたんだい」


 郭おじさんが様子を見に来た。李珠はきっと睨みつけて、戸を閉じた。


「知らないっ!」


 狭い家には、まだ姉の寝床が出しっ放しになっている。一人きりになったことが身に染みて、急に寂しくなる。


「……お姉ちゃん」


 待っていても、時は過ぎていく。

 夜が来て、一人きりで眠った。今日は飯屋の仕事がある日だから、もう準備をして出なくてはいけない。

 毎日の仕事も姉に頼っていたから、姉がいない飯屋で李珠だけでやっていけるのかも気掛かりだった。

 けれども今は、李珠しかいない。姉はいないのだ。


「……没法了メイファーツ、だ」


 他に方法がないから、仕方がない。李珠は腹をくくって飯屋の仕事場へと出て行った。

 予想したとおり、姉を覚えている人は誰もいない。けれども仕事の量は同じなので、全員がきりきり働かなければならなかった。


「おっかしいな。どうして今日はこんなに忙しいんだ?」


 くりやで店主が首をひねる。

 李珠は、ふんと息を吐いた。姉はこれくらい働いていたのだ。


「あたしがやります!」


 李珠はお盆を一気に二つ取り、配膳に勤しんだ。背が小さいからいつもお盆は一つだけ運んでいたのだが、もう十一才だし、もともと体が弱い方でもない。

 やろうと思えば、以外とやれた。


「……よく頑張るねぇ」


 常連さんが褒めてくれた。


「へへ」


 笑って、李珠は配膳を続ける。その日はぶっ倒れてしまうくらい疲れたけれども、なんだか鼻が高い気持ちになれた。

 姉が戻ってくるまでは、姉の居場所を守ってやろう、と。

 そうして二日ほどがむしゃらに働いた。

 ふと気付いたのは、へとへとになって帰ってきた晩のことだった。李珠達の住まいは、長房ながやになっていて、長い平屋のあちこちに違う家族が住んでいる。

 竈は共同だ。

 夕食の残りの饅頭をもらって、月明かりの中、部屋でもぐもぐしていると、考えてしまうのは姉のことだった。


「お姉ちゃん……」


 今の李珠と同じくらい、姉は忙しかったはずだ。かなりの時間、李珠と李麗はお店で時間を共にしている。

 お休みの日だってゆっくりしていられる時間はない。姉は内職で布を作ったり、器に塗料を塗ったりしていた。

 きゅうっと胸が痛い。


 ――決めつけるな。


 李珠は、姉といて、貧乏でもそれなりに幸せだった。でも、姉はそうなのだろうか? 妹のため、大人の姉は、あんなにたくさん働いていた。

 それでも、それでも貧乏だった。

 お金持ちになりたい、贅沢したい――そう思っていなかったなんて、自分はどうして言い切れたのだろう。

 ずぶずぶと気持ちが沈んでいく。


「だ、だめだっ」


 李珠はぶんぶんと首を振った。考え方を、少し、変えてみる。


「……お姉ちゃんは、どうやって翡翠のくしを手に入れたんだろう?」


 そこだ、と思えた。

 やってみてわかったけれど、姉はとても忙しい。しかもかなりの時間、李珠と一緒にいる。

 盗品の櫛と触れる時間は、あったとしても、とても限られているだろう。

 李珠は寝台の上で薄い布を抱えながら、考えた。


「お店のお使いの時、かも?」


 この二日間、李珠は姉の代わりにお使いに出た。長く外に出る機会は、そこしかないような気がする。

 一人で行くわけではなくて、必ずお店の男の人が同行するのだけれど、男の人が長い商談に入ってしまうと意外と自由に動けるのだ。


「飯屋の台帳をみたら、わかるかな?」


 考えてみたら眠くなってきた。李珠は一人でしっかりと戸締りをして、寝床に入る。

 けれども、すとんと眠るわけにはいかなかった。

 李珠の前を、光がすうっと横切ったからだ。光の中には小さな人影が見えて、李珠を目をみはる。


「あ、あやかし……っ?」


 小さな人影は、若い女性に似ていた。うっすらとした笑みを浮かべており、不思議と怖い感じはしない。

 長い髪を後ろで縛り、かんざしをさしていた。くるりと後ろを振り返った時、かんざしから垂れる、猫の手を模した飾りが目に入る。


「わ、わたしと、同じだ……!」


 光は窓の外へ飛んでいく。李珠はつま先立ちして、格子窓から外を覗く。

 すると、李珠は仰天した。

 金色に輝く猫に、青い毛並みをもった山犬。いずれも独特の『陰』の気配がある。


「……あやかしっ?」


 硬直する李珠に、金色の猫は見る間に姿を変え、少年の姿になった。

 狼の方は、額に縦の裂け目が入り、ぎょろっと大きな目がうまれる。三つめの目だ。慣れていなければ腰を抜かしていたところだ。


「あれ、ばれちゃったね」


 少年――金色の猫から変じた少年は、そう言って笑う。猫っぽい八重歯がのぞき、釣り目といい、なんだか悪戯好きな雰囲気だった。

 長い毛を後ろで結っていて、猫の尻尾みたいである。


「黒龍堂で働いている、金華きんかという。こちらの山犬は、一目五いちもくご


 姉を探すのを手伝おうか、と彼らは李珠に申し出た。

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