第9話 香姫

 明禁城は、大きく分けて二つの場所に分かれるようだ。外朝と内廷、というらしい。

 外朝は昼間に執務が行われる空間で、内廷は皇帝とその一族らの生活空間になる。

 李珠はそこからしてもう知らなかったが、徐文と揺蘭はさらなることを教えてくれた。

 生活空間、内廷もさらに二つに分けられる。皇帝の奥様方が住む『後宮』と、皇帝の兄妹など他の一族が住む『養心宮』。

 花神の謎を解くために李珠らが向かったのは、『養心宮』だった。

 それは、鍵となる香姫という人物が、皇帝の奥様ではなく、兄妹などの血縁者であることを意味していた。


「なりませぬ」


 李珠がその屋敷へいくと、歳をとった女官が阻んできた。喪に服している女官は、この古くから仕える老女と、数人の女官だけだという。

 どの人も鼠色の衣をまとっている。中でも、一番前で李珠たちを睨んでいる女官が、最年長で中心人物のようだった。


「入ることはできませぬ。できれば、ご遠慮をいただきたく」


 おばあさんはきっぱりと言う。

 香姫の住まいは後宮からかなり遠くにあった。紅い壁をさらに金箔で飾るような建屋もある一方で、香姫の住まいはかなり普通のお屋敷に近い。


「重要なことです」


 にこりと笑って、徐文もまた有無を言わせない調子だった。

 この人が名家の武官というのが効いたのかもしれない。女官らは最後には折れて、李珠達は中庭へと進む。手がかりがあるとすれば、この建物の庭だろう。


「……花の、匂いですね」


 李珠は鼻を鳴らす。答えはすぐに出た。


「すごい……」


 立派な牡丹が咲いていた。

 老いた女官は諦めたように首を振る。

 陽明園よりもさらに花が大きい。李珠の顔ほどもあるだろうか。

 陽光を浴びているというよりも、花自体が内側から光っているようだった。


「この花はいつ頃から?」


 揺蘭が尋ねた。


「……一月ほど前からですね」

「ふむ……」

「枯れかけていた牡丹だったのですが、香玉こうぎょくさまが大切に世話をなさっていた花で。亡くなられた後、急に元気を取り戻し、今はこれほどに咲いています」


 誇るように、おばあさんは言った。

 香玉こうぎょくとは、香姫の本来の名前らしい。皇帝一族の女性は、容姿や才覚に応じて、名前に『姫』の字を足した称号をもらうことがあるとのことだ。


「香姫さまが亡くなられてから、か」


 揺蘭が呟く。おばあさんは咲き誇る牡丹を、苦し気に見た。


「香妃さまは、非常にお美しい方でした。先帝の第四夫人の娘――皇帝陛下の、母親違いの妹にあたります。けれども病になり、容色が衰え……最後には誰も見舞にこなくなりました」


 徐文が話題を花に向ける。


「花神が宿ったかのようですね」

「そうでしょう。あれこそ、まさに花神ですよ」


 老いた女官は胸を張った。


「月が出る夜には、あの牡丹は光輝き、えもいわれぬ香りを出すのです。もともと姫様が大事にしていた牡丹です。おそらく亡くなった後、あのお方を弔うために、花神が宿ったのでしょう」


 揺蘭が、口を開く。目つきは厳しい。


「後宮の、天律は知っていますね」


 おばあさんは顎を引いて、揺蘭を見つめ返した。


「あやかしの気配があれば、道士にみせる決まりでしたね」


 そう言っては口元を歪める。


「姫様が病になると、人の心はかわるもの、とんと誰もこなくなりました。それまでは美しいこと、そして血筋のこともあり、こぞって贈物だの拝謁だのをねだってきたのに」


 おばあさんは下唇を噛んでいた。


「みせてやるものですか。あんな、恩知らずな連中に……! 牡丹が花神となり香姫さまを弔うことの方が、私には大事だったのです。せめて、牡丹の季節が終わるまでは」


 徐文が尋ねる。


「……陽明園で、花が咲き狂っているのをご存じですか?」

「……いいえ?」


 おばあさんは首を振った。

 李珠達は陽明園で大きな騒ぎになっていることを話す。喪に服して外に出ないようにしているため、この建物には外の噂話が届かなかったようだ。

 女官らは目に見えて動揺する。

 揺蘭が宣言した。


「明らかだ。あの牡丹が、狂い咲きの犯人だ」


 目線を交わし合うおばあさんと女官らに、李珠は訊ねた。


「そ、その……お妃さまは、黄色の衣で、藍色のくしを?」

「そ、そうですが……」


 徐文が事情を話す。

 狂い咲きが起きた後宮で、ひときわ見事に咲く牡丹。そこに、香姫に似た人影が見えたこと。


「では、香姫さまが、花神になったとでも?」


 かんざしが震え、王仙夏の言葉を李珠に届けた。


 ――強い思いを残した人が、幽霊となることはある。『』ともいうが。


 孤独のまま亡くなった姫が、花に宿って、花神となる。

 揺蘭が口を曲げ、簪に向けて囁いてきた。


「おい王仙夏さまよ。そんなことがあるのか?」


 ――花神と呼ばれているが、それは名に過ぎぬ。

 ――人が花神に変わることもあるだろう。


 李珠はあれほど花が咲き誇っていた理由が知りたくて、訊ねた。


「なにか、そのお方が会いたがっていた人はいますか?」


 おばあさんと女官らに、李珠は睨まれる。怖いけれども、なんとか踏ん張った。あやかしの気持ちは、伝えたほうがいいと信じた。


「花の――きれいな姿を見せたかった人、です。わたし、その……考えてみたんです。どうして、あんなにたくさんの花を咲かせたのかって」


 李珠が花から受けた印象は、悲鳴だった。最初は無理矢理に咲かせられている花の悲鳴かと思ったけれど、そもそも、悲鳴とは助けを呼ぶためのもの。

 誰かを呼ぶためのもの。

 花に隠れた香姫は、誰を呼んでいたのだろう――?


「李珠、君はあやかしの気持ちの方から、解決をしようというのだね。あやかしを退治するのではなく」


 徐文がそう呟いていた。おばあさんは眼を見開く。


「……い、許嫁がおりますが」


 揺蘭が急き込んだ。


「その方は?」

「宇親王という方です」


 老女は目を泳がせる。


「許嫁ですが、遠征が多く、姫様の病が重くなってからようやく圭城府に戻ってこられたほどでして。その方だけは、最後まで熱心に見舞いをすると言ってくださったのですが、これは姫様からお断りしておりました。その頃には病はいよいよひどく、皮膚が青ざめて衰えた姿を――いえ、失礼、とにかくお姿をお見せしたくなかったと……」


 強い人だったのかもしれない、と李珠は思った。


「身罷られた後も」


 おばあさんはふと思い出したように言う。


「何度か、親王だけは何回も弔辞にこられました。しかしあの牡丹は、ずっと隠しておりました」


 揺蘭は苛立たしげに舌打ちした。おばあさんらはびっくりしている。


「なぜだい?」

「い、言ったでしょう。花神だと思っていたからです。貴妃様を長く弔ってもらうため。あれほどの牡丹が人目に触れれば、まず道士がやってくるでしょうから……」


 おばあさんははっと目を伏せる。


「牡丹に宿るのが香玉様だとすれば……美しい姿で親王に会いたかったのかもしれません」


 李珠も遅れて気づいた。

 花神の望みが、許嫁に再び美しい姿を見せることなのだとしたら、おばあさんが花神を隠してしまったことでその機会が一度ついえたことになる。


「香姫様……花神と思い、思い定めるあまり、あなた様の望みを叶え損ないました」


 かんざしが震えた。


 ――由はわかった。


 王仙夏の声だった。


 ――後は簡単だ。その許嫁が、美しく咲く牡丹の花をみればよい。


「その許嫁は?」


 揺蘭の問いに、徐文が即座に応じた。


「待ってくれ、宇親王だろう? 確か、今日より遠征の途上につくはずだが――」


 徐文はぱんと手を打った。


「こうしちゃおれん。すぐ呼び戻し、花を見せよう!」


 数刻の後に現れた許嫁は、後宮の陽明園で咲き誇る花々に眼を見開いた。

 その頃には日が傾いていた。

 夕闇が迫る中、庭園の花が次々と散っていく。花弁は風にのって舞い上がり、李珠と親王の前で渦をまく。

 その渦中に、女性の姿が浮かび上がった。茶色い髪をした、青い目の美しい姫だった。

 香姫は親王の腕に抱き留められる。彼女はそのまま花弁となって崩れ、風と共に今度こそ空へ消えていった。


「花神と崇拝するあまり、正体を見誤ったか。まさか、幽霊が――人が花神になるなんて」


 花びらを見送って、揺蘭は頭をかいた。


「ちっ。あたしも頭が固いね、あの婆さんとおんなじだ」


 しかし、と徐文が腕を組む。


「わからぬな。あの牡丹は、あのままでは単に害のない花神だった。それがなぜ、急に陽明園の花まで咲き誇らせる、強力な花神になったのだろう?」

「いつまでも婚約者に会えないから、焦れたんじゃないのか?」


 二人の言い合いに、李珠はふと気づいた。


「お姉ちゃんが消えたのも、昨日の夜です――」


 何かが、花神にあったのかもしれない。

 李珠らは新しい謎を抱えて、後宮を後にする。その女性とすれ違ったのは、そんな風に後宮を出る間際だった。



     ◆



「あっらぁ?」


 派手なひとだった。化粧の匂いがぷんぷんする。景気よく前がはだけていて、艶やかな肌が見えていた。

 けれども、それでも、きれいな人だ。

 李珠はその髪と、顔立ちに目を奪われる。

 翡翠が散りばめられたくし

 でも、背丈や、顔立ち、なにより声が――。

 後宮の出入門に立ち尽くして、李珠は震えた。


「お姉ちゃん……?」


 李珠の言葉を無視して、その人物は脇を通過する。子供など目に入っていないかのように、まずは徐文に話しかけた。


「私が来たというのに。道士の募集は終わったの?」


 徐文がにこりと笑みを貼り付けた。


「申し訳ないが解決した。あなたは?」

「旅の道士よ」


 李珠はぶるっと震え、叫んだ。


「お姉ちゃんっ?」

「あら? あらら? 私に妹なんて――」


 女性は目を細める。李珠の様子に目を細め、やがて微かに眉間に皺を寄せた。

 姉によく似た姿は、徐文から離れ、李珠の方へ近寄ってくる。


「ふぅん?」


 くすりと女は首を傾げた。


「おかしいわね。本物のよう」


 姉の形をした何かは身をかがめて、李珠に視線を合わせた。李珠は体が石になったように動かなくなる。


「忘れの術の、効きが鈍かったのかしら? おお、子供はいやだいやだ……」


 姉の目に翡翠色の輝きが満ちていく。

 なんだか体がふわふわして、頭の芯がぼうっとしてきた。ひどく眠い。


「でも、大丈夫。辛くなくなるわ……」

「やだ……」


 ぱちん、と目の前で火花が散った。

 床に何かが転がっている。李珠はそれが、姉がさしたくしを飾る、翡翠の宝珠の一つだと気付いた。

 姉は不思議そうに、櫛から垂れる飾りをみやる。飾り紐の何本かが千切れて、翡翠の玉が廊下に散らばっていた。


 ――離れろ。


 王仙夏の声がする。

 李珠は勇気を振り絞って、手を振った。姉はふわりと身をかわし、立ち上がる。


「なるほど、あの者が近くにいたのね。だから、忘れの術は効きが鈍くて当然。腕が落ちたのでなくてよかったわ」


 姉の姿をした何かは頭に手をやり、櫛を外す。櫛は大きめの翡翠と、飾り紐から垂れる小さな翡翠の玉で彩られている。

 千切れたのは数本の飾り紐で、おかげで左右で玉の多さが違うようになっていた。


「あら……!」


 姉は目を細め、眉間に獣のようなしわを寄せる。目を背けたいのに、親しい人を穢されたようで、目を離せられない。


 ――いね。


 王仙夏の声には怒りがあった。

 女はくすくすと笑う。


「ではそうしましょう。みんな、またの機会に」


 女はくるりと踵を返し、最後に後宮の方を振り向く。


「……花神の様子が見えないのは残念だけどね。せっかく、目覚めさせてあげたのに」


 え、と思う。なにか猛烈な寒気が這い上がってきた。

 後宮で見た牡丹の花は、一輪だけ場違いな場所に咲いていた。


「わたくしが、切って、外に置いて差し上げたのよ。多少、暴れるように狂わせておいたけどね」


 李珠は叫んだ。


「あなた、何なんですっ? お姉ちゃんは……」

「姉と呼ばないで」


 女はぴしゃりと言った。


「崔月倫。わたくしの名前よ」


 くすりと笑う。


「黒き龍にも伝えなさい。もっとも、見たり聞いたりしているはずだけどね、夜叉国におっかなびっくりこもったまま」


 そう笑って、女は去った。徐文が呻く。


「崔月倫――かつて大辰国を襲った、悪い龍の名だ」


 李珠はへたり込む。その指先に、くしからこぼれ落ちた翡翠の玉が触れた。

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