第8話 狂い咲き
李珠達が歩みを進めると、だんだんと花の香りが強まってくる。
「ここだよ」
揺蘭が足を止めた。
「陽明園――後宮の大庭園さ」
足を踏み入れて、李珠は目を見張った。
すべての花がそこにあった。赤、黄、青、緑、白、ありとあらゆる花が大輪を咲かせ、息苦しいほどに色だらけ。初夏の日差しを浴びて、みずみずしい草木の匂いと、花の香りが充満している。
色も匂いも多すぎて、立っているだけで酔ってしまいそうだった。
「すごいものだな」
徐文が呻きながら、次々と花の種類を言い当てる。
「あの白は冬牡丹だ。池から出ているのは睡蓮、黄色いのは水仙、日陰のは蘭だろうかな……」
李珠が上を見上げると、竹で編まれた屋根の隙間から、藤の花が紫の房を垂らしていた。
「半分くらいは季節の花だが……」
李珠と徐文は鼻を鳴らした。
「すごい、香りです……!」
「一つ一つはよい香りなんだけどね。ここまで咲いて香ると、ちょっときついね」
そのためか素晴らしい景観のはずなのに、庭を歩いている人は少ない。あちこちで咲く花を、みんな端の方から遠巻きに眺めていた。
――なるほど。
――確かに、狂い咲きだな。
李珠は顎を引く。美しい花々のはずなのだが、李珠には花が悲鳴を上げているように思えて、ひどく痛々しく感じる。
揺蘭が、李珠の櫛に顔を近づけた。
「王仙夏さまよ。あなた、今度はこんな子供を使ってるのかい」
――揺蘭か。
李珠はびっくりして振り返ってしまった。
「よ、揺蘭さま」
「どんな事情だか知らないけど、あやかしに子供ぶつけるなんて何を考えて……」
――こちらの話だ。
王仙夏は一方的に会話を打ち切ってしまった。揺蘭は嘆息する。
「夜叉国から出てくればいいのにねぇ……」
「龍が出てくれば、陰と陽、あやかしと人間の均衡が崩れると思われているのだろう」
二人は話し合い、なにかを案じているようだ。
会ったばかりの人に声をかけるのは苦手だけれど、李珠は訊ねてみた。
「お、お二人は、王仙夏さまとは昔からのお知り合いなのですか?」
「ああ。街に、夜叉国からあやかしが飛び出したことがあってね。王仙夏さまが部下を遣わせて退けたのだが、その時、私と徐文もいた」
くく、と揺蘭は蓮っ葉に笑う。
「私はあなたくらいの年齢で、その時、初めてあやかしってやつを見た。で、なんやかんやあって、道士になった」
揺蘭は右手を伸ばし、なにかを招くように小指から順番に畳んでいった。
すると、揺蘭の肩に子狐が現れる。
「
赤い狐は揺蘭の肩から飛び降りると、石畳みを歩き始める。匂いを辿るように地面に鼻を向けてから、こちらへ振り返った。
「ここはまだ庭の入り口さ。より強いあかやしの気配は、奥から、だそうだよ」
李珠は目をぱちぱちさせる。
揺蘭はあやかしと会話をしているかのようだ。
「あやかしと、人が……?」
「ああ。もっとも、こういう道士の数は少ないけどね。国中で、百人もいないんじゃないか?」
李珠は改めて、揺蘭を尊敬の目で見つめた。
あやかしはまだ怖い。
けれど、揺蘭の
自信といい、気品と美しさといい、あやかしを操る力といい、なにもかもが揺蘭は李珠の憧れだった。
「すごい……!」
「ちなみに、揺蘭が目覚めた戦いに、僕もいた。僕はそこそこの家の出なんだが、道術はからきしでね……道術やあやかしのことを知ってはいるから、よく夜叉国への使いになる」
徐文はなんだか遠い目をしていた。
「要は、
容赦なく揺蘭がいうと、徐文はがっくりとうなだれるのだった。
――おぬしら、急げ。
王仙夏に叱られ、李珠たちは慌ててあやかし
庭園は一つの広場ではなく、幾つも小さな広場を小道が繋ぐ形になっているらしい。あちこちで花が咲いており、中には枝を狂ったように伸ばして、小道を狭くしている樹木まである。
本来は、お妃さまなどが通る、美しい場所なのかもしれない。後宮は、皇帝陛下の奥さまがおわす場所というから。
けれどもその庭園は、今は花と木でできた迷宮だった。
「こうなったのはいつからだい?」
「わからん。今日の朝みたら、こんなになるまで咲き誇っていた。昼餉の時間にはもう宮中が噂で持ちきりさ」
揺蘭は言う。
「狂い咲きってやつだ」
揺蘭は、道士としてあやかしに詳しいのかも知れない。きらりと目を光らせて、歩きながら詳しい話をしてくれた。
「昔にも似たようなことがあった。詩に歌われるほどの昔だがね。ある日、草木の芽吹きを司る精が、好いた男を喜ばせるため季節を無視して全ての花を咲かせてしまった。だが、花には季節ってもんがある。間違った時期に咲いた樹は、その年はもう実を付けない」
揺蘭は傍らで咲く梅や桃の花を見上げた。
季節はとうに過ぎているというのに、二つの樹は小さな花を咲かせている。初夏の陽気と相まって、なんだか変な感じだった。
「花ってのはね、植物にとってかなり力を使うんだ。無理矢理に咲かされるなんて、活力を吸い取られるようなもの」
李珠はぶるりと震えた。徐文が頷く。
「自然に背いたことはよくないということか」
「ま、簡単にいえばね。その話でも、花の精は仙界から追放されたし、農で成り立っている大辰国に狂い咲きは災厄だよ」
揺蘭は、花にまみれた壁を見やる。
「この狂い咲きはだんだんと範囲を広げているようだ。もし、大辰国中にこの狂い咲きが広がりでもしたら――どうなると思うよ?」
徐文は呻いた。
「な、なるほど。正しくない季節に咲いた草木は、収穫に足る実を付けない――」
「稲だって咲くんだ。大凶作になるね」
李珠は、全身が強張るのを感じた。置いていかれないように慌てて走る。
「そ、そのあやかしはなんというんです?」
「伝承によれば、花の神――」
揺蘭は言った。
「
王仙夏が言った名前と同じだった。李珠はぐっとお腹に力をこめる。
あの牛のように恐い思いをするかもしれないけれど、今は、頑張ってみよう。
「ど、どうすればいいんです?」
これには櫛が震え、王仙夏の声が応じた。
――花神は、花ごとに生まれるあやかしだ。色々な花を咲かせてはいても、大元となる花は決まっている。
ああ、と揺蘭が引き継ぐ。
「目に見えて咲いている花のほとんどは、花神の指先みたいなもんだ。花神の本体を見つけて、狂い咲きをやめさせないと、これは止まない」
李珠と徐文は顔を見合わせてしまった。
花神が宿る、花を見つける――?
「なるほど、筋は通っている。でも、この、一街はありそうな中からかい?」
「ああ」
ざあっと風が渡ってきて、津波のように花弁が押し寄せた。赤、白、青、桜色、色とりどりの花弁が李珠たちを包み込み、円を描く。
「やられたっ」
揺蘭が舌打ちして、口笛を吹いた。
視界は晴れたが、周囲には花の残骸が散っていた。
「あの、これは」
李珠がおそるおそる尋ねる。
「花神の嫌がらせさ。あたしたちの周りに花びらをまいて、今まであった、花神の気配を誤魔化しちまった。匂いを吹き散らすみたいにね」
ここまで導いてくれた
◆
――李珠よ。
あまりの花の多さに呆けていた李珠だが、王仙夏の言葉で我を取り戻す。
「は、はい」
――おぬしに残された手は、闇雲に探すだけではあるまい?
李珠ははっとして、徐文が持ってくれていた籠に手を伸ばした。黒龍堂から、役に立ちそうな道具を一そろい持ってきていたのだ。
「ほ、黒龍堂の『あやかし道具』か」
揺蘭はにんまりする。
「見るのは久しぶりだね。さて、今の使い手はやはり李珠なのか」
籠に突っ込んだ手の中に、待ち構えていたように何かが飛び込んできた。李珠は正体もわからぬままそれを引き抜く。
「え」
それは、得体のしれない、なにか三角形のもの。
「……角?」
李珠はぞわぞわっとした。
やはり角だ。それも、牛の。
「こ、これって!」
脳裏に昨日出会った『しゃべる牛』の姿がよみがえる。
「昨日の、牛のっ?」
――あやかしは、出会った人間に道具を残すことがある。戯れか、それとも感謝のしるしか、それは分からぬが。
李珠は角を持ったまま、わなわなと震えた。
――そうしたあやかし道具は、時折に黒龍堂へ流れ着く。今回は、おそらく、おぬしに感謝して牛が残したのだろう。
「わたし、知らないですけどっ?」
――今朝、店の前に落ちていた。入れておいた。
抗議しようと思ったけれど、ふいに、ぐんと角が引かれた。李珠はこの牛が予言の能力を持っていたことを思い出す。
空中に引っ張っていこうとする牛の角を、李珠は懸命に引っ張り返し、その場に留まりながら声を張った。
「こ、れ、昨日の牛が残してくれた角みたいです……!」
「へぇっ?」
徐文がびっくりする。
「わ、わたしを、花神のところに連れてってくれる、かも……!」
ぐんと速度が増した。李珠の体は浮き上がり、角に引っ張られるまま進んでいく。暴れ牛だ。
「きゃー!」
間抜けな悲鳴。その後ろを、
――やはり、おぬし、あやかしに好かれる質かもしれぬぞ。
「嬉しくないですっ」
李珠が着地したのは、ひときわ立派に咲く
周りは広場のようになっていて、そこだけ、牡丹の花が一株だけ咲いている。。
「見事に咲いているねぇ」
徐文は揺蘭に告げた。周りには誰もいない。
「……まだ誰も調べていないようだね。他の道士は来てないのかな」
「ああ。牡丹は、もともとこの季節に咲く花だからなぁ」
ただし、花そのものにはなんの不思議もない。
李珠は花をじっと見つめている。
手のひらほどもありそうな牡丹は、花を天頂に向け、差し込む日差しに照り輝いている。いっそ神々しいほど。
李珠はふと思ってしまう。
「どうして、なんでしょう」
何気なく呟いた言葉だったが、李珠は『その点』を考えていないことに気づいた。
「あの……花神は、どうして花を狂い咲かせたのでしょう」
揺蘭が口を曲げる。
「そりゃ、そういうあやかしだから、だろう」
「いや」
徐文が引き取り、ぱんと手を叩いた。
「動機か」
李珠は咲き誇る花々を見つめる。これほど美しく花を咲きほこらせる理由。
たとえば――
「誰かに、見てもらいたい、とか……?」
その時、李珠は牡丹に動きをみた。大輪の花、その裏側から、小さな人影が姿を見せる。
黄色を基調とした衣に、同じ色の簪。瞳は青で、髪は少し茶色がかっていた。
そう、人だ。小さな人なのだ。
衣は揺蘭と比べてもよほど上等で、天女のような
「小さな、人がいます……っ」
「なに」
徐文と揺蘭が花を覗き込む。と、李珠に向かって小さな人影が飛び込んできた。
――あの方に……。
女性の声が頭に響く。李珠は、人影の目に喜びと安堵をみた。
「っ」
人影は李珠にぶつかる寸前、無数の
花はしばらく李珠の近くを廻っている。喜ぶように、あるいは感謝するように。
花吹雪の名残はやがて空へと昇り、太陽の方角へ飛んでいった。後には、枯れた牡丹が残される。生命力を使い果たしたかのようだ。
揺蘭が声を張る。
「李珠! 今の、どんな人か見えたかい」
「は、はいっ。ええと、茶色の髪と、白い肌で……衣服は黄色でした。天女、みたいにきれいで」
揺蘭は目に見えて驚いた。ぴんと眉が上がっている。
「な――に」
「あの……?」
揺蘭は口に手を当てて沈黙していた。
徐文が促す。
「どうしたのだ?」
「あ、ああ。もしかして、青い瞳をしていなかったか?」
李珠は驚きながらも頷いた。
「その姿なら、あたしにも覚えがある」
揺蘭は首を振って告げた。
「香姫さまに似ている。皇帝陛下の一族で、後宮ではなく養心宮に住んでおられた。だが……半年前に亡くなっているはずなのだが」
王仙夏の声が再び聞こえた。
――身分の高い者であれば、近しい女官らはまだ殿で喪に服しておるだろう。
いってみよう、と李珠達は陽明園を後にした。
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