第2章:花神
第6話 神隠し
支度を調えてから、
すでに日は高い。今日は休みだったからよかったが、普段ならとっくに姉と飯屋の手伝いにきりきり働いているところだ。
李珠は通行人のお腹にぶつからないよう、するすると身をかわしながら駆け抜けた。
――外れのあばら屋に来ると良い。そこを、入り口にしておいた。
王仙夏の声が導いてくれる。
頭の上から声が降ってくるような、不思議な感覚だった。
李珠は足を止めて、いつの間にか身に着けていた
――招き
その角だ、と指示されて李珠は慌てて足を動かした。
「お姉ちゃん――!」
いったいどういうことだろう。
不吉な鼓動が止まない。
姉について尋ねた時のことを思い出す。
みんなきょとんとしていた。まるで姉が初めからいなかったかのように。
李珠は頭を振ってたどり着いた建物を見上げる。
「ここですね!」
――ああ。
やがて、古ぼけた家を見つけた。誰も住んでいないのか、戸が開きっぱなしになっている。雑然とものが置かれているのを見ると、付近の住民から勝手に倉庫に使われているのかもしれない。
李珠がおそるおそる中に入ると、急に足の感覚が消えた。
「ええっ?」
床に、ぽっかりと穴が開いていた。
そのまま落ちる。ぐるりぐるりと目が回る。
ぶつかる!とぎゅっと目を閉じ身を固くしたが、李珠は気付くと誰かに抱えられていた。
「来たか」
両腕で李珠を抱えているのは、王仙夏だった。
「お、王仙夏さま」
うむ、と王仙夏は頷き李珠を下ろした。昨日の椅子にかけるよう促してくる。
夜叉国も今は昼らしい。
風を入れるため、木戸が半分だけ開いている。そこから人ならぬ影が見え隠れするけれど、明るい中だと昨日ほどは恐ろしくなかった。
「さて、おぬしの姉について話そう」
李珠ははっとした。
「そ、そうだ! だ、誰も知らないっていうんです――お姉ちゃんのことっ」
思い出すと涙が出てくる。
姉がまだ見付かっていないことも不安だったが、それにもまして姉のことを誰も覚えていないことが信じられなかった。
「みんなひどいです――! あんなに、あんなに、お姉ちゃんいたのに! 郭おじさんだって……!」
「私もおぬしの姉を探した。わかったことがある」
王仙夏は、口を左右に引き延ばし、安心させるように笑みを浮かべた。あまり、上手とはいえなかったけれど。
「まず一つ、安堵してよい。おぬしの姉は生きており、当面は命の心配はないだろう」
ただ、と王仙夏は言い添える。
「問題も見つかった。おぬしの姉は、あやかしの『持ち物』になったのだ」
生きている。それは分かったけれど、後ろ半分はひたすらに不穏だった。
李珠は眉をひそめてしまう。
「持ち物……?」
「『
李珠がやきもきしていると、ふと出入り口に影が差す。
あやかしが来たのかと李珠は王仙夏の陰に隠れたが、入ってきたのは昨日会ったばかりの官吏、徐文だった。
徐文はにこりと笑いながら、手に持った串を掲げてみせる。
「やぁ王仙夏殿。おや李珠、君も早速いたのか」
徐文は手に持った串を突き出した。
「食べるかい。サンザシ飴と饅頭だよ」
「おぬし……ここで昼食をやる気か」
王仙夏はうんざりした顔だが、うんと長い尻尾が、ぱたりぱたりと動いていた。
「うん、君のおかげで、こちらは大変助かった。お礼もしたい、君は褒美よりも食い物だろう」
ちらりと李珠の方を眺めてくる。姉のことは心配だったが、ぐぅとお腹が鳴った。
昨日の夜からほとんど何も食べていないのだ。
「李珠、君も召し上がるかい」
徐文が慣れた足取りで奥の
「食事をしろ」
「え」
王仙夏は促した。
「顔が青い……気づかなくてすまん。人の子のことは、わからぬ」
言われるがまま、李珠はまだ温かい饅頭を頬張った。もっちりした皮と、ほくほくした中身がたまらなく美味しい。泣き疲れて口の中がしょっぱかったせいか、サンザシ飴の甘さが舌を楽園にする。
食べ物をお腹に押し込みながら、李珠は今朝起こった異変をあらかた話していた。
泣きつつも食べるのだから、口はとても忙しい。
「なるほど、お姉さんのことをみんな忘れていた……か」
徐文はしんみりと頷いた。この人の言葉は、芯から同情してくれているようで、なんだかほっとする。
「それは辛かったね」
「はい……」
王仙夏が口を開く。
「話を戻す。『神陰』とは、神隠しともよばれる。あやかしが、気に入った人の子を夜叉国に招き、自分のものとしてしまうことだ。おそらく、李麗が手にしたという翡翠の櫛は、あやかしによる目印のようなものだっただろう」
李珠はぞっとした。
「く、櫛が、ですか?」
「うむ。人の髪には力が宿る。故に、櫛や
そう言えば、今日李珠をここまで招いたのも王仙夏からもらった
「さて、神陰には目的がある。たとえば、行方がしれなかった男が、全く異なる土地であやかしを妻にして暮らしていた、など」
「な、なるほど。さらっただけではなく、その後に目的があるのか」
徐文が合いの手を入れた。
「うむ。この場合、工夫がきく者であれば知り合いの記憶を消しておく。なぜならば、探し回られると面倒だからだ」
王仙夏は続ける。
「近隣のものがまとめて忘れているのだから、もはや圭城府におぬしの姉のことを覚えている者はおらぬだろう。それだけ強い、忘れの術だ」
王仙夏は、李珠が俯いているのを見やる。
「李珠、おぬしはその時、黒龍堂にいたか、私の簪をつけていた。だから、忘れの術が効かなかったのだ」
王仙夏は腕を組んで宙を睨んでいる。机の香炉から、白龍が昇っていくような煙が立っていた。
「……しかし、そうも早急に記憶を奪うなど、強引なやり方だが」
李珠が最後のお茶を飲んでしまうと、誰も話さなくなった。
徐文が二人を見やってから口を開く。
「こちらもいいだろうか」
徐文は、
金色で、うつくしい龍の文様が彫られた筒。傍らには、鮮やかな羽をもつ矢と、黒々とした砂が盛られていた。
「昨日、皇帝陛下の贈り物から、君の言うとおり毒サソリが見付かった」
李珠はぎょっとなった。
「こ、皇帝……?」
「ああ、実はね。牛が死を予言した人物というのは、大辰帝国の天子様――皇帝陛下なのだよ」
目と口を縦に思い切り開いて固まる李珠に、徐文は頭をかく。
「ごめんね。本当に予言で身罷られたら、君は天子様の死に関わったことになる。知らせない方がいいと思ったんだ」
徐文はすまなそう頭を下げる。
「さて、この筒がその矢筒だ。夜天祭の季節は、大辰国の建国の季節でもある。北方の騎馬の民でもあった天子様の一族に、祝いで矢筒を送るのは、よくみられる習慣だ」
ところが、と徐文は続ける。
「そこに、サソリが忍ばされていた。矢を取ろうとしたら、こう、ちくりとサソリに刺される仕掛けだよ」
李珠はぶるりと震える。
昨日は姉のことで頭がいっぱいで理解できなかったが、落ち着いて聞かされて、ようやく李珠にもわかった。
昨日、牛が残した予言は『皇帝に凶兆あり。矢筒の中のサソリに注意しろ』――という意味だったのだろう。予言における『北辰』とは、空の中心、つまり天下の中心である皇帝の暗示だったのだ。
「こ、こんな立派なのに……」
李珠は机に乗った矢筒をこわごわと見つめる。
龍と
「徐文よ」
王仙夏はそう言って、机に盛られた黒い砂をつまんだ。
「そのサソリは?」
「……それです」
徐文は肩をすくめてみせる。
「僕たちが全ての矢筒を検分し、その矢筒にサソリがいるのを発見しました。ただ、サソリは日光にあたると、たちどころに黒い砂になって崩れてしまったのです」
「それも、まじないだな」
王仙夏は顎に手をやる。頭上で、角を囲うように白い煙が渦を巻いていた。
「皇帝の手元にまで矢筒があがったということは、明禁城にいる他の道士らは仕掛けを見破れなかったということだ」
ふむ、と徐文が引き取った。
「その通りです」
「それほど巧妙な導士、あるいはあやかしが多くいるとも考えられん」
徐文はふと顔をあげる。
「王仙夏殿? それはつまり、昨日、毒サソリを仕掛けた人物が、李珠の姉の神隠しの犯人だと――?」
「そこまでは言っていないし、言えない」
王仙夏は首を振る。
「ただ、昨日の牛の予言が私には気になっている。『北斗七星が、柄杓で陰気を夜天にまく』――これは強大なあやかしが現れた時の予言だからだ」
気づくと、李珠の身はかちこちに固まっていた。
王仙夏は表情を緩める。
「李珠、見つける。その点は安心しろ、対価を受け取った以上、私は必ずそうする」
白い煙が漂い、まるで絵にあるような仙境だった。李珠は姉を失う不安をぎゅうっと押し殺して、手を組み合わせる。
「お願いします――!」
「ところで」
徐文が言いづらそうに咳払いした。
「それなら、僕が知っている情報が、助けになるかもしれません」
王仙夏が切れ長の目を向けた。
「ほう?」
「また宮殿なのですが、どうも、またまた妙なことが」
申してみよ、と王仙夏が視線で促す。
「花が狂ったのです」
狂う。李珠はぎょっとした。
「く、狂う?」
「ああ。今は初夏。けれども白菊、蘭、冬牡丹――咲くはずのない冬の花までも、いっせいに咲き誇っているのだよ」
徐文の言葉に、王仙夏が身を乗り出す。
「興味深いのう」
王仙夏は李珠を見つめた。
「強いあやかしが現れると、周りのあやかしも刺激を受け、活発になることがある。宮殿にまたあやかしが現れたのかもしれぬし、あるいは、姉をさらったあやかし自身が何かをしていったのかもしれない」
おそらく、と王仙夏は続けた。
「花神か」
花を操るあやかしを、『花神』というようだ。
「姉への何か手がかりがあるかもしれぬな」
王仙夏の言葉に、李珠はぎゅっとお腹に力をこめた。
「あ、あの、わたしも何かやりますっ」
徐文が驚いたように李珠を見た。
「けれども君は子供だろう」
王仙夏は李珠をじっと見つめた。
「……おぬしはすでに一度、私の仕事を手伝っておる。無理をする必要は……」
李珠は首を振った。
姉がいないのは怖い。けれども、姉がいなくて、みんなそれを忘れていて――そんな街で暮らすのはもっと嫌だった。
それに、と李珠は思う。
「わたし、お姉ちゃんに助けられてばっかりで……だから、お姉ちゃんを助けたい、です……」
王仙夏は立ち上がり、李珠たちに背を向け、ゆっくりと考えているようだった。背中まである銀髪の下で、尻尾がぴくりぴくりと動いている。
「悩んでいると、尻尾が動くんだ」
徐文が囁いてきた。王仙夏が振り向き、徐文はあわてて誤魔化す。
「しょ、正直なところ、僕の立場では、手伝う人は多い方がいいですねぇ。大辰国の危機とあらば」
王仙夏はそれでも悩んでいるらしかった。銀髪の上で、白い煙が複雑な渦巻きになっている。
見ていると目が回りそうだ。
「昨日の牛は、おぬしに、予言を話した。おぬしには、あやかしを惹きつける何かがあるのかもしれぬな」
それが認めた言葉のようだった。
「おそらく怖いぞ」
睨まれるが、李珠はもう腹を決めていた。
「は、はい!」
王仙夏が、ぱしん、と手で打った。
すると店の方から丸まった布がやってくる。広がると、色とりどり、しかも見事な文様が刻まれた絨毯だった。
「すごい……」
「かつて東西の交易で絹がやりとりされておってな。その時に中華に入ってきた、西方の絨毯だ」
絨毯はうっすらと地面から浮き上がっている。おそるおそる李珠が乗ると、まるで雲に乗っているようにふわふわした。
「おぬしらに、店の『あやかし道具』を持たせよう。荷が多いゆえ、今回はそれで向かうといい」
昨日の姿を隠す『闇石の
絨毯は、李珠と徐文、そしていくつかのあやかし道具を乗せて、店を飛び出した。
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