第2話 黒龍堂

 いったいどれほど歩いたのだろう。

 住み慣れたはずの圭城府は面影もなかった。あやかし達の目を逃れるように李珠りじゅは息を殺して進む。

 人を食べてしまいそうな巨体もいたが、李珠には興味がないのかそれとも気付いていないのか、なんとかやり過ごすことができた。

 けれども限界だった。心も、体も。

 動いていく内に恐怖とは違う震えがくる。夏のお祭りだったはずなのに、真冬の夜のように寒かった。体中から生気が漏れていくようだ。

 灯籠タンロンが照らす水たまりに、自分の姿が映る。

 祭りのために用立てた衣のまま、李珠は震えていた。今日がこんな夜になるなんて。


「夜叉国、だ……!」


 おとぎ話では遠い砂漠にあるはずなのに。

 住んでいる街のすぐ裏に、あやかしの世界?


「ど、ど、どうしよう……!」


 震えていると、後から声がする。

 あやかしが群れをなして李珠が隠れた通りにやってきた。先頭に豚がおり、なぜか前にもお尻にも顔がついている。


「人のぉ臭いがぁするなぁ」


 息が止まるかと思った。体は凍えるばかり。

 李珠は水瓶の陰から抜け出す。そろりそろりと出たはずなのだが、柄杓か何かを倒してしまった。

 がらんがらんと音が転がる。

 李珠は走った。何かが追いかけてくる。

 不意に目の前を光が過ぎった。

 頼りない光だったけれど、暗い夜道が恐ろしくて、本能的に後を追う。一軒の家が戸口を開けていた。かすかに人の気配。

 一か八か、と心に決めて、李珠はその家に飛び込む。

 中はまるで物置だった。そこら中に棚があり、隠れ場所も多い。台にかけられた古びた布をめくると、李珠なら入りそうな隙間があった。


「ここなら……!」


 台の下に身を滑り込ませる。布と地面の隙間からうかがうと、李珠を追いかけていたあやかし達は、中にまでは入ってこないようだ。

 やがて諦め、去って行く。

 李珠はほうっと息をついた。怖いのでしばらく隠れたままでいる。

 導いてくれた灯りはいつの間にか消えていた。

 ここはどんな場所なのだろう?

 鍋やカゴ、木の板など雑多ものが向かい側の棚に置かれている。中にはきれいな鏡や櫛もあり、李珠はまとまりのなさに首を傾げた。

 見つめている内に、それが『並べ』られているのだと気づく。


「お店屋さん……?」

「誰かいるのか」


 今度こそ心臓が飛び跳ねた。

 声は店の奥からだった。


「人か」


 口に手を当て、息を殺す。


「来てみるといい。食いはしない」


 逆らうのも恐ろしくて、李珠は迷った末に布をめくって出た。

 おそるおそる奥へ進む。

 古びた雑貨や人形、壺などがこっちを見ているようで落ち着かない。薄暗い店を、李珠は口に手を当てながら進んだ。

 奥は一段高くなっていて、格子付きの戸が開いている。

 薄闇に何かが浮かび上がった。

 二本の、木の枝に見える。が、その下には頭の形。

 あ、と李珠は思った。銀糸のように豊かな髪が、頭から背中に流れている。だから頭から突き出しているのは――


「角っ?」


 怖さで目が離せなくなる。角の下には鋭い目があり、李珠をじっと見つめていた。


「客かね」


 頭に角の生えた男が、落ち着いた声で李珠に語りかけてくる。

 年の頃は、二〇を少し過ぎたくらいだろうか。

 端正な顔立ちだ。裾の長い黒の礼服らいふくを着ているせいか、とても気品ある人物にみえる。

 それだけに、木の枝のような二本角が異様だった。

 腕を組んだまま、男性はもう一度口を開く。


「客かね?」


 はっとして、首をぶんぶん振る。


「では、なんだね」


 もう一度ぶんぶんと振る。男は表情を消したまま立ち上がる。後ずさる李珠だったが、なにかにつまづいて尻餅をついた。


「な、なに……?」


 立ち上がりながら振り返ると、ぎょっとする。黒い鱗に覆われた尻尾が李珠の足元にあった。足が短い白の毛を踏んでしまっている。


「ご、ごめんなさい!」


 何を謝っているのかと思いながら、李珠はおそるおそる目線で尻尾をたどっていく。尻尾は、礼服の裾と床の隙間へと吸い込まれていた。

 李珠はへなへなと座り込んだ。


「……や、夜叉国の方、ですか」


 ようやっと李珠はそうとだけ言った。男は顎に手をやって首を揉む。


「ふむ。そうだ」

「……っ」


 李珠は手を胸の前で組み合わせて、覚えているおまじないを片っ端から試した。


「神様、仏様、道天様、どうかお助け下さい……!」


 李珠の目から涙が零れた。顔をぬぐおうとして、自分が上物の衣を身につけていたことを思い出す。姉と――李麗とお祭りを巡る予定だったはずの夜。

 こんなことになるなんて。


「ぐっ、く、ふうぅ……!」


 涙が溢れる。


「お、おぬし」


 ぎょっとする気配が伝わった。


「し、子細は分からぬが、とにかく泣くほどのことはあるまい」


 男は近寄り、扉に向かって手を振ると、ばしんと勢いよく戸が閉まった。


「まったく、こんな夜に店を開けるのではなかった」


 慣れ親しんだ言葉に、李珠は顔を上げた。


「店……?」


 男は少しほっとした様子で顎を引く。


「黒龍堂という」


 李珠は飯屋で働いている。そのためまず飯屋かと思ったが、そんなはずはないだろう。飯炊きの気配がないし、匂いもない。

 そもそも店主が人間ではない。


「なんの、お店……?」

「よろず屋である。この場所に構えて、よろずのことをなんでも取り扱う」


 落ち着いてきたのか、男は李珠から離れ、椅子に腰を落とす。

 男が手を振ると、なぜか机に乗った香炉に火が入った。白い煙がすうっと立ち上り、男の周りに漂っていく。


「なんでも、ですか?」

「うむ」


 李珠はきゅっと手を握った。

 男は目を細め、すべてを見透かすような目をする。香炉が生み出す白いもやのせいか、仙界で龍に見つめられたかのようだった。


「……おぬしを元の世界に返すということであれば、まぁできる。そうだな、靴でも衣でも置いていくか、店の中でも掃除をしろ」


 李珠は頭を振った。


「探してほしい人がいます」

「……探し人だと」

「はい。お姉ちゃんとはぐれてしまって」


 男は眉間に皺を寄せた。李珠はまた怖くなる。


「それは難しい。この場は人の生気を奪う。迷い込んだのであれば、まずは生きてはいまいよ」


 この世界に迷い込んだ時から、李珠は寒気を覚えていた。単に空気が冷たいということではなくて、体の芯から元気が逃げていくような寒気なのだ。


「い、生きては……?」


 李珠はまた泣きそうになった。衣で涙をぬぐい、男を見つめる。


「探してくださいませんか?」


 男は沈黙したままだった。


「わ、わたし、何でもやります! あるものなんでも出します! だから……!」


 李珠はわめいた。


「お姉ちゃんを見つけて下さい!」


 頭を床にこすりつけそうにして、李珠は男に縋る。そうするしかない、と心が告げていた。

 男はしばらくの間、宙を睨んでいた。


「王仙夏だ」

「……え?」

「私の名だ。おぬしは」


 王仙夏は椅子を立ち、李珠を見下ろしてくる。

 角と尻尾は怖いけれども、李珠は必死に言葉を継いだ。


「李珠です。お姉ちゃんは、李麗」

「では訊こう。李珠、おぬしは何を出せる?」


 何を、と聞かれて言葉に詰まる。李珠は衣をまさぐって、お祭りで使うはずだった銭を床に出した。


「話にならん」


 王仙夏は背をむけた。


「ここは店だ。私に求めるなら、対価がいるぞ。おぬしが年頃の女であるならばいざ知らず、このような子供では……」


 もう引き下がれない。両で拳を作る。

 勝手に震えてくる喉だけれど、李珠は頑張って王仙夏の背を見上げた。


「わ、わたし、やります! お姉ちゃんが帰ってくるまで、手伝いでも、なんでも……! 腕でも足でも、食べていいですっ」


 言ってからさすがにやりすぎたと思った。真っ青になる。


「ふむ。なるほど、そうか」


 王仙夏は膝を曲げ、李珠と視線を合わせる。

 端正な、けれども角の生えた顔が間近に迫り、李珠は戸惑うやら赤くなるやら、最終的に涙目になった。


「なんでもと言ったな?」

「い、言いましたぁ……! けどぉ……!」

「ここはあやかしの住む世界、夜叉国だ。先に言うが、善意はない。おぬしが求めるならば何かでそれを購うしかないぞ」


 では、と仙夏は李珠の腕を掴む。


「い、痛……!」

「おぬしのこの『腕』を借りるとしよう。丁度、新たな客が来そうでな」


 その時、固く閉じられたはずの扉が開かれた。

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