龍のよろず屋 ~大辰国あやかし奇譚~

mafork(真安 一)

第1章:しゃべる牛

第1話 消えた姉妹


 李珠りじゅは姉に手を引かれて祭りの人混みを進んでいた。

 息苦しくなって顔を上げる。夏がはじまったばかりの夜空には、乳を流したような星明かりがすうっと引かれ、その下を赤色の灯籠タンロンが鈴なりになっていた。

 胸がいっぱいになって、さっきとは違う苦しさを覚える。


「夢みたい」


 李珠の声に、姉が振り向いてくれた。

 六つも年上の姉はしっかり者で、李珠にとっては母代わり。揃いの薄緑色の衣で夜に繰り出すのを、ずっと楽しみにしていた。


「見とれて手を離さないでよ」


 姉はにっと笑う。十七歳の姉と、十一歳の李珠では大人と子供だった。

 むっとしてしまうけれど、離ればなれになりたくないので顎を引いておく。


「わ、分かってるよ」

「こんな日に珠珠がはぐれたら、絶対に泣いてしまうものね」

「はぐれないよ。だいたい……いっつもどっか行くのはそっちじゃない」


 口を尖らせると姉はくすぐったそうに笑う。祭りの陽気が伝わってくるのか、姉も李珠も、些細なことみんな楽しかった。

 でも、と李珠は思い直す。

 姉なら大抵のことは楽しんでしまうのだろう。

 李珠達が働いている飯屋でも、新しいことを覚えるのはいつも姉の方だった。お客の名前、新しい料理、お使い――飯屋の雑用はキリがない。

 一方で李珠は人見知りで、お客の前で身がすくむ。

 なんでも楽しそうにこなしてしまう姉に、いつも助けてもらっていた。


「寂しくしてごめんね」


 姉は李珠に微笑みかける。


「……いい。忙しいんでしょ」

「だけれどね。でも今日は一緒だよ」


 姉の手にやさしい力がこもった。李珠も握り返し、歩みを進める。

 祭りの雑踏も姉と手で結ばれているならば怖くなかった。


「仲良しだね」


 姉のさらに向こうから、大きな背中が振り返った。小山のような顔つき。でも見下ろしてくるのは、優しそうな目だった。

 姉が頭を下げた。


「ごめんなさい、郭おじさん」


 いいんだよ、とこれまた大きな手が否定する。


「君らに何かあったら、おやじさんに顔向けできない。祭りを案内するなんて苦労の内にも入らないさ」


 李珠達の父親は兵士の一人で、しばらくの間は家を空けていた。その間、近くに住む郭おじさんが二人の様子を見る約束になっていた。

 李珠は郭おじさんの、姉よりもさらに大きな体を見上げる。

 父親は昔、この郭おじさんの命を助けたらしい。


「でも気をつけてくれよ。夜天祭で迷うなんて、本当に縁起が悪いからね」


 姉は神妙に頷き、目で李珠に注意する。

 李珠はぶるっと震えて、郭おじさんに訊いた。


「郭おじさん。縁起が悪いって?」

「ああ。そりゃ、夜天祭は大事なお祭りだからね」


 大辰国は大きな陸地を治めている。李珠達が住まうのはその中心、圭城府だった。この街を出たことがない李珠には想像もつかないが、国は海や山の果てまで広がっているという。


「国を興すときにあやかしの力を借りたっていうだろう。助けられたことを忘れないよう、年に一回お祭りをすることになった。それが今夜だ」


 李珠はもう一度夜空を見上げた。この空には少し前まで遠くの地から砂が飛んできていた。

 黄砂という。

 そんな遙か彼方の砂漠には、人ならぬあやかしが棲む『夜叉国』があるという噂だった。


「あやかしの国は、遠いんでしょう?」

「そういうけどね」


 遠くの地から飛んでくるという黄砂が、李珠は本当に夜叉国から飛んできているように思えて、空が黄色くなる春は憂鬱だった。

 とはいえそんな季節が終わったからこそ、初夏の祭りが開かれているわけだが。


「子供の頃には、祭りで迷うとあやかしにさらわれるって言われたものだよ」

「……き、気をつけます」


 李珠はきゅっと姉の袖を握った。

 脇から見上げて、声をひそめる。


「お姉ちゃん」

「うん?」

「あれ、まだ持ってるんでしょ?」


 姉はちょっと眉を上げ、恥ずかしそうに頷いた。


「……あやかしに狙われないかな」

「えぇ?」


 姉は大きな目を開いてみせる。悪いことをするとあやかしにさらわれるというのも、李珠達もよく聞かされた。


「持ってるだけで? 大丈夫よっ」


 李珠はなんだか怖くなった。すぐ怖くなるのだ。おかげで最初は楽しかったお祭りも、だんだんと気が重くなってきた。

 知らないところ、知らない人、そんなものが苦手だった。

 飯屋の仕事に向いていないのかも知れないけど、姉と離れるのも怖くて、どんくさいと知りながらもずるずると続けている。

 李珠は人々の帯や頭の隙間から、自分がいる通りに目星をつけて、はぐれたらこう帰る、姉をこう探す、と危険を予期しながら歩いた。


「ねぇ、麗々れいれい


 足が止まった折、李珠は姉に呼びかけた。

 麗々とは姉『李麗』のあだ名だった。


「どうしたの?」

「あそこの子、こっち見てる」


 今いる通りから分かれた小道で、李珠と同じくらいの年頃の少女らが、こちらを伺っていた。手にはサンザシ飴を持っている。

 赤い実を串にさし、飴をかけたお菓子だった。

 生活は楽じゃないから、いつもは甘いものは控えている。けれど祭りの夜なら、話は別だ。

 口が勝手に甘い蜜と酸っぱい果実を思い出し、ぐぅ、とお腹が鳴いた。


「お姉ちゃん、あの子ら、サンザシ飴持ってる」

「食べたいの?」

「う、うん……お姉ちゃんの知ってる子じゃない?」


 顔が広い姉のことだから、李珠が知らない友達がいても不思議ではない。姉は首を傾げていたが、手を繋いだまま小道の方へ歩き出した。


「知らない子だけどね。サンザシ飴売ってるところ聞いてみたいな」


 郭おじさんに合図してから、二人は小道に入った。おじさんも危険はないと判断したらしく、知り合いとの話し合いに戻っていく。

 少女らを近くで見て、李珠は息をのんだ。


「うわぁ……!」


 同じような着物だと思っていたけれど、よく見ると全然違う。

 仕立てはなめらか。もしかして絹なのだろうか。帯にも銀色の刺繍が入っていて、小さいながらも見事なかんざしが頭にさしてある。

 李珠達の髪は、飾りのついた紐で結っただけだ。


夜天好こんばんは、きれいな衣ね」


 お祭りだけの特別な挨拶をして、姉は近寄る。

 少女達はお互いに顔を見合わせていた。その時、李珠は奇妙な感覚を覚える。少女達からにおいたつ、なにか不思議なもの。

 けれども違和感はすぐに曖昧になって、口に出すことはできなかった。


「あなた達も素敵よ」


 少女達の一人が口を開いた。残りの二人は、くすりくすりと笑って李珠を見下ろしている。


「でも、髪の毛が少し寂しいかもね」


 最初に話した少女が近寄り、李珠達の頭を指した。衣に鈴をつけているのか、りんりんと音が転がる。


くしをさしたらいいんじゃないかしら、持ってないの?」


 少女らは顔を見合わせて、囁きあったり、体をつつきあったりしていた。


くしも買えないなんて」

「貧乏なんだわ」


 李珠はむっとしながらも、気が気ではなかった。姉が『あれ』を出してしまわないか心配だ。

 けれども姉はやはり賢くて、ちょっと頬をかいて見せる。


「あはは、探してみる。ところで、そのサンザシ飴って、どこで売ってましたか?」


 娘達は顔を見合わせて、何かを相談している。それぞれの顔に、李珠はたとえようもない不穏さを感じた。


「少し遠いわ」


 応えに、李珠は姉の手を引く。怖かった。


「麗々」


 姉、李麗は頷く。


「それなら仕方ないね」


 立ち去ろうとした時、冷たいものが足をなでた。

 転ぶ李珠を姉がかばってくれる。二人はそろって尻餅をついた。


「いたた……ごめん、麗々」


 言いかけてはっとした。地面に星のような輝き。

 翡翠ひすい

 緑色の宝石をあしらった見事なくしが、地面に転がっていた。姉の懐からこぼれ落ちたに違いない。

 李珠ははっと青ざめた。


「あら、これは」


 先ほどの娘が拾い上げ、しげしげと眺めている。一瞬、その目が不思議な色に光ったように思えた。

 他の娘達と一緒に。


「きれいな櫛……あなたの?」

「ええ」


 頷く姉だが、李珠からは表情が見えない。

 はらはらした。

 数日前に姉はこれを手にしていたのだが、どこで手に入れたのか李珠が聞いても教えてくれない。宝石のついた櫛なんて、飯屋の手伝いが手にできるはずがない。

 なんでも答えてくれる姉が秘密にしていることが、李珠はたとえようもなく不安だった。

 美しいけれど、今の暮らしとは不釣り合いで、持っていること自体がいけないことに思える。

 今日の衣と合わせたくて、姉は懐に忍ばせていたに違いない。


「そう?」


 娘は笑う。そして櫛を片手で高く掲げたまま、路地の奥へ駆けだした。


「待って!」


 姉は追う。李珠は後にいるはずの郭おじさんに向けて声を張ったが、なぜか何万里も距離があるかのように表通りの声がこちらに聞こえなかった。李珠の言葉も、表に通っている気がしない。現に郭おじさんは気づきもしなかった。

 姉を一人にしたくなくて、李珠もまた奥へ駆けだした。

 どんどん暗くなった。

 静かに、そしてじめじめしてきた。

 逃げる娘達の装束が闇に踊っている。赤、黄色、橙――こちらを誘う灯籠タンロンのようだ。


「麗々!」


 絶叫のようになりながら、李珠は思った。

 あの娘達――みんなおんなじ顔してた!


「麗々、待って、怖いよ」


 怯え、震える。足下が泥沼のように頼りない。

 やがて行き止まりになる。そこに姉、李麗が娘達と共に立っていた。


「あ、あなた達、なんなの? 偽物?」


 なんの偽物かも分からなかったが、偽物というのはすとんと李珠の腑に落ちた。

 娘のようだけど、娘ではない。むしろ人のようだけど、人ではない。

 そんな何かの気配がする。


「いやだわ」

「ほんものよ」

「わたし達、ほんもの」


 娘達の口がさえずる。夏の生暖かい風が衣の隙間から吹き込んできた。

 どこをどう走ってきたのかも覚えておらず、上を見上げても鈴なりになった灯りで夜空が見えない。


「麗々!」


 呼んでも姉は反応しなかった。夢をみているかのように、娘達から櫛を受けとり、頭にさす。

 緑の衣に、翡翠の櫛。李珠と同じ服装だったはずなのに、櫛が加わるだけで、姉の姿は嘘のように艶やかだった。

 その体はふわりと浮き上がる。

 ここまで導いてきた娘らは姉の手を取り、夜空の彼方へ連れ去ろうとしていた。


「待って、お姉ちゃん!」


 慌てて駆け寄ったが李珠の手は空を掴んだ。

 夜空へと続く灯籠タンロンの回廊を通って姉と娘らは消えていく。

 見えなくなるまで呆然としていた。

 来た道を振り返っても、もはや帰り道は分からない。そもそも帰ることができるのかさえ。

 歩いているのは、いずれも人ではなかった。目が一つきりの男もいれば、生首だけが浮遊するもの、手だけがぺたぺた這いずっているもの、まともに衣を着ていると思えばくぼんだ目に尖った鼻、横裂きに開いた口などまるで――いや、まさに化け物だ。

 驚きすぎて李珠は声も出せなかった。

 息だけが異様に荒くなり、耳がきーんとなっていた。


「夜叉国……?」


 伝承でいう『あやかしの国』に迷い込んだと、そう感じたのだった。

 姉を失い、一人きりで。

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