第5話 打ち上げの前に

 本日三度めのC棟だ。

 一度めはアリア試験の集合時間前に発声と軽い練習をしに練習室へ。二度めはさっき幸二とロッカールームへ。三度めの今は友人に会いに練習室へ。


 ーーいるかなぁ。もう試験は全員終わってるから、いると思うけど。


 練習室が並ぶフロアに着くと、いろいろな楽器の音が聞こえてくる。練習室の扉も実技に使う教室と同じく防音扉ではあるのだが完全な防音ではなく、音漏れ度合いで言えば練習室の方が教室よりゆるい。


 アップライトピアノが1台置かれた三畳ほどの部屋が並ぶあたりまで行き、ひとつの部屋の前で立ち止まって扉の小窓を覗く。同じスペックの部屋はいくつもあるのだが、僕がよく使うのは南側の突き当たりから5番め。他の部屋と比べて何が良いというわけでもないし、強くこだわりがあるわけでもないけれど、先に使っている人がいなければこの部屋を使うようになった、いわゆる「いつもの部屋」だ。


 ーーよかった、誰もいない。


 ガチャッと音を立てて扉を押し開き、部屋の中へ。ピアノ用の椅子の他にひとつだけ置かれたパイプ椅子にリュックとコートをおろして、鍵盤の蓋を開けた。黒くツヤツヤした蓋の内側に、見慣れたYAMAHAの金色の文字。


 狙いを定めずに人差し指で鍵盤をひとつ押す。ポーンと鳴ったのはファの音だった。


 ーーん~、さっき歌った試験曲はちょっとな。


 練習室には来たが、実はあまり練習する気はない。

 気負わずに奏で始めた曲は、武満徹作詞作曲の「小さな空」。長調で始まる穏やかな曲だが、最後の和音は短調におさまる、少ししんみりとして心が落ち着く曲だ。


 前奏に続いて1番を歌い出す。僕は声楽科にしてはピアノを苦手としない少数派で、遊び程度なら弾き歌いもよくする。鼻唄よりは実の入った、でも力も入れてないふんわりした声で柔らかい歌詞を辿る。イタリア語のアリア試験で無意識に半日ピンと張っていた気持ちが、生まれてからずっと囲まれ体に馴染んだ日本語の発音でほぐされていく。


 2番に差し掛かったあたりで、ピョコピョコとした気配を感じる。

 ピアノの上部に覗く黄色い帽子。左側面から腕だけ現れた水色の袖。右側の脚の向こうに見える赤い背中。


 手を止めずに3番も歌う。

 ピアノの三方から現れた小さな彼らは遠慮なく鍵盤の上を歩き、譜面立てによじ登って並んで座った。にこにこした顔をこちらに向け、短い脚をぷらぷら揺らし、小さいけれどきちんと指が5本ある手をふりふり振って、いかにも楽しげに。


 曲が終ると、キャッキャと声を上げながらパチパチと拍手をしてくれた。音は立たないが脚もパタパタと動かしている。


「やあ、相変わらず元気そうだね」


 僕も顔をほころばせた。


「ぁー、ゃー!」



 小人。


 人間の幼児のような風貌で、身長は10cmくらい。ぷっくりした頬とくりっとした目、それからちょっと先のとがった耳をした、僕の小さな友人だ。


「アリア試験は全員分聴いてたの?」


「んー、んー」「ぁー、ぅー」「ゅー」


 首を縦に振っている子も横に振っている子もいるから、三人で同じ行動をしていたわけではなさそうだ。


「僕の時には三人ともいたよね。応援しにきてくれたの?」


「んー、ぉー!」「ぅー?」「ぁぇー」


 頷いている子も、首を傾げている子もいる。首を傾げている子は、単純に歌を楽しみに来てたってことかな。


 彼らは僕の言っていることはだいたいわかるようだけど、僕は彼らの言っていることがわかるようなわからないような。仕草とセットでなければ無理。


 頷いているのは、緑色の服にベージュのズボン、オレンジ色の髪はおかっぱで、瞳は茶色の子。

 首を傾げている子は、水色の服に紺色のズボン、ミルクティーのような薄茶色でくせのあるショートカット、青緑色の瞳をしている。

 手振りを交えて何か話している子は、赤い服に薄ピンクのズボン、あごくらいの長さの焦げ茶色の髪はふわふわとウェーブがかっていて、瞳は紫色だ。

 三人ともお揃いの黄色いベレー帽のような帽子を被っている。服はスモックと言うのか、幼稚園の園服のような形が共通で、スリッポンに似た黄色い靴を履いている。


 彼らとはこの大学に入学して2日めに出会った。他にも仲間はいるようで、違う色合いの髪や服の小人も大学内で見かけたことがあるが、僕の前によく姿を見せるのはこの三人だ。


「僕の試験どうだった?ちゃんと歌えてたかな?」


「ぅーぃー、ゅゅ!」「ぁー、ゃー!」「ぉーぃぁー!」


 詳細はわからないけれど、笑顔をさらに明るくして手を叩き、脚を激しく振っているから、きっと誉めてくれているのだろう。

 わかる部分もある。「ぅーぃー」というのは僕の名前、「じゅんいち」と言おうとしてくれているのだ。僕が何度も教えたから。


「そっか、ありがと。嬉しいよ」


 とは言っても、彼らは僕を含めいつ誰のどんな演奏に対しても不満げな表情を見せたことはないので、評価としてはあてにならないのだけれど。

 それでも笑顔で拍手をされれば自分の演奏を肯定された気がして、心が軽くなる。



 小人の行動範囲というのはそんなに広くないようで、僕はこの三人の個体を大学の敷地内でしか見たことはない。それも、このC棟かA棟、ホールなど音を出す場所に限っていて、学食や図書館などでは気配すら感じたことがないのだ。

 今までの経験では、美術室でしか姿を現さない小人たち、庭だけで見かける小人たち、同じラーメン屋で複数回見つけた小人たちもいる。おそらく、小人にも好みがあって、好みが共通する何人かが集団を作り、好きなものの側にテリトリーを持っているのだと解釈している。だから僕がよく会うのは、音楽が好きな小人に偏っているのだと思う。


 それから、何をしてもご機嫌な小人たちと何曲か弾き歌いをしたりピアノ曲を演奏したりして、僕は練習室を後にした。


 彼らとのやりとりで、試験のために朝からアドレナリンが多く分泌されていた僕の体が、やっとニュートラルな状態にリセットされたんじゃないかな。いつもと変わらない小さな友人の顔を見て、浮き足だった気持ちを落ち着けたかったんだ。

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