第4話 試験後ののんびり
音大行って音楽の勉強したって、演奏で食べていけるのなんてほんの一握り、いや一摘まみの人間だもんな。それなのに私立音大じゃ文学部とかとは段違いに学費かかるもんな。いくら親だってホイホイと出せる額じゃない。
知ってるよ、僕だって同じだ。食うに困る家庭じゃないけど、子ども3人の一般家庭へのし掛かる負担は大きい。
ましてや幸二の実家は地方だから、この音大に通うためにひとり暮らしをしている。親に苦労を掛けて通わせてもらっている身で、単位を落としたなんて口が裂けても言えないだろう。春休みに実家に帰れば、授業の話もするだろうし。
まぁこいつ、こんなんだけど一生懸命っていうか本人的には真面目に取り組んでるからな。ふう。
「…確認するけど、この授業、ちゃんと出席はしてたんだよな?」
僕、低音域は苦手なんだけど、今かなり低音出たよね。
「う、うん。…居眠りはしてたけど、出席率だけが取り柄だよ」
「…板書の写しだけじゃ足りない部分は、ちゃんと自分で教科書調べて補足するんだよな?」
「う、うん、…できれば週明けに順一の補足と比べさせてくれるともっとありがたいけど…」
サラッと要求を増やしてきたな。
「はぁ、わかったよ。ロッカーにノート置いてあるから、今日中にコピーして返すなら貸してやる」
「ありがとう順一っ!やっぱ持つべきものはワン・ツーコンビのワンだよなっ!」
パッと顔を輝かせ、また不可視の尻尾をブンブン振りながらコウジレトリバーが近づいてきた。そして僕のスーツカバーと靴を入れたトートバッグをサッと持つ。
「俺、今日は、あ、いや試験終わるまで順一の荷物持ちするから!あ、あと春休みに俺の実家来いよ!俺、車で案内するから!」
そういえば夏休みに合宿で免許取ったって言ってたな。僕もバイト代が貯まったら取りたいな。
*
楽譜や飲み物、貴重品だけ入ったリュックを背負ってA308を出る。自分のリュックに加えてふたりぶんのスーツと靴を持った幸二は両手が塞がっているが、荷物の重さが感じられない軽快な足取りで鼻唄まで歌っている。
「ね~順一、夜の打ち上げまで何も用事ないでしょ?コピーしたらそのまま一緒に学食で勉強しようよ~」
今日のアリア試験ですべての実技試験を終えたことを祝して、この後同級生皆でお店に集まるのだ。座学の試験が残っているがそこは音大生。自分たちの専攻で一番のメインと認識されている試験が終われば、山場は越えたとしてパアッと騒ぎたくなるものである。
夜と言っても17時半開始。今は14時半頃だから、3時間くらいの空きがある。
「いいけど、ずっとは嫌だよ」
「おっけーおっけー。順一がいる間にできるだけ頑張るわ」
リュックひとつの僕と、両手にわさわさと嵩張る荷物を携えた幸二はロッカールームのあるC棟に向かった。
大学では学生ひとりひとりにロッカーが与えられている。今日はアリア試験用に試験会場近隣の教室が着替え用に押さえられていたが、普段の体育など着替えが必要な授業の時にはロッカールームを使用する。
ロッカーには置きっぱなしにする教科書やノートも入れてあり、僕はもともと来週の試験に向けて教育原論と英語のテキストとノートを今日持ち帰ろうと思っていた。
ちなみに、音大の学生は基本的に楽譜と楽器をロッカーに置きっぱなしにすることはない。弦楽器や管楽器などマイ楽器を使う専攻の生徒は、他の荷物が多くても毎日持ち運びをする。音大に入る前から、長年の教育によって『楽器と楽譜は自分自身より大切にすべし』という意識が刷り込まれているのだ。雨が降ったら自分が濡れても楽器と楽譜は死守する、自分は濡れても風呂に入って洗濯すれば問題ナシ、でも楽器と楽譜は濡れたら二度と取り戻せない。
その点については、声楽科は自分自身が楽器なので比較的身軽に登下校するのだけど、風邪には敏感になっていると思う。
「うわ、寒っっ」
1月の終わり、今日は晴れているが風が強くて体感温度はかなり寒い。A棟を出た途端にびゅうと風が吹き付けてくる。C棟までちょっとの距離だからってマフラーを巻かなかったのは失敗したな。
幸二は両手に持ったスーツカバーが横からの強風にバタバタと煽られて慌てている。
急ぎ足でC棟にたどり着き、屋内に入るとほっと一息ついた。
2階にある声楽科1・2年生共通のロッカールームは、扉を入って左右の壁に個人用ロッカーが全部で30。部屋の真ん中には2個の長机と椅子がいくつか。扉横の壁には姿見がかけられ、その隣に背の高いカラーボックス。カラーボックスには、もう卒業した先輩たちがもう使わなくなった楽譜や辞書や教科書、指揮棒や古びた蝶ネクタイなんかが雑然と入れられている。楽典や指揮法の教科書なんて同じものが何冊もある。
来週に試験のある教育原論と英語の教科書、それからルーズリーフファイルを取り出した。一応他に持って帰るものがないか確認し、特になしと判断する。2年生になってもロッカーの移動はないので、高校と違ってもうじき春休みでもロッカーを空にする必要はない。
僕の斜め下あたりのロッカーを割り当てられている幸二も、教科書を何冊か取り出しリュックに移していた。ジャージも丸めて突っ込んでいる。体育の授業は先週まであったけど、持って帰ってなかったんだな。
「よし、じゃ売店寄ってから学食行くか~」
「うん」
C棟を出てまた移動。学食と売店は図書館の隣にある。1階が店、2階が学食になっていて、僕らが「売店」と呼ぶのは食品や文房具、一般書店で売っているような本を扱う店だ。売店の他には、音楽系書籍や楽譜、弦やリードなど授業や演奏に使うものを扱う「楽譜屋」がある。
1階の売店と楽譜屋の間に階段があり、階段のまわりには飲み物やパンの自動販売機と丸テーブル、椅子やベンチが設置されている。僕はベンチに座り、リュックからルーズリーフファイルを出して、教育原論のノートを取った部分を外した。
「はいこれ。順番バラバラにするなよ」
「ありがとっ!ちょっと待っててな!」
持っていた荷物を僕のそばにバサバサと置き、何枚かのルーズリーフを持った幸二は売店前に三台並んだコピー機に駆けていく。
ガラス戸から見える外に視線を向けて、売店でおやつでも買おうかなぁと考えながらぼんやりしていたら、ほどなくして幸二が戻ってきた。
「ありがとー。いや~ほんと順一はしっかりしてるよねぇ、ノートも読みやすいし」
「フツーだわ、こんくらい」
差し出されたルーズリーフをパラパラとめくって順番が乱れていないのを確認し、ファイルに戻す。
「あっねえ、試験後でお腹すかない?打ち上げまでもたないよ、売店で肉まん買お!ノートのお礼に奢るから!」
「おお、じゃ上でコーヒーも付けてよ」
「わかったよーぅ」
買い物をするには不向きな荷物量なので、僕は荷物番としてそのままベンチに待機、幸二だけ売店に行った。なんだか僕が幸二をパシらせてるようだ。
それから僕が肉まんの包みをふたつ持ち、幸二が再びスーツと靴をふたりぶん持って2階へ上がる。お昼時でもない学食は人もまばらで、席は選びたい放題だ。ひとりで集中して勉強するなら図書館の自習スペースが適しているが、友人とするなら空いた時間の学食の方が良い。
「順一、コーヒーあったかいやつだよね?」
席を確保して荷物をおろし、コートを脱いだ幸二が財布だけ持って自販機を指差す。2階の学食に置かれた自販機は紙カップのタイプだ。水かお茶なら無料のサーバーがあるのに、僕がさっきコーヒーと言ったからかな、律儀なやつだ。
「うん、砂糖なしミルクありね」
「りょ」
せっかく付き合いで来たんだ、僕も勉強するか。今やっておけば家でやる分も減らせるしな。幸二が飲み物を買いに言っている間に、教科書とルーズリーフファイル、ペンケースを出した。
「おまたせ~」
「さんきゅー」
それから僕らはまずは腹ごしらえと肉まんを齧りつく。食べながら雑談だ。
「順一、アリア試験どうだった~?」
話題は当然、終ったばかりのアリア試験について。
「あー、まぁ大きな失敗もなく、会心の出来ってほどでもなく…?緊張であんま覚えてないわー」
「俺はねぇ、まあまあ良く歌えたかなー。今回は上位に入りたいよー」
この大学は、試験の成績付けが終わると専攻ごとに上位者のの名前が貼り出される。声楽科は42人中10人がその対象だ。貼り出されなくても、個々に点数と順位が書かれた採点表と先生方が試験中に書いてくれた講評用紙が配られる。シビアだ。
幸二は前期のアリア試験ではあとちょっとで上位、というくらいの順位だったらしい。こんなポンコツぶりだが高校から音楽科にいただけあって、真ん中あたりをうろうろしている僕より成績が良いのだ。
「歌い終ってから退室するまでのシーンとした感じが怖いよねー」
「あとは、歌ってる最中に先生が急に字書き出す時とか、逆に書いてた先生が急にこっち見た時もドキッとして歌詞飛びそうになるよな」
在学中にあの雰囲気に慣れることなんてあるんだろうか。
「さて、じゃ気合い入れ直して勉強すっかー!」
肉まんを食べ終わり、教科書とノートを開く。10月や11月にやった内容なんててんで記憶に残っていない。ノートを読み、該当する教科書にも目を通しながら僕が復習する向かい側で、幸二はせっせと僕のノートのコピーを自分のノートに書き写していた。なにせ『自筆のノートのみ持ち込み可』だからね。先輩の話だと、試験中に先生や助手さんがきちんと手書きのものであるか確認のため巡回し、コピーだとばれると即刻退室を言い渡されるそうだ。
時々幸二からの質問に答えつつ、僕もノートに書き込みを増やしていく。
目と手が休憩を求めてきた頃、時刻を確認すると16時になっていた。
「ちょっと僕、練習室行ってくるわ。幸二まだここで勉強してる?スーツ置いてっていい?17時頃には戻るから」
「へ、今から練習すんの?」
「あ~まぁ、ちょっとな」
「置いといていいよぉ~。俺は打ち上げ向かうまでここにいるから。店、10分もあれば着くよね?」
「そうだな。さんきゅ、じゃちょっと行ってくる」
「行ってら~。俺もベンキョより練習の方がいいなぁ~」
僕はコートを着て、C棟の練習室エリアに向かった。
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