第3話 試験後の頼みごと

「それで?何を助けてほしいわけ?」


 ひとまず試験で着ていたスーツから私服に着替えるべく、幸二を連れて廊下を歩き出す。


 A302と同じフロアにあるA307教室とA308教室は1年生のアリア試験のための着替え部屋として確保されている。少し狭めのA308が男子用だ。声楽科1年生42人のうち男子は12人、その12人が4つのグループに分散しているのだから何人もが同時に着替えることにはならず、狭めであっても贅沢仕様だ。

 試験時の服装がドレスなどの華美なものでなくなっても、試験の日は試験会場となる教室の近くに控え室と着替え部屋として使う教室を確保するのは決まりごとらしい。


「さっすが順一!俺『待ってた』しか言ってないのに、頼みごとがあるの、よくわかったねぇー!」


 幸二が不可視の尻尾をちぎれんばかりに振っている。僕より頭半分ほど長身でたれ目がちな幸二は明るめの茶色に染めたふわふわ天然パーマなので、不可視の犬耳も見えてきた。

 こんな行動をとっていてもたれ目がちで整った顔立ちのこいつは、同級生の間では愛され系ダメ男イケメンとしての地位を築いている。


「頼みごとでもないのに、ドア開けた途端に抱きついてくるような男がいたらキモくてかなわんわ」


 そんなやついたら全力で張り倒して二度と腕を前に持ってこられないように後ろ手にグルッグルに固定してやる。この細腕で。


「えぇ~、リコちゃんが急に抱きついてきたら俺は嬉しいけどなぁ~?」


 リコちゃんはお前の彼女だろ。なんでこんなヘラヘラしたでっかいお子ちゃまにカノジョがいるんだ。


「黙れ!!キモいのは!抱きついてくるのが!お前だからだよ!」


 語気につられて乱暴になった手元がA308の扉を開ける。すたすたと奥に進み、適当な机にドサッと荷物を置いたら、家から着てきた私服を出して着替えを始めた。


「まあまあいいじゃん、俺と順一の仲デショ」


 こういう感じだから、ヘタレで温厚で引っ込み思案な僕でもこいつ相手だと言葉遣いが乱れるんだ。


「それでね順一ぃ」


 語尾を伸ばすな。お前がやっても可愛さの欠片もない。


「今日で実技試験、全部終わったじゃん?」


 幸二は僕の不機嫌をこれっぽっちも気にせずに続ける。

 確かに、歌曲も副科ピアノもソルフェージュも、履修している実技科目は今日のアリア試験で終了した。


 歌曲というのは歌の一種で、オペラの一部であるアリアとは違い、単体の詩に作曲家が音楽を付けた、それだけで独立した曲だ。連作なんてのもあるけども。アリアを劇中歌と言うなら、歌曲は詩人の詩を元にしたシングルやアルバム?みたいな?

 副科ピアノは読んでそのまま。僕らの専攻は声楽、つまり歌うことだけど、ピアノの授業も必須ってこと。

 ソルフェージュは音大ならどの専攻も課される科目で、入試でもやる。演奏された音を楽譜に書き取る聴音と、出題された楽譜をすぐに演奏する新曲視唱や初見演奏と呼ばれる、簡単に言えば音の読み書きである。


「でさ、来週は英語と、教職のがあるじゃん?」


 学期末のこの時期に幸二が僕を頼ってくる理由は想像に難くない。試験とかレポートとか、そういう勉強系絡みだ。前期の試験期間も大騒ぎで、巻き込まれた僕は自分の勉強の十倍は苦労した。


 僕らは音大生だからと演奏だけやっていれば良い訳じゃない。音楽史などの座学は言うに及ばず、英語、イタリア語などの語学に加え、コンピューター演習なんていうPCを使う授業もあるし、哲学とか経済論とかの一般科目というか基礎講義というカテゴリの授業も履修しなくては卒業できない。

 体育もある。声楽科の学生向けには、オペラに役立つようにとなんとバレエや古典舞踊の先生が来てくれるのだ。進んでやりたいかは別として。

 それに加えて幸二も僕も、中学と高校の音楽教員の免許を取得するための授業、いわゆる教職課程も取っている。学部1年生というのは音楽よりもそれ以外の授業の方が多いくらいだ。


「あるけど、英語の授業はクラスが違うし、教職のあれは持ち込み可だろ?別に僕に頼ることなんて無くない?…ってそれよりお前、他のレポート提出で採点される授業のはちゃんと出したのか?」


 英語のクラスというのは、専攻に関係なく入学直後に強制的に受けさせられたTOEICの結果によって分けられたクラスである。幸二と僕のクラスは違うので、当たり前だが試験問題も違う。頼まれようもない。


「レポートは出したよっ!リコちゃんも手伝ってくれたし、今んとこ再提出しろっていう呼び出しは…ないはず。」


 カノジョに手伝わせたんかい。目を泳がせるな。


「じゃあ問題ないだろ」


 私服を着て、さっきまで着ていたスーツをスーツ用カバーに入れる。半分に折ると手提げみたいな形状になるやつ。何て名前なんだ?


「問題大アリだろ?!その『持ち込み可』ってやつ、持ち込んで良いの『自筆のノートのみ』だぞ?!?」


 スーツ用の黒い革靴もレジ袋に入れてからトートバッグにしまう。


 ーー試験の日は大荷物になるんだよな。声楽科でこれなんだから、チューバとかコントラバスの人はどうしてるんだ?


「先生は授業中に取ったノートで構わないって言ってたじゃん。そこで気になる事柄とかを調べて補足を書き込んでおけば、それで良いだろ?」


 スニーカーの紐を結び直せば着替え完了、っと。


「だーかーらー!!…って、そうじゃないそうじゃない」


 後半はブツブツ呟きながら頭ブンブン振ってるな。水浴び後のレトリバーかな?

 すると、バッと顔を上げ、幸二がうるうるした目でこちらを見てくる。


「順一はちゃんと授業のノート取ってるってことだよな?!補足もしてあるってことだよな?!」


 頼みの内容がだいたいわかった。が、前期に大変な目に遭わされた僕はそうそう簡単に甘やかしてやらないぞ。


「補足はまだだね。この土日でやろうと思ってたから」


 今日は金曜。試験は来週の水曜。


「っっ?!じゃ、じゃあっ!補足する前でいいから貸してくれ!!順一様のノート!!」


「…自分のは?お前、わりとちゃんと出席してたよね?」


 幸二はヘラヘラしているが意外と出席だけはちゃんとしてくる。


 ーーそういえば、小中高全部で皆勤賞って自慢してたな。健康優良児かよ、ナントカは風邪引かないってやつかよ、万年半袖短パン小僧だったのか?


「俺…の、は…、何て言うかその…、自分で書いたノートの意味がわかんなかったり…?時々、寝てたり…?字が判読不能だった…り…?」


「教科書と照らし合わせればいけるんじゃない?僕のも補足前だしね、自分で頑張れよ」


「そぉぉぉんなぁぁぁ!!!助けてよ、ねえ助けてよ貴重なテノール仲間だよぉぉぉ?!ここで仲間を助けておかなかったら来年度後悔するよぉぉぉ?!」


“仲間にしますか?”

 はい

 → いいえ


「ねーえぇぇぇ、リコちゃん今年度はこの授業取ってないんだよぉぉぉ、見捨てないでよぉぉぉ」


 こいつがいるとやっぱ狭いなA308。うるさい。


「ねーぇぇ、どうして教育原論の先生はパワポじゃなくて黒板に手書きなのぉぉぉ?!パワポならあっちの生徒ナンチャラの授業の先生は学内WebにまんまPDF置いてくれたじゃん、デジタルどこよデジタル!!そんでもってどうしてこの先生は黒板の写真撮影も禁止なのぉぉぉ?!ねぇ消すのも速すぎなんだから撮らせてほしいよねぇぇ!!」


 こいつアリア歌う時より声量出てんじゃないの。


「パワポもスクショもカメラもダメだなんて、時代遅れだよねぇぇぇ!!」


 僕らが今日試験で歌ったの、200年以上前の人のだぞ。そんでもってスクショは今関係ないだろ。


「順一しか助けてくれる人いないんだよぉぉ!」


 まだ助けるって言ってないし。


「声楽科でも取ってる子何人もいるでしょ」


「ワン・ツーコンビのワンが助けてくれないツーを、誰が助けてくれるって言うのさぁぁ!!」


 自信もって言うな。


「ねぇ俺のアホさ知ってるでしょぉ?!辛うじて音楽と体育だけは得意だったけど勉強が全然ダメだから音楽科の高校行って、そこでも歌以外の科目がボロボロだったから親と一緒に担任に頼み込んで指定校推薦でここ来たんだよぉぉ?!」


 全国の音楽科高校生に謝れ!

 それから指定校推薦入学者にも謝れ!

 当てはまる人皆お前と同じだと思われたらたまったもんじゃないぞ!


「…っはぁぁぁぁぁ…」


 肺から500%ぶんの空気を吐いた気がする。


「大学では死ぬ気で勉強する、留年しない、将来のために教員免許も取るからって約束して、父ちゃんに進学許してもらったんだよぉぉ…」


 涙声で親を引き合いに出してくるなよ、あーもう。

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