第2話 試験後の控え室

 普段であれば実技を伴う大人数での授業に使われるA302教室は、今日は一年生のアリア試験の控え室になっている。試験を受ける学生が集合し、発声練習やウォーミングアップなどをしながら自分の順番を待つための部屋だ。

 発声を伴う準備を廊下や空き教室で勝手にやられたら、単純にうるさいし収集もつかなくなる上に、うっかり自分の順番が来たのに試験会場にいないなんてことになったら目も当てられないからね。大学側は学生の自律性に過度な期待をするなとでも言いたいのだろうか。

 C棟に行けば個人個人で使える練習室もあるのだが、グループごとの集合時間の後は試験会場となっているここA棟にまとめておいた方が、試験時間が予定から前後しても対処しやすいという理由もある。


 現実的な話、「他の人に練習を聞かれたくない」「本番直前はひとりきりになって集中したい」なんて甘えたことなど、この先受けるであろうコンクールでもオーディションでも通用しないのだから、さっさとこういう環境に慣れるしかないのだ。こうして音大生はメンタルを鍛えてゆく…のかもしれなくもない。


 一学年42人がひとりずつ歌っていくアリア試験。実技試験のたびにランダムに並び替えられる42人を4つのグループに分け、午前中に1グループ、昼休憩を挟んで午後に3グループといった具合に集合時間をずらされ、進行していく。

 僕は14時開始の第三グループのふたりめだった。全体で見るとちょうど折り返し地点という感じかな。先生方も「やれやれ、やっと半分か」と言いたい気分だっただろう。


 ーーああ、この教室に3時間ぶりに帰って来たような気がする。


 試験会場の出入りの時間を加味しても、ひとりあたり5分程度。どう考えても先ほど控え室を出てから30分も経っていないが、それほどにソロで挑む実技試験というのはプレッシャーとの戦いなのだ。特に学年末のアリア試験は。


 控え室の扉のノブに手を掛ける。

 これから試験に臨む不安で顔を強張らせた者も、試験を終えて解放されたような足取りの者も一緒くた。そんなカオスが広がる空間に再び足を踏み入れるためのノブの冷たさがもはや感慨深い。緊張が解けて手に温度が戻ってきたことを実感する。


 ガチャリ。


「じゅーーーんいちーーーいぃ!!やっと終わったのぉぉー!待ってたんだからぁぁぁ!!」


 この1年で慣れた手応えと重さの扉を開けた途端、可愛くもなんともない男がすごい勢いで抱きついてきた。


「おまっ、離れろよ、びびっただろ!今試験終えたばっかで疲れてんだよこっちは!!」


 手と足を使って引っぺがす。誤解しないでほしい。僕はノーマルだ。好きなのは女の子だ。音大には異性に興味がない奴が多くいるなんてとんだ風評被害だ。誤解しないでほしい。きっと割合的には総合大学と大差ないはずだ、たぶん。

 そして人の感慨も知らずぎゃあぎゃあと喧しいこいつもノーマルだ。


「えぇーー!!いいじゃん、ちゃんと試験終わるまではおとなしく待ってたんだからさぁー!!」


 全っ然かわいくない。僕より頭半分背が高いこいつがおとなしくしていても僕の帰りを待っていても1ミリもかわいくない。こいつと比べたら土佐犬の方が十万倍かわいい。


「お前午後イチのグループだっただろ、とっくに終わってんじゃないか。騒いでみんなに迷惑掛けてないでさっさと帰れ!」


 試験は歌い終えれば再度集合することはなく自由に帰っていいのだ。


「わかった!じゃあさ、着替え手伝ってあげるし荷物も持ってあげるから一緒に出よっ」


 もう一度言う。お願いだ、誤解しないでほしい。


「いらんわっっ!!自分でやる!!」


 つい僕の語気も荒くなる。僕と言えばヘタレで温厚で通っているのに。ヘタレと温厚が思わず僕を遠巻きにしている。


「ちょっと順一く~ん?私ら試験これからなんだから、そのうるさいの、早くどうにかしてくれな~い?」

「ほれみろ、お前のせいで僕まで文句言われたじゃねーか!」


 周りの子たちからの視線が刺さる。試験中の先生方から向けられる視線より刺さる。


「ワン・ツーコンビなんだから、幸二こうじの世話は順一くんの仕事でしょ~?」


 順と幸でワン・ツーコンビ。誰だ最初に言い出したヤツ!


「ほらほら~、みんなもこう言ってるじゃな~い。俺と一緒に行こ?ね、順一?」


 まったく、僕も損な役回りだね。まだまだ粘ってきそうだし、観念して話だけ聞いてやるか、話だけ。


 ーーはあ、さっきまでの張りつめた神経との落差がひどい。


「何か頼みでもあるんだろ?話だけなら聞くから、今日の打ち上げ代、僕の分お前のおごりね」


「えええぇぇ、俺たち貴重なテノール仲間でしょぉぉぉ?!」


「「「うるさい!早く出てって!!」」」


 コイツのせいでまた怒られた。


 お前を仲間認定しなくたって、同期のテノールはあと3人いるんだからな!別に僕は困らないからな!


 と腹の中で悪態をつきながら荷物をまとめてそそくさと控え室を出る。


 だってソプラノの子たちの圧がすごいんだもん!

 だってメゾソプラノの子たちの目線で凍りそうなんだもん!

 僕はヘタレで温厚で引っ込み思案な希少種テノールなのに!


 このヘラヘラお子ちゃまテノール、進藤しんどう幸二こうじのせいで!


 僕にやっと訪れた心の平穏を返せ。

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