音大生の学期末
第1話 試験直後の廊下
「…ふぅ~~」
A201と表示された扉を閉め、立ち止まって大きく長く息を吐き出した。僕の肺ってこんなに空気入ってたっけ。今頃は入れ替わりに入室していった女子学生が五分前の僕と同じように硬い表情で先生方の前にたどり着いただろう。
今日は声楽科1年生の後期試験だ。一口に後期試験と言っても、大学生の学期末試験は履修している授業の数だけある。今日の試験は、その数ある試験の中でも声楽科の学生にとっては一番の気合いの入れ所、アリア試験だった。
アリアというのは、歌で綴られた物語であるオペラの中で独唱される曲、所謂ソロ曲のことを言う。アリアだけでなく、オペラは重唱や合唱、器楽曲など多様な形態の音楽によって構成されているのだが、アリアは役の心情や性格を大いに表した聴き所のひとつで、歌い手の力量を遺憾なく発揮する個人の見せ場だ。学生であれプロであれ、オペラを歌う者は避けて通ることはできない。
僕は無意識のうちに固まっていた体を解すように首や腕を回しながら、試験会場となっている教室前の廊下に並べられた椅子にのそのそと向かう。試験で歌った曲の楽譜とお茶のペットボトルを置いていた椅子だ。試験の場には持って入れないが直前まで手元に欲しいものは、試験の間皆こうしてスタンバイ用の椅子に置いておく。扉のすぐ横の、楽譜と水筒と白いカーディガンが置いてある椅子は、今まさに試験を受けている女子学生が座っていたものだな。
「お疲れ、
そろそろ試験の順番なのだろう、同学年で友人の
「ありがと。でも正直どう歌ったかあんま覚えてないくらい緊張した…」
僕は苦笑いで返す。大学で実技に使う教室は分厚い扉が備えられているが、完全な防音ではないので廊下にいれば中の音がわりと聞こえる。自分でも破綻したとは思っていないが、普段の僕の歌を知った上で聴いていたらしい友人に「調子良さそう」と言われて、いくらかホッとした。
「花菜ちゃんは何歌うの?スザンナかツェルリーナ?」
花菜は白いブラウスに黒い膝下丈スカートで、足元は黒いパンプス。廊下で待つにはそれだけでは寒いから、深い赤色のカーディガンを羽織っている。
この大学では、学内の、それも1年生の試験では誰もドレスやタキシードは着ない。男子学生ならスーツにネクタイ、女子学生なら白いブラウスに黒いスカートというのが定番だ。学生たちは「試験スタイル」と呼んでいる。
そして男子学生は皆一様だが、女子学生には少しバリエーションがある。
スカート丈が膝下くらいで足首が見えているか、ロング丈ですっぽり覆われているか、もしくは少数のパンツスタイルか、だ。それは各自の好みではなく、試験で歌うアリアの役柄に合わせて変えるのだ。
「はずれー、私が歌うのはデスピーナちゃんだよ~」
残念、外れた。
花菜が着ていたのは膝下丈スカート。今回の試験はモーツァルトが作曲したイタリア語のオペラの中から課題曲が出ていたので、ソプラノで軽い声質の花菜が歌うなら『フィガロの結婚』に出てくる小間使いスザンナ役か、『コジ・ファン・トゥッテ』に出てくる小間使いデスピーナ役か、『ドン・ジョヴァンニ』に出てくる村娘ツェルリーナ役かの三択だったのに。3つのうち2つを言って外れるなんて。
ソプラノというのは女声の中でも音域の高い種類で、低くなるにつれてメゾソプラノ、アルト、と呼ぶ。男声は高い方から順にテノール、バリトン、バス。カウンターテノールやバスバリトン、なんて声の種類、つまり声種もある。
音域以外にも軽い・重いと表現される声質によって適した役柄に分けられる。同じソプラノでも、例えば軽快で明るい声質ならくるくると動き回る小間使い役や村娘役に、例えば重みのある落ち着いた声質なら気品ある貴族夫人役や良家のお嬢様役に。
で、だ。実際にオペラを上演するとなれば役柄に合わせて衣装を着る。小間遣い役や村娘役は膝下丈のスカートが衣装になることが多く、貴族夫人役やお嬢様役はドレスやロングスカートが衣装になることが多い。ちなみに、パンツスタイルをするのは少年役を演じるメゾソプラノやアルトの人の服装だ。
となると、アリアはオペラという物語から一部分を切り出したものなのだから、今は演技を付けずに歌うだけの試験ではあるけれども、無理のない範囲で服装も衣装に寄せましょうねということで「試験スタイル」が定着していったらしい。先輩に聞いた。
「試験スタイル」が定着する前は、学生が各々自由に服装を選んでいた頃もあるそうだ。しかし自由にさせていたところ、「アリアの役柄により適した服装で試験に臨んだ方が採点をする先生方への心証が良くなるのでは」という風潮が学生たちの間でだんだんとエスカレートして華美になり、とうとう指導教員に「試験のたびに衣装を用意するのが大変だ」と泣きつく学生が出てきた。
当然の流れだ。音大を進学先に選べる時点で裕福な家庭ばかりだと思われがちな音大生でも、学生全員が余裕のある経済状況とは限らない。奨学金の中には良い成績の維持が条件となっているものもある。衣装の用意も役柄の理解という意味で採点のうちという考えが蔓延している環境で、歌ではなく衣装を理由に成績を下げる危険を冒す真似なんて簡単にできるだろうか。でも無い袖は振れないのも事実。では自作か?今度は作業時間と裁縫技術と材料費の壁が立ちはだかり、自作という選択肢も難しい。
結局、毎回積極的に素敵な衣装を着たい一部の学生からの反発はあったものの、学生の負担と試験の在り方を協議した先生方の判断によって、どの学生にとっても無理のない「試験スタイル」へと方針が転換されたのだ。
閑話休題。
ソプラノ音域で声質も軽く、ついでに小柄な花菜はまさに小間使い役や村娘役ど真ん中だ。
「はぁ~、私が歌うアリア、この14時のグループだけでも3人も同じの選んでるんだよー。先生たち、曲が被ってなかったとしてもただでさえモーツァルトばっかり何十人も連続で聴いてたら、もう聴き飽きてるよねぇ」
そう、1年生のアリア試験は今日一日。だから先生方は課題曲であるモーツァルト作品ばかりを1学年全員分聴いて採点しなければならない。学生も必死だが、先生も大変だ。順番が遅いほど採点がなおざりになっては公平性に欠けるもんな。
「まぁ私は一番人数が多い軽めのソプラノだから、誰かと曲被らない方が稀だよね。男の子は曲被り少なそうだけど、かふった子いた?」
ため息をつきながら花菜が訊いてくる。もうじき試験なのに余裕だな。さすが前期上位。この期に及んでジタバタしても仕方がないのは事実だけど。
「いた。僕が知ってる限りじゃ何人もじゃないけど、午前グループで、前期に上位だったやつ」
思い出してつい苦い表情になってしまった。
「そっかぁ、課題曲のうちは仕方ないよね」
「そうだな」
ーーあいつらも、今日はずーっとモーツァルト祭を聴いてるのかな。先生たちと違って退席も昼寝も自由だけどな。
ふと小さな彼らを心に浮かべていたら、花菜が大きく伸びをして深呼吸をした。
「さて、私もぼちぼち集中しよっかな。終わったのに引き留めちゃってごめんね、順一くん」
「いや、全然。花菜ちゃんも頑張って。Toi, toi, toi!」
「うん、ありがと!じゃあまた夜、打ち上げでね」
お互いにトイトイトイと舞台の成功を祈る言葉をかけて、僕は一足先に控え室となっている三階の教室へと歩き出した。
ーーあいつら、花菜ちゃんの歌聞いたらまた踊るんだろうな。
花菜が歌うであろう長調の曲に合わせて楽しそうに踊る小さな友人たちを想像しながら。
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