音楽室の小人 ~ヘタレ音大生の僕には小人が見える~
飯尾 瞳子
プロローグ
試験の時にも彼らは居る
ーーあと3拍、2拍、1拍…。
最後の高音を歌いきった。
ーー大丈夫、大丈夫。破綻はしていないはず。
途中、「あっ、マズい!」と思ったところは何ヵ所かあったけれど、ピアノの後奏はまだ続いているのだから、不安な表情を見せてはいけない。なけなしの演技力を振り絞ってドヤ顔をキープする。
ピアニストが鍵盤から手をおろした気配で、僕はふっと体の力を抜き、素に戻った。
天井が高く、広めの教室。僕の背中側にはグランドピアノ、そのさらに後ろには反響板がある。そして正面には、教室の中心を僕と挟むようにして6名の先生方が座り、手元の紙にやや急いだ様子で字を書き付けている。
そんな状況だからこちらを注視している先生なんていないのだけど、僕は今一度姿勢を正し、ぺこりとお辞儀をして扉へ向かう。
とんでもないポカをやらかした覚えはなくても、師匠である渡辺先生へは本能的に視線を向けられず、できるだけ扉だけを見るようにして足を動かした。
その時、視界の端にこのピンと張りつめたような雰囲気には不似合いな、ぴょんぴょんと跳びはねたり大きく手を振ったりと緊張感の欠片もない動きをする小さな影がうつった。
ーーはぁ、あいつらはいつも通りだな。こっちは心臓が口から飛び出そうなほどドキドキしてたってのに。
もうじき1年ほどの付き合いになる手乗りサイズの彼らは、僕がどんなに緊張してこの場に臨んだかなんて一切意に介さずに、実技試験の採点をする先生方の机の上でキャッキャと学生の演奏を楽しんでいるようだ。
*
僕こと
予想通りではあったが、私立の音大というのは男子学生より女子学生の人数の方が圧倒的に多い。なんとなく肩身の狭い気持ちになるのは他の数少ない男子学生も同じらしく、入学式翌日に行われたオリエンテーションの昼休みには、自然と男子学生の半数ほどが固まっていた。もう半数?コミュニケーションが得意で、初対面の女の子集団とランチする流れに乗るスキルが備わっているんだろう。
初めて学食を利用して昼食をとってから、がやがやと騒がしいその場に居続けるのも落ち着かなかった。でも入学して2日の僕らには、昼休み後半を過ごすのに適した場所に心当たりなんてまだない。
「なぁ、練習室がどんななのか、見に行ってみん?たぶん、学生なら自由に出入りしていいエリアだろ?」
「あ、うん見たい見たい!俺のアパート音出しできないからさ、練習室重要!」
一緒にいたグループのうちのひとりがそう提案してもうひとりが乗り、他に特に案のない僕らは資料の中にあった校内案内図を見ながら練習室に向かった。
音楽大学の中には、座学の講義で使う普通の教室はもちろん、オーケストラやオペラの公演ができる大ホール、室内楽サイズの小ホール、演技やダンスの授業ができる鏡付きの教室、個人レッスンを受ける教室など、様々な教室がある。
そして、授業では使わない部屋がたくさん集まったエリアもある。練習室だ。
「あ、ここだここだ!結構部屋数あるじゃん!」
「この部屋はアップライトで、隣と…その隣もか…。こっち側はピアノがない部屋が並んで…、お、すげぇ、二台ピアノができる部屋もある!」
まだ高校生らしさが抜けない新入生たちが、扉がずらりと並んだフロアを探検気分でわいわいと歩いていく。扉には小窓が付いているから、ひとつひとつ扉を開けなくても覗けば中の部屋の様子が分かるのだ。
この日は新入生向けのオリエンテーションの日で通常の授業日ではないので、練習室エリアに上級生の姿はあまりなかった。
アップライトピアノがひとつ置かれた三畳ほどの部屋はピアノ専攻や声楽専攻のため。同じくらいの広さだが椅子と譜面台だけが置かれた部屋はおそらく弦楽器や管楽器専攻のため。グランドピアノが部屋の広さいっぱいに二台置かれた部屋も、壁側にアップライトピアノが置かれ椅子と譜面台も数個ずつある八畳ほどの部屋もあり、アンサンブルの練習もできるのだろう。マリンバやティンパニなどの打楽器が所狭しと置かれた部屋もあった。
「やっぱ部屋数で言えばアップライトピアノが置いてある個人用の練習室が一番多いな」
「鍵盤アプリがあれば、ピアノ無い部屋でも練習できるんじゃね?」
「全部のドアに貼り紙してあるのな。『譲り合って使いましょう』、『予約はできません』、『荷物だけ置いて人が不在の場合は荷物を撤去します』…、授業始まったら混むかなぁ」
一通り扉の小窓から練習室を覗いた僕らが次にする事と言えば、そう、練習室体験である。それぞれ思い思いの部屋に入ってみることにした。
練習室が並ぶC棟はキャンパス内の建物としては古い方らしく、廊下の天井に蛍光灯が点いていてもなんだか少し薄暗い。四月上旬の気温はまだ上着が手放せないほどには低くて、冷たい空気が立ち込めている。
「お邪魔しまーす…」
中に誰もいないことはわかっているが、初めての場所に足を踏み入れることに臆してか、つい小声で挨拶してしまう。
ひんやりした廊下から、少し広めでアップライトピアノが一台置いてある八畳ほどの部屋の扉をガチャリと開ける。窓のある室内の明るさに目を細目ながらそろりと顔だけ入れたところで。
サッとピアノ裏に隠れる影。
人類の敵『G』……ではない。あいつらはもっと小さいし平べったい。
ネズミ……でもない。あいつらはグレーとか茶色だろ。
まっくろ○ろすけ……でもない。廊下より室内の方が明るい。
10センチほどの大きさ。
カラフルな服と帽子。
『ててっ』と効果音でも付きそうな動き。
ちらっとしか見えなかったが、僕には確証があった。
ーーああ、ここにも彼らはいるんだな。
アウェーに感じていた大学が、一瞬で見知った場所のような空気になった気がした。
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