第二話⑤ 俺を独りにしないでくれッ!


 俺、阪上さかがみケンジはつい前に定年退職を迎えたばかりだ。


 結局、結婚しないままに定年を迎えてしまい、特にお金を使うこともなかった俺の元には、退職金と今まで溜め込んだ貯金。そしてこれからもらえる年金と、余りに余った時間があった。


「定年したら何かされるんですか?」


 部下達からこんな質問をよくされていたが、正直何も考えちゃいなかった。


 家庭も持たずに仕事一筋で生きてきた俺には、あまりやりたいことというものが思い浮かばなかったのだ。


「そーだなー。なんか新しいことでも始めてみっかな」


 適当にそんな返事をしていたが、内心では何にもやりたいこと等浮かんでこなかった。


 そうして迎えた定年。会社でお疲れ様と送り出された翌日に俺は独り、家で目を覚ました。


 ついいつもの癖で仕事に向かう時間に起きてしまったが、今日からは仕事に行かなくてもよい。


 トイレに行った後、何年ぶりかになる二度寝を俺はしてみた。しかし、思ったようには寝られなかった。


 歳を取ってくるにつれて、何故か早起きになってしまっている。


 とうの昔に引退した上司もそんなこと言っていたなと思いながら、俺は起き上がった。こうなってしまったらもう寝られない。テレビをつけて、適当な朝ご飯を用意し、流れてくるニュース番組をボーッと眺めていた。


 そう言えば働いている時の休日は何をしていたっけな。寝て起きて買い物に行き、掃除をして洗濯をして、たまに実家に帰る。それくらいしか思い出せない。


 既に両親も年上の兄弟達も亡くしている俺には、既に家族と呼べる人物はいない。実家も引き払ってしまったので、もう帰るところはこの住み慣れたマンションの一室だけだ。


 いつの間にか、お昼になっていた。どうやらボーッとテレビを見たまま物思いにふけっていたら、予想外に時間が経っていたらしい。


 歳を取ると時間の進みも早くなるとは聞いていたが、これにはびっくりだった。


 お昼ご飯を適当に作って食べ、皿洗いをして食事の全てを終える。


「…………あれ?」


 そういえば、今日は一言も言葉を発していなかった。まあ、会話する相手がいないから当然と言えば当然だ。独り言をブツブツ呟くようなタイプでもないし。


「……なに、しようか?」


 頑張って何かを喋ってみようかと思ったが、出てくるのはこんな言葉だけ。とりあえず、時間はあるんだ。何か考えていたら、やりたいことも出てくるだろう。


 そんな風に楽観的に考えていた俺は、気がつくと日が暮れており。お風呂に入って夕飯を食べ、眠くなってきたので布団に入った。


 朝は早起きになるが、夜は早寝になる。歳とは本当に不思議なものだ。


 そうして一日、二日、三日……と時間は容赦なく進んでいき、気がつくと一年が経過していた。


「……あ……えーっと」


 最近は言葉を発しない日も増えてきて、意識しないとまともに喋れなくなっていた。


 この前久しぶりに大手ショッピングモールに買い物に行ったら、レジで「袋をください」と上手く言えなくて、びっくりしたものだ。後ろで会計待ちをしていたおばさんには迷惑をかけた気がする。


 そんな生活をしていたある日、ふと、俺の心にある疑念が浮かんだ。


 このまま俺は独りで死んでいくのか……?


 未だにあまり慣れないスマートフォンにも全く着信履歴がなく、なんならメッセージすら来ていない。この一年間、ロクに誰かと接することなく生きてきてしまったのだ。


 独りで、死ぬ。そう感じた瞬間、俺は急に怖くなった。


 今までの俺なら、そんなことはなかった。仕事場に行けば誰か見知った奴がいたし、家に帰れば家族もいた。


 遂には結婚できなかった俺だが、それでも独りと思ったことはなかった。


 だが今は、強烈に独りであることを実感している。周りには誰もいない。自分以外、誰もいない。俺は今、独りぼっちだと。


 広いこの世界で、こんなにも人間がいるのに、俺は独りなんだと。


 そう思ってしまった瞬間から震えが止まらなくなり、俺は慌てて仕事で同期だった奴に連絡しようとした。「久しぶりに会わないか」と簡潔に話すつもりだったが、電話は通じなかった。


 全く使わなくなったスマートフォンの電池が切れてしまったのか、薄っぺらいこのタブレットはウンともスンとも言わなかった。


 ふざけんなよ、と俺はそれを壁に投げつけた。音を立てて壁に激突したスマートフォンの画面にヒビが入る。


 いつの間にか肩で息をしていた。震えは全身に広がっていた。こんなに怖いと思ったことはなかった。


 俺はこのまま、独りで死ぬ。誰にも看取られず、誰にも悲しまれず、独りで横たわって、土に還る? 嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だッ!!!


『……嫌ですよねぇ』


 ふと、誰かの声が聞こえた気がした。その瞬間、俺はすがるような声を上げていた。


「だ、誰だッ!? いや、この際誰でもいい! 俺を、俺を独りにしないでくれッ! 頼むッ!」


 しばらく喋っていなかった所為で上手く話せたかは解らなかったが、それでも俺は精一杯の声を上げていた。俺を独りにしないでくれるなら、幻聴でも何でもいい。


『……どうも余裕のない方ですねぇ。感情は強そうなのですが、いささか面倒くさいかもしれませんねぇ。ワタシの研究も、あともうちょっとだと言うのに……』


「な、なんでもするからッ! 俺にできることならやってやるからッ! な、なッ!?」


『……ほほう。なんでもする、ですかぁ』


 俺の返答に興味を示したのか、幻聴は面白そうな声色になった。良かった、こいつと話していられる。俺の頭の中には、そんな感情しかなかった。


『で、あれば一つ頼まれてくれませんかねぇ。ワタシ、今感情の研究をしているのですが……その中で一つ、試してみたいことがあるんですよぉ』


「な、なんだ? 試してみたいこと?」


『はい。それはぁ……感情の変異ですぅ』


 おおよそ幻聴とは思えない程に会話が成り立っているのだが、俺はそんなこと気にしていなかった。


 久しぶりの誰かとの話。それは俺にとって、本当に感極まるものだった。


『こんな話は聞いたことありませんかぁ? あんなに好きだったのに、いつしか憎くてたまらなくなる。いつもいつも大切にしていた筈が、ある日突然どうでも良くなって新しい物に飛びつく。そんな話ですよぉ』


「あ、ああ。俺にもそんな経験はあるな……」


 そう言われて思い出したのは、空手だった。


 護身用にと幼い頃からやり続け、毎日鍛錬し、そこそこのモノにはなったとは思っていたが、結局仕事が忙しくなり、いつの間にか辞めてしまった。


 あんなに毎日やっていたのに、だ。大事にしていた道着さえ、今ではどこにしまったのか覚えていない。


『そうですよねぇ。ある日突然、何かの拍子に一気に興味がなくなったり、はたまた何かに目覚めたかのようにのめり込んだり……それは一体何の感情からなのでしょうか。ワタシは気になって仕方ありません』


「ま、まあ、誰しもそういうもんなんじゃねぇか?」


 会話になっているのが嬉しく、少し余裕が出てきたところで、俺はこいつが少し変わっている奴だと思った。


『そこでぇ! 人の感情について研究しているワタシがぁ! 気になってしまったのでぇ! ……作ってみたんですよぉ、これ』


 すると突然、虚空から小瓶が現れた。びっくりしたのは言うまでもない。


 手品か奇術か、一体どんなトリックなんだと目を丸くした。


「……って、おい! こんなもんが出るってこたぁ、お前ただの幻聴じゃ……」


『……人があれこれ喋ってると言うのに、この世界の人間は幻聴幻聴って酷いですねぇ。ワタシのガラスのハートに、ヒビが入ってしまいますよォ』


「ど、どっかにいんのか、お前!?」


 誰かがいる。そう思った瞬間に怖くなり、俺は辺りを見渡した。しかし、視界には特に人間らしいものは映ってこない。


『ワタシはいますけど、そこにはいませんよぉ。ま、そんなことはどうでも良いじゃないですかぁ。それ、飲んでみでくださいなぁ。だって貴方、さっきなんでもするって言ってたじゃないですかぁ』


「そ、そりゃあ、そうだが……」


 姿は見えないが声は聞こえている。


 そんな不気味な状況に今さら気づいてしまった俺は、少し気が引けていた。


 現れた小瓶を見てみると、中には泥のような黒い液体が入っている。おおよそ飲めるものには見えない。


『飲んでくださらないなら、ワタシもどっか行っちゃいますよぉ』


「ま、待てって! こ、これ……飲めんのか?」


『飲めますよぉ。飲めないものを作る訳ないじゃないですかぁ。そんなことよりも良いんですかぁ? このまま独りで死んでいってぇ?』


 その言葉に、俺はビクンと身体が反応した。


 このまま俺は、誰にも気付かれないまま、独りで終わっていくのか……?


『どうせなら、一つやってみましょうよぉ! そーれ、イッキ、イッキ!』


「……どうせ、なら……」


 煽られたのも随分久しぶりだった。飲み会での思い出が蘇り、何だかこれを飲まなければいけないような気持ちになってくる。


 俺は一種のヤケな気持ちで、小瓶の中身を口に入れた。


 焼く前のお好み焼きのタネをそのまま飲んだような感触が喉を通った後、俺の中に強い感情が芽生えてくる。


 ――独りは嫌だ。誰にも知られないまま死んでいくのは嫌だ。みんなと一緒が良い。


 ――なら、みんなと一緒に死ねばいいじゃないか。


 ――赤信号、みんなで渡れば怖くない。だって、みんな一緒なんだから。行こう、みんなの所に。


 ――せっかくなら、なるべく人がいっぱいいるところに行こう。大勢の方が、寂しくないもんな。


 ――俺が知ってる、人がいっぱいいる所へ。


『おお、良い感じですよぉ!

 ……さあぁ、行きましょう、みんなの所に。みんなが貴方を待ってますよぉ!』


 ――そうだな。俺みたいに独りで寂しい思いをしてる奴もいるかもしれないもんな。


 ――待ってろよ。俺が今行ってやるからな。


 ――さあ、行こうか。


「ァァァアアアアアアアアアアアアッ!!!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る