第一話⑤ 憎い憎い憎い憎い
僕、
最初に学校に行きたくないと思ったのは、名前のことを弄られた時だった。女の子みたいな名前、とクラスの男子に囃し立てられ、僕は学校に行くのが嫌になった。
両親も最初は僕のことを心配し、気が向いた時で良いから、と学校に行かなくなった僕に優しくしてくれた。ご飯だってくれたし、一人で暇だろうとパソコンも買ってくれた。
しかし、僕はいつまで経っても学校に行きたいと思うようにならなかった。理由は、実家の居心地が良すぎたことが原因だと思う。
定期的に運ばれてくるご飯、そしてパソコン。時間を持てあました僕にとって最高の暇つぶしの道具だった。
動画サイトを見漁ったり、掲示板に書き込んだり……そんな生活が続き、気がつくと僕は二十歳になる歳になっていた。ロクに運動もしなかった為か、少し太ってきた気がする。
その頃からだろうか。親の言葉が変わってきたのが。
「そろそろ出てきたらどうだ。もう十分だろう?」
連日、自分の部屋の扉の向こうから、そんな声が聞こえるようになった。きっとそれはその通りなのだろう。
あれからもう十分に時間は経った。同級生達はもう大学に行ったり、下手したら働いたりしている頃だ。
親もそう言って僕を部屋から出そうとした。他のみんなは頑張っている歳なんだぞ、と。
いいや、そんなことはない。僕はそれを知っていた。ネット上にはそんな奴がいくらでもいたからだ。僕なんかはまだ二十代だったが、ネット上には四十代のニートとかも平気でいた。
そんな奴らよりも僕はまだマシだ。だって僕は若いんだから。今はまだ出て行けないけど、いくらでもやり直しはできる。まだ僕は大丈夫なんだ。
そう思って親の言葉を無視し、一人で遊びほうけていた。流石の親も息子を飢え死にさせる気はなかったらしく、ご飯は定期的に運ばれてきた。
そのままズルズルと生きていたら時は経っており、いつの間にか三十歳になった。体重もかなり増え、デブと呼べるくらいになっていた。
遂に三十路かー、なんて呑気に考えていたある日、事件が起きた。
いきなり僕の部屋の扉が破壊され、どう見てもヤクザにしか見えないお兄さん達が僕を捕まえに来たのだ。
当然、部屋でインターネットをしていただけの僕に抗う術はなく、僕は強制的に自宅から連れ出された。
「ごめんねカオルちゃん。これもあなたのためなのよ」
黒塗りの車に押し込められた時に、母さんからそんな言葉を聞いた気がした。そうして車は走り出し、車の中でヤクザのお兄さん達は簡単に説明してくれた。
両親がお金を積んで、この人たちに僕を連れ出して欲しいと依頼したこと。これから建設現場の仕事を住み込みでさせられること。しっかり一人前になったら両親の元に帰れることを聞いた。
当然、僕は憤慨した。そんな勝手なことをするな、と。しかし、ヤクザのお兄さん達には、僕程度の怒りなど通用する筈もなかった。
問答無用で殴られた。遠慮なしに蹴られた。ちゃんと更正するまでしっかり面倒みてやるよと、ニヤリと笑うお兄さん達から言われた。
やがて僕は、連れて行かれた先にあった汚いアパートの一室に通された。お風呂とトイレは共同で、中は四畳くらい。
水場はあったが、一つしかない窓には、逃げることを許さないように格子がはめ込まれていた。
そうして、僕の新たな生活が始まった。朝は郵便ポストから無理矢理詰められてグチャグチャになったあんパンと、牛乳が届けられた。これが朝食だ。
届けられてから少し経つと、今度はヤクザのお兄さん達が仕事だとやってきて、仕事場である建設現場に向かわされる。
建設現場にかり出された僕には、辛い労働が待っていた。重たい資材を運ばされたり、スコップで穴を掘らされたりした。
慣れない肉体労働はかなりしんどいものだったが、それ以上にしんどいことがあった。
それは、同じように建設現場で働いていた先輩らからのいじめだ。全員が僕の境遇を知っているみたいで、毎日のようにからかわれた。
やがてエスカレートしていき、資材を運んでる最中に転ばされたり。穴を掘っている時に上から土を入れられたり。遂には支給されるお昼のお弁当に砂を入れられたりもした。
そんな事が続いたある日、流石に我慢できなくなった僕は爆発した。
嫌がらせをしてきた相手の顔面に殴りかかり、咄嗟のことで対応できなかったそいつを馬乗りになって殴った。恨み辛みを拳に込めて、殴りに殴った。
そして反撃された。あっさりと拳を返されてひるんでしまい、そこからは逆襲を喰らった。
他の人間も呼ばれ、囲まれて殴る蹴るの暴行を受けるその様は、まさにリンチだった。
全身をズタボロにされ、動くこともできなくなった僕は、工事現場に近かった河川敷に捨てられた。ツバを吐かれ、今日の事を上に報告してやるとだけ言い残して、アイツらはいなくなった。
悔しかった。惨めだった。一念発起して挑んだというのに、この様だ。自分の不甲斐なさを噛みしめつつ、僕の中にあらゆる憎しみが生まれるのを感じた。
自分をボコったアイツらが憎い。こんな所に連れてきたあのヤクザ達が憎い。お金まで積んで僕をこんな目に遭わせた両親が憎い。そもそも僕が引きこもる原因になったクラスメイト達が憎い。憎い、憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
身体の痛みも忘れて、僕は憎悪に身をゆだねていた。
殺してやる。絶対にアイツらを皆殺しにしてやる。例えこのまま自分が死んだとしても、必ず化けて出て呪い殺してやる。
「……殺す……殺す……殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す……」
『……良い憎悪、感情だねェ。その感情は何処から湧いてきてるんだろう? 気になるなァ』
ひたすらに呪詛のような言葉を吐いていたら、不意に声がした。顔を上げる気力もなかった僕は、遂に幻聴まで聞こえるようになったのかと、内心で苦笑した。
『そんなことありませんよォ。と言うかァ、そんなことはどうでも良いのです。ほら、話してくださいよォ。貴方の憎悪は何処からァ?』
すると、幻聴はまるで僕の内心を見透かしたかのような言葉を吐いた。
最早諦めの境地に入ったのか、何もかもがどうでも良くなっていた僕は幻聴に聞かれるがまま、素直に自分の内心を吐露した。
『ふぅむふむふむ……なるほどなるほどォ! そういう原因があったんですねェ! ああすっきりしたァ! 原因がハッキリするのは、本当にすっきりする! この爽快感ッ! 病みつきですよォ!』
幻聴はハイテンションだった。なんだコイツ。ただ素直に答えただけで、なんでここまで興奮できるんだ。気持ち悪い。
『……では。この爽快感をくれた貴方に一つ提案が。全てを見返してやれるような力、欲しくないですかァ?』
いつかの漫画で見たことあるようなセリフを、幻聴は言った。
何それウケる。そんな都合の良いことがある訳がないだろ。力が欲しいかだって?
そんなもの、決まっている。
「欲し、い……」
当たり前だ。アイツらを見返してやれる力なら、いくらだって欲しい。幻聴だろうが何だろうが、寄越すんなら早く寄越せ。
「欲しい、よ……アイツらを……いや、全部滅茶苦茶にしてやれるような力が、欲しい……ッ!!!」
『……あああッ! 素晴らしいッ! なんて素晴らしい憎悪だッ!!!』
僕のその言葉に、幻聴は感極まったような声を上げた。
『こういう強烈な感情が欲しかったんだッ! これでワタシの研究も捗るに違いないッ! 早速あげようじゃないか、君が求める力をねェッ!!!』
すると、僕の目の前に黒い卵のようなものが現れた。大きさ的にはウズラの卵くらいのサイズしかないが、その黒い卵みたいな何かは、まるで煮詰められたコールタールのように濁っている。
って、おいおいちょっと待て。さっきから幻聴だと思っていたが、こういうものが現実に現れたとなればひょっとして……。
『あっ、やっと信じてくれたのかい? ワタシは幻聴なんかじゃないよォ? 話してくれたお礼もあるけど、本心から、君に協力したいと思っている、善意の第三者さァ……ささ、どうぞ。これを飲み込めば、君は力が振るえるようになるよォ。"
「…………誰か、いるのか?」
そう思って頑張って周りを見渡してみたが、人影は見当たらなかった。
側を流れる川と、風に揺れている雑草。そして倒れている僕と、目の前にある黒い卵みたいな何かだけだ。
ふと、こちらに向かってきているような足音が聞こえる。話し声も聞こえるし、どうやらさっきの奴らが戻ってきたみたいだ。
『あらあら、戻ってきちゃったねェ。どうするんだい? たぶん君、またボコボコにされるよォ? 今度は死んじゃうかもねェ』
「……ッ!」
僕は慌てて、黒い卵のような何かを隠そうと、口の中に入れる。まだ飲み込んではいないが、口の中にあるこれは、まるで泥のような舌触りだった。
やってきた奴らは、円を描くように僕を取り囲んだ。奴らは口々にいちゃもんをつけてくる。
『どうするんだい? 後は君次第さァ』
だが、奴らにこの声は聞こえていないみたいだった。難癖以外の何物でもない言葉の合間に、あの声が続けてくる。
『憎いだろう、こいつらが? さっきワタシに話してくれたこいつらへの憎しみは、こんなものだったのかいィ? 口の中のそれを飲み込めば、君は復讐できる。それは保証するよォ。何せ、それ作ったのワタシだからねェ』
「……僕、は……」
さっき抱いた憎しみがこんなものだったのかって?
そんな訳はない。僕は本気でこいつらを、ヤクザの兄さん達を、両親を、全員一人残らず殺してやりたいと思った。僕の心の中では、グツグツを憎しみが煮えたぎっている感覚が残っている。
あとは、この中に。
「……こいつを、入れるだけ……」
「ハア? こいつ何言っちゃってんの?」
首を傾げたアイツらの一人を無視して、僕は口の中のアレ飲み込んだ。ねっとりとしたお餅を飲み込むような感覚が食道を伝った後、それはお腹に到達する。
するとそれはまるで孵化したかのように広がり始め、僕は身体の内側から盛り上がっていくような感覚を覚えた。
「お、おい。こいつ、どうしたんだ?」
やがて、ビクン、ビクン、と身体が跳ね、それと同時に身体が黒く変色し、液状化していくのが解った。突然の僕の変化に、僕を囲んでいたアイツらがたじろぎ始める。
そんな中、僕は本能的に察していた。この力は憎しみを覚える程に強くなっている、と。
「……殺、す……」
既に自分の声とは思えないガラガラな声になっていたが、そんなこと僕は気にしなかった。
こいつらが憎い。あのヤクザ達が憎い。両親が憎い。クラスメイトが憎い。
憎しみを。もっと憎しみを。全てを覆い尽くすような憎しみをッ!!!
「キシャァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
そうして叫んだ僕の声は、最早人間のそれではなかった。
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