リリーヴとイーヴァ
アンダーグラウンドへと繋がる空間。
この空気の渦をすり抜ける感覚はビルから飛び降りた時と同じものだ。
赤と黒の絵の具をぶちまけたような渦巻く空間の先に見えてきたのは、壁も床も真っ白な部屋。
幟季さんから順に空間を飛び出し、その部屋の中へと降り立つ。
後ろを振り返ると、歪んだ空間が渦を巻くように閉じ、何事もなかったように部屋の白い壁だけがそこにあった。
「ふぅ、これで一段落だね。ようこそ琉斗くん我が本部リリーヴ……」
直後、
「がはっ!?」
苦しそうなうめき声と共に、ぱたぱと赤い斑点が白い床に散らばった。
何が起きたのか理解できず、赤い液体が零れ落ちた先を見れば、幟季さんの口が真っ赤に染まっている。
そう、これはつまり……。
「ととと吐血ーっ!?」
「し、幟季さん!! まさかスキルを三回以上使ったんですか!?」
「うん。狂也の時に四回目を……あ、コレ、やばい、か、も」
そう言い掛けて、幟季さんの身体がふらついた。
担いでいたギートを下ろし、そのまま前のめりに床へ倒れ込む。
顔面蒼白、白目を剥き、口から大量の血を吐き出して……。
「「し、幟季さぁぁぁぁぁん!!??」」
―――――
「いやぁーごめんごめん! 最近調子良かったからいけると思ったのよ。やっぱ調子に乗ると怖いねぇ、あはは!!」
「あははーじゃないですよ!! ここが本部じゃなかったら幟季さん本当に死んでますよ!? 自分が病弱だということを自覚してください!!」
1時間後。
ここが幟季さんの仕事部屋だと紹介された場所で交わされた第一声のやり取りがこれだ。
仕事部屋というだけあって、大きなデスクと客人用のテーブルと椅子、壁には資料らしきものが詰まった棚が並べられている。
部屋の主である幟季さんは、血色も良くなり出会った頃と変わらぬ調子で現れた。
どうやら幟季さんは身体が弱く、スキルを一日三回以上使うと吐血して倒れてしまうらしい。
珍しくはない光景らしいが、見慣れているのと心配するのは別の話だ。
決して軽くはない症状で倒れる幟季さんを詩音は本気で心配していたのだが、当の本人が反省の色なく現れるのだから怒るのも無理無いだろう。
それにしてもさっきの吐血が嘘のように健康的でピンピンしている。
こんなにすぐに治るものなのだろうか?
だが、その答えはすぐ目の前に現れた。
「ごめんごめん。でもさすがうちの先生だね。突然の吐血にもすぐに対応してくれたからほらこの通り……」
「そんなに何度も吐血されたら私のほうが持たないわよ」
幟季さんの後に続いて現れたのは一人の女性。
深く青い瞳に、赤い縁取りのメガネ。
赤いピンで纏められた艶やかな青い髪、女性らしい華奢な身体に、白衣を身に纏っている。
どこか冷たく清冽とした雰囲気が漂う端麗な女性だ。
「はいこれ。一日三回食後に飲むこと! いいわね?」
そう言って幟季さんに差し出したのは病院でよく見る薬袋だった。
幟季さんは袋を受け取り、中を確認するとあからさまに顔を歪める。
「うわー、これ苦いんだよなぁ……」
その呟きを聞いた女性は穏やかに、けれど重く、
「……イイ?」
思わず震え上がりそうな釘の刺し方にこちらまで背筋が凍ってしまった。
当の幟季さんは、肩を羽上げるとまるで新米の警官のように綺麗な敬礼を見せつける。
「よ、喜んで!! 宮(みや)先生ッッ!!」
「よろしい。じゃ、私は他の戦闘員の治療があるから」
そう言って彼女は部屋を立ち去っていった。
「ぶはぁぁぁ……」
彼女の姿が見えなくなると幟季さんは大きなため息をついた。
それほどこの組織において宮先生という女性は一目を置かれる存在なのだろう。
やれやれと渋い顔をしながら、薬袋をデスクに置くと、幟季さんは再びこちらに視線を向ける。
「さぁてと、随分遅くなっちゃったけど話をしようか? 琉斗くん」
言いながら俺と詩音が座る向かい側の椅子に腰を掛けた。
遠回りになったが、いよいよ本題に入るのだ。
彼には聞きたいことが山ほどある。
それを押さえきれず俺は身を乗り出した。
「あの……!! ギートは無事なんですか!? それにあの男……き、狂也が俺を捕まえたら組織の計画がどうのって……シャドー吸収能力って一体何なん……」
「はいはい、ストップ。順番に説明するから焦らない焦らない。まぁ、とりあえず座って?」
「あっ……す、すいません」
幟季さんにストップと手の平を向けられ、冷静さを取り戻した俺は再び椅子に腰を掛けた。
それを見た幟季さんはニコリと笑い、俺の質問に順に答え始める。
「まずギートのことだけど、明らかに狂也のスキルをくらった症状だね。でも宮先生なら三日で治しちゃうと思うよ」
宮先生……確かにあの緊急の吐血も対処してくれる技量のある人なら安心できそうだ。
ひとまずギートの無事が分かり肩の荷が下りた。
となれば、次に気掛りなのはギートの身に起きた症状だ。
「あの……狂也のスキルって何なんですか?」
狂也のスキルを受けそうになったあの時、赤い波紋とひどい頭痛がした。
幟季さんは少しの間俺に話すか迷っているようだったが、状況が状況なのだろう。
まっすぐ俺を見て話してくれた。
「そうだね。これからのことを考えると教えた方がいいかも……。狂也のスキルは"五感を狂わす能力"だ。厄介な能力だよ」
「五感を狂わせる?」
「そう、奴は"視覚"、"聴覚"、"触覚"、"嗅覚"、"味覚"の感覚を狂わせ使い物にならなくする。それには範囲があって、赤い波紋内の生き物すべての五感を狂わせるんだ。僕達が確認している範囲は最大半径五百メートル。直径一キロメートルだねぇ。怖い怖い」
確かにあの時詩音は狂也から五百メートル以上離れない限りは安心できないと言っていた。
詩音からスキルという特殊な能力があることは聞いていたけど……それにしてもずるい能力だ。
五感を狂わせるスキルなんて受けたら最後、ギートのように抵抗なんてほとんど出来なくなるだろう。
再び狂也と鉢合わせになれば捕まるのは時間の問題だ。
「そんな奴に狙われてるなんて……」
狂也に追われた経緯を思い出し、恐怖がせり上がってゾッと鳥肌が立つ。
「まぁまぁ、でもそれなりのリスクもあるらしいからね。あまりの広範囲は身体に負担をかけるみたいなんだ。それに狂わせる五感も制御できるみたいで一度狂わせる感覚を設定したらしばらくは設定を解除できないことも分かってる」
「えーっと、つまり……?」
「分かり易く言うと、例えば十メートルで"視覚"、"聴覚"を狂わせる設定にしたら、しばらくはその設定を解除できないし、新たにスキルを発動させることが出来なくなるんだ。そこを影響を受けていない人たちでボコボコにするって感じだよ。OK?」
なるほど、厄介な能力なだけあって自由自在に操れるものでもないらしい。
対処法が分かっているなら少しは気が楽になりそうだ。
「まぁ……なんとなく」
「よろしい! じゃ次の話いこうか?」
組織のリーダーだというから幟季さんは威厳のある重い感じの人かと思っていたが……。
―――なんだ? この軽さは……。
幟季さんを初めて見た時は、自分の父と勘違いしてしまうほど姿が似ていると思ったが決定的に違うのがこの性格だ。
父は威厳がありしっかり者だったが、幟季さんは軽く、陽気でヘラヘラしている。
正反対過ぎてなんだか変な感じだ……。
俺の表情を見て勘付いたのか、隣にいた詩音が小さな声で話しかけてきた。
「うちの人軽いでしょ? みんなにもっとリーダーとして威厳を持ったらどうなんだってよく言われてるのよね」
「あははは……」
確かにそれは言えてる。
幟季さんはリーダーというより、ただの陽気なお兄さんだ。
「こら、話ちゃんと聞いてる?」
「聞いてます! 聞いてます!」
幟季さんは怪訝に首を傾げたが、まっいっかとすぐに話を再開した。
「えっと、じゃ次は狂也の組織と君のスキルについて話そうか」
狂也の組織と俺のスキル。
俺が追われる羽目になった原因がここにあるのだろう。
期待と不安が入り混じる複雑な心境で幟季さんの言葉に耳を傾ける。
「彼が属している組織は"世界革命組織"名は"イーヴァ"。奴らの目的は世界の革命。今のこの世界を崩し、新しい世界を作り出そうとしてるわけだ。世界を維持しようとしている僕達リリーヴと対する関係だね」
「世界の革命って……?」
「んー、そうねぇ」
すると幟季さんはゴホンと一つ咳払い。
ズレた眼鏡を押し上げて、こちらを見下すように顔を上げると鋭く重い口調でこう言った。
『今の世界にどんな価値がある? 裏切り、暴力、殺人……こんなものが増える一方ではないか。誰かが、誰かが変えねばならないのだ。この世界を……』
「えっと……幟季さん?」
今までとはあまりに違う雰囲気の差に思わず息を飲んだ。
他人を寄せ付けない冷たく重たい雰囲気。
これが本当の幟季さんなのだろうか……?
……と思ったのもつかの間。
「……っていうのがあちらさんの言い分ね。ね、ね?似てない? 今のイーヴァの"ボス"に似てなかった? よしこれは僕の特技シリーズに追加しよう!」
「……おいコラ」
思わずこんな言葉が出るほどツッコミたくなった。
どうやらイーヴァのボスを真似たものらしいが、イライラするどころか呆れてしまう。
「まぁまぁ、漫画やアニメでよくあるじゃない? 世界を恐怖に陥れて、世の中を変えてやるー!! みたいなあれだよ。そのために奴らはあるものを使おうとしている……さぁて何でしょうか?」
「……っていきなり問題形式か。んー秘密兵器とか? ミサイルみたいな」
「あっはは!! いいねぇミサイル!! 子供らしくて」
「琉斗くんミ、ミサイルって……あっはは!!」
「子供言うな! 二人とも笑いすぎ!!」
急に問題形式にされても分かるはずなんてない。
こっちは真面目に答えたというのに、爆笑は無いだろう。
「ふぅ、ごめんごめん。でも本当にミサイルだったらまだいいかもねぇ。でも奴らが使うのはもっと厄介な代物だ。そこに琉斗くん……キミが絡んでくる」
「俺が……?」
「そう、奴らは"シャドー"を操り世界を乗っ取るつもりなんだよ」
「シャドーって……」
思い返してみれば狂也に出会った時、複数のシャドーを操っていた。
あんな化け物が現世に溢れたら世界はパニックになるだろう。
シャドーが暴れまわり、何もかも破壊されて終わりだ。
「でもね? 彼らもすべてのシャドーを操れる訳じゃない。強いシャドーにはより一層操るのに苦労するんだ。なんせ化け物だしね。イーヴァとしては強いシャドーをできるだけリスクを負うことなく手に入れたい。……そこで目を付けたのが……」
「俺のスキル……」
「そ! "シャドー吸収能力"はあらゆるシャドーを吸収し、その身にシャドーの力を宿すことができる能力。シャドーを吸収すればするほど無限に力がアップするんだ。ある意味"最強のスキル"だね。そして"君のそのものがシャドー"とも言える」
「俺自身がシャドー……」
イーヴァが俺を狙う訳が理解できた。
シャドーと違って俺は人間だ。きっと化け物よりも操るのは容易いのかもしれない。
シャドーを吸収すればするほど強くなるのなら、俺はいつか最も強いシャドーへ成り果て……
「幟季さん!! 琉斗くん自身がシャドーなんてそんな言い方……琉斗くんはシャドーじゃありません!!」
突然、詩音が幟季さんに向かって声を荒げた。
表情は険しく、引き結ぶ口元や目を見れば怒りの色が垣間見得る。
――詩音……もしかして俺のために怒ってくれてるのか?
複雑にも幟季さんの言葉を受け入れてしまった自分とは違い、詩音はハッキリと違うと否定してくれた。
他人が自分のために怒ってくれたことなんて随分久しぶりで、ジワリと嬉しさが込み上げてくる。
当の幟季さんはやってしまったと言わんばかりに頭に手をやって、俺に向かって頭を下げた。
「あー、ごめん"シャドー"はなかったね。僕は例えを間違えたようだ。……でも、イーヴァはキミを道具としか考えていないだろう。そこは覚えておいて」
「……分かった」
「…………でさぁ! ここから本題なんだけどね!」
「もう! 幟季さんっ!!」
「だってだって!! 僕シリアスな空気苦手なんだもん!!」
話題がシリアスの方向へ舵を切れば持ち前の軽さでぶち壊す。
俺も詩音も思わずガクッと肩を落とした。
このリーダー本当に軽い。何だか漫才でもやってる気分になる。
「ゴホン! えーっと、今の話を聞いたうえで琉斗くんに聞きたいことがあるんだ」
わざとらしい咳払いを一つして、幟季さんはソファーから立ち上がった。
人を包み込む優しげな笑みを携えて、ゆっくり俺に向けて手を伸ばす。
「単刀直入に言う……リリーヴに入ってみない?」
「お、俺がリリーヴに!?」
突然の組織への誘い。
まさか誘われるだなんて微塵も思っていなかった俺は目を白黒させて面食らってしまった。
「琉斗くんがリリーヴに入ってくれたら賑やかになるね! 私は大歓迎だよ!」
対して隣で座っていた詩音は手を叩いて喜んでいる。
そんな嬉しそうな笑顔見せられたら断るものも断れない。
「琉斗くんがリリーヴにいてくれたら僕達としてもイーヴァから守りやすくなる。それに彼らに対抗できる力を身に付けることだって出来ると思うんだ。どうだろう琉斗くん?」
確かに今の俺にとってイーヴァは脅威だ。
決して俺一人で立ち向かえる相手じゃない。
それにこの組織には詩音とギートもいる。
「あぁ、今すぐに決めなくても大丈夫だよ?
迷う決断だと思うから日を改めて ……」
「いえ」
幟季さんは時間を与えてくれようとしたみたいだが、もう必要ない。
今の俺の立場を考えたら、選択肢なんて無いようなものだ。
なら、答えは決まっている。
「……決めた。俺、リリーヴに入ります!」
リリーヴに入ることを宣言すれば、幟季さんと詩音から弾けるような笑みが浮かんだ。
「よかったぁぁ!! キミならそう言ってくれると思ってたよ!!」
「やったー!! 琉斗くんもこれからはリリーヴの一員だね!! 一緒に頑張ろう!!」
「ちょっ!?」
その場のテンションというやつだろうか。
隣にいた詩音は両腕を広げて俺に飛び付いてきたのだ。
それを見た幟季さんも便乗して楽しそうに俺と詩音を抱き締めてくる。
ここはアンダーグラウンドではあるが海外的な交流なんて慣れていない。
女の子とおじさんに抱きつかれるのは色々と精神的にくるものがある。
俺はすぐさま二人を引き離そうとするが、これがなかなか離れてくれないのだ。
「わかった! わかったから二人とも離れてくれー!!」
五分ほど程もがき続けると、ようやく満足したのか二人とも離れてくれた。
ここに来てからやけに疲れが溜まっていく気がする。
「さてと琉斗くんもリリーヴに入ってくれるみたいだし、今日はそろそろ帰らないと家族の人も心配するでしょ?」
「え、でも……」
確かにそろそろ帰らないと祖父母が心配するだろう。
だからといってこのまま帰ってもいいのだろうか。
そんな俺の考えを見越して幟季さんはまたニコリと笑って言った。
「大丈夫。一通り話は出来たし、また明日にしよう。じゃぁ詩音、琉斗くんを家まで送ってあげて」
「はーい!」
詩音は返事をするなり、俺の腕をガッチリ掴み、物凄い力で引っ張ってきた。
相変わらず女の子とは思えないこの力はどこからくるのだろうか。
本当に痛い。
「琉斗くん行こ?」
「痛い、痛い! 分かったから引っ張らないで! 幟季さんありがとう、また明日ーぁ!」
「はいはい、また明日ねー」
俺は詩音に半ば引きずられる形でそのまま部屋を出ていった。
――――
「霧島 琉斗……か」
部屋から出ていった少年の姿を見届けて、幟季は再びソファーに腰を掛けた。
それから大きく息を吸い込んで、
「……あー、あー! 詩音も琉斗くんもいなくなっちゃったから暇だなー! 宮先生みたいな話し相手が欲しいなー! 宮先生がいてくれたらなー! 宮先生いないかなー!宮先せ……」
「はぁ……わざとらしい。気づいてたのね。」
扉からあきれた顔でリリーヴの医師、宮が入ってきた。
お帰りーと幟季は満足気な顔で宮を出迎える。
「ホント、あなたって抜けてるようで抜けてないわね」
「ひどいなそれ……。いつから立ち聞きなんて趣味の悪いこと始めたの? だめだよーそういうことは。まぁ、座って下さいな」
幟季に促されるまま宮は向かいのソファーに腰を下ろす。
赤い眼鏡の青い瞳は真剣そのもの。
自分の心持ちとはギャップのある重い空気に幟季は困ったように苦笑を溢した。
「……似てるわね。霧島 琉斗だったかしら?顔は父に、性格は母にね」
「似てるねー。ホント性格が"源治"からじゃなくてよかったよ。あの堅物頭を説得するのは至難の技だからね。でも"源治"に似てるってことは、僕とも必然的に似てるってこと?参っちゃうなー」
いつも調子を崩さない幟季に肩を落とし、ため息をつく宮。
ずれた眼鏡を指で押し上げると再び鋭い眼差しを幟季に向ける。
「結局話さなかったわね。亡くなった彼の両親のこと」
その言葉を聞いた幟季の口元がひくりと歪んだ。
一瞬表情を曇らせたが、すぐに笑顔を取り戻す。
「一気に話してもパンクしちゃうでしょ? それにこの話をすると琉斗くんも混乱しちゃうだろうから。特に"里穂さん"の話はね」
「……確かに難しいわね」
「そういうこと! しばらくしたらまた話す予定だよ。じゃ、お茶でも入れてこようかな。宮は緑茶? 紅茶?」
「……緑茶で」
「はーい」
そう言って立ち上がり、部屋を出た幟季の背中はどこか寂しげに見える。
彼の生い立ちを知る宮は複雑そうに眉をひそめ、天井を見上げながら呟いた。
彼が報われる日はいつ来るのだろうと哀れんで……。
「ホント、苦労の絶えない人……」
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