赤と黒の世界

 


 ――なんだ? この違和感は……。



 そろそろ地面に衝突してもいい頃合いだが、ぐしゃりという潰れる感覚も痛みも、何も感じない。

 落下の最中、一瞬やわらかな空気の渦をすり抜けた感触があったが、それ以降痛みも落下に生じる風さえも感じなくなっていた。



 もしかすると、痛みを感じる間もなく死んでしまったのだろうか?

 本当に死んでしまったのなら、この先に広がる景色はきっと死後の世界なのかもしれない。

 


 湧き上がる恐怖をぐっと抑え込んで、そっと目を開けた―――



「は、ぁ……?」



 赤、赤、赤―――



 そこには真っ赤に染まった異質な空が世界を覆い尽くすように広がっていた。

 そして、その中に悠然と浮かぶ一際大きい赤い月が、強い存在感を放っている。



「赤い、空……っ!? って俺宙に浮いてる!?」



 異質な世界に圧倒される暇もなく、今度は自分の状態を理解して思考が空回りした。

 先程までは確かに地面に向かって落下していたはずなのに、今は仰向けになって空を見上げる状態でふわふわと宙に浮いている。

 と、それを認識したのもつかの間。



「ぎぃゃああああッッ!?」



 身体が急降下。驚いて悲鳴を上げたが、実際にはそれほどの高さはなく腰を打つ程度で着地した。



「イタタ……なんだここは?」



 痛みが多少後を引くが、まずは冷静に状況を確認。

 腰をさすりながら周りを見渡すと、辺りには黒く崩れかけたビルが立ち並び、その瓦礫が周辺に散らばって瓦礫の山があちらこちらに点在していた。



 人、生き物の気配はまるで感じない。

 周囲を見回しながら観察していると、はたとあることに気づいた。



「ここ……俺が飛び降りた風景に似てる?」



 どれも黒く崩れかけているため同じ物とは判断しづらいが、屋上から眺めていた景色と繋がるものがあった。

 屋上で二時間も景色と睨み合いをしていたし、見知った街なのだから気のせいということはないだろう。



 ただ赤い空と黒いビルだけが広がる、赤と黒の世界―――



 まるで世界の終末を体現しているような光景に圧倒されて恐怖で肌が粟立つ。

 この世のものとは思えない。だとすれば、やっぱりここは死後の世界だ。

 目の前に死神が現れて、“死後の世界”と聞かされれば疑いもせずに納得してしまうだろう。



 どうやらここは俺が想像していた明るく愉快な天国とは程遠い場所のようだ。

 いや、もしかすると自殺した俺は天国ではなく地獄に送られてしまったのかもしれない……。



「あーやめやめ! 憶測ばかりしてても何も変わらない! まずはここから移動してみるか……」



 どれだけ仮定を並べたところで、すべて俺の妄想で終わってしまう。

 それよりまずは情報収集。死神のお迎えがないなら自分の足で歩き回るしかない。

 周りをもう一度見直して異常がないことを確認。

 得も知れぬ異世界を歩くことに少々抵抗を感じながらも、意を決して足を踏み出す。



「あれ?」



 ふと、自分の影に目が止まった。

 何の変哲もない影。自分の姿を切り取り地面に落とされるだけの影。

 そのちょっとした違和感が気になり、怪訝に視線を落とす。



「……影が大きくなってる?」



 そう、いつの間にか影が先程よりも伸びているのだ。

 ここに辿り着いた時の影と比べると二倍近く大きくなっているように見える。

 影を生み出す光と呼べるようなものは赤い空に浮かんでいる月だけだ。

 だがその悠然と浮かぶ月にはほとんど変化は見られない。

 ならば、それ以外に光源があるはずだと周りを見回しても自分の影が大きくなるような原因は見つからなかった。



 ───異常、気味が悪い。



 途端に恐怖が腹の底から込み上げ、背筋が凍りついた。

 勝手に額から汗が流れ、動いてもいないのに息が切れる。



「は、はは……なんだよ。影が大きくなったぐらい何ともないさ。」



 恐怖を和らげるための虚勢だった。

 声に出して自分に言い聞かせれば、勇気が出るような気がして。



 だが次の瞬間、その脆弱な勇気は木端微塵に砕け散る―――



 ズズズ、と。

 自分の姿をした影が揺らめき動き出したのだ。



「ひぃっ……!?」



 理解の範疇を超える異常を前にして、情けない引きつった声が漏れる。

 驚きのあまり腰を抜かして、逃げることもできずに俺はその影に釘付けになってしまった。



 影が地面から這い出し、ボコボコと黒い泡を吹きながら徐々に形を作っていく。

 先に足らしき物が作られ、手、頭、そして最後に金色に輝く目が浮かび上がる。



『ヴゥゥゥゥ』



 気がつくと自分の何倍もある影の化け物が、矮小な自分を見下ろしていた。



「あ……ぁ……」



 いつ襲われてもおかしくない状況に、恐怖で声が出ず身体が震えて動くこともできない。



 あのズラリと生え揃った牙に食い散らかされるのだろうか?

 それともあの鋭い爪で引き裂かれるのだろうか?

 もしかするとあの巨体に踏まれて押し潰されてしまうかもしれない。



 身の毛もよだつ嫌な光景しか思い描けず、目の前の化け物を見上げることしかできなかった。

 そんな俺を嘲笑う様に化け物は時間をかけてゆっくりと俺に向けて手を振り上げる。



 どうやら俺の死は爪に引き裂かれて終わるらしい。

 俺の前に二度目の死が訪れようとしている。



 ――何なんだよ



 化け物が下す死を前にして心の中で呟いた。



 ――気がついたらこんな世界にいて、いきなり影から化け物?



 もしここが本当に死後の世界で、神様が化け物を遣わせて俺に死を与えようとしていても納得できない。



 ――あぁ、そうだ。……確かに俺は死を選んださ。



 けど、こんな意味の分からない死に方は……。

 選択の余地なく、理不尽に、一方的に殺されるのは……!!



「嫌なんだよぉぉぉぉぉぉッッ!!」



 ほんの少しの抵抗だった。

 喉が引き裂かれんばかりに絶叫して、目の前の死を否定する。

 無駄な足掻きだと分かっていた。



 ただ、耳をつんざくような“爆音”が鼓膜を叩くまでは―――



「う、おぉぉ!?」



 続いて凄まじい熱風が正面から吹き付けて、受け身が取れず無様に地面を転がる。

 目まぐるしくて何が起きなのか分からない。



 少しでも情報をかき集めようと顔を上げた途端に、今度は第二波の爆発が化け物の顔面で炸裂した。

 今度は飛ばされないように手近にある瓦礫にしがみついて爆風と熱に耐える。

 化け物を見上げれば、顔から煙を吹き出し、地響きを立てて後ろへ倒れていった。

 どうやら二発目の爆発が効いたらしい。



 気が付いたら知らない世界にいて、化け物に襲われて、今度は大爆発。

 もう何が何だか分からないことづくしで頭の回転が追いつかない。

 せめてこの状況を理解しようと周囲を見回せば、二十メートルほど離れた瓦礫の上にそれを見つけた。



「ひ、人だ!!」



 こんな異質な世界で自分以外の人が見つけられたことが嬉しくて思わず安堵の笑みが浮かぶ。



 ――これでもう大丈夫だ。

 ――あの人に事情を話せばきっとこの世界について何か分かるはず……!!



 しかし安堵したのもつかの間、それ以前に驚くことが幾つかあり、俺の顔から笑みが消える。



「お……女の子!?」



 瓦礫の上に立つその人影は自分とあまり変わらない年代の女の子だった。

 金髪のポニーテールに黒い装束を纏った少女。



 さらに気になるのは彼女の装備だ。

 銃、銃、銃――。

 肩から足まで至る所に様々な銃器がベルトで固定され、ぶら下がっている。

 肩に担いでいる大型銃器から上がる煙を見れば、先程の爆発も彼女が起こしたものだと理解できた。

 

 少女は化け物に視線を向けたまま、耳に手を当てて、誰かと話している素振りを見せている。

 距離を詰めながら耳を澄ませば、かすかに彼女の声が聞こえてきた。



「はい、空間の歪みが観測された地点で一般人を発見しました! はい……救出、開始します!」



 通信が終わったのか手を下ろし、こちらを見ると彼女は大きく手招きをして叫んだ。



「キミー!! 早くこっちに来て! “シャドー”が起き上がるわ!」



 同時に地面が揺れ始め、大きな影が俺の真上に落ちてきた。

 あの化け物が起き上がったのだ。

 

 俺は先程の恐怖を思い出して、振り返らずに真っ直ぐ少女の元へ走った。

 彼女が何者かなんて考える余裕はない。

 バクバクと早鐘を打つ胸を押さえて、無我夢中で走っていた。

 死にたくない、その一心で。



「急いで!」



 背後で化け物の咆哮が大気を震わせ、俺の恐怖を煽っていく。

 足がもつれ何度も転びそうになったが、何とか彼女の元へ駆け寄ることができた。



「なんだよ、あの化け物は!」



「説明は後でするからそこに居て!」



 そう言って彼女は化け物に向けて銃器を構えた。

 化け物も少女を警戒しているのだろうか。

 すぐに襲ってくる様子はない。

 化け物と少女が対峙し、沈黙と睨み合いが続く。



『……ナ……ィ』



 先にその沈黙を破ったのは化け物の声だった。

 まるで言葉を話しているようにも聞こえる音に思わず耳を傾けて――



 その後に続いた声に驚きのあまり息を詰まらせた。



『シニ……タク……ナ……ィ』



『ワルイノハ……アイツラナノニ……』



『オレガ……ナニヲ、シタッテイウンダ……』



『デモ、オレガ……イナクナレバ……ジーチャン……バーチャン……クルシマナイ……』



 ――これは……俺の声(心)?

 


 目の前にいる化け物が発する言葉は自分の奥深くに隠していた言葉だった。

 誰にも話さず、迷惑を掛けたくない一心で重石を抱え、ずっと隠してきた―――



 ――俺のココロ



「なんで……あいつ俺の心を……」



 その言葉を聞いて少女はこちらに目を向けた。あぁそうかと何かに納得したように頷いて。



「あのシャドーはキミの心からできたのね。……そっか、キミも苦労したんだ」



 そう言って少女は俺に優しく微笑んだ。

 化け物と向かい合う凛々しい表情はどこにもない。

 全てを見透かしているような笑顔が眩しくて、俺は逃げるように目をそらしてしまった。



 それをどう受け取ったのか、彼女はクスリと小さく笑みをこぼして、



「さてと! 早く終わらせて本部に戻らないとね! あー、耳は塞いだ方がいいよ?」



「は?」



 ガション、と。

 少女は銃器から金属を滑らせるような音を立てるとそのまま肩に担ぎ、化け物に狙いを定めて……



「いくぞー!! 発射ーっ!!」



 彼女の声と共に銃器から爆音が響き、銃口から小型のミサイルのようなものが飛び出した。

 全て狙い通り化け物へ一直線に飛んでいき、火力の高い爆発が化け物を撃つ。



「うわわわ……!!」



 目を開けていられないほどの風圧と熱風、そして爆発時の爆音が凄まじい。

 気づいたら爆風に耐えるため地面にへばりついていた。



 砂煙が消え、クリアになった視界で化け物を確認すると、全長四、五メートル程はあった化け物の頭から胸までが無くなっていた。

 残った胴体から下は液状になって溶け出し、地面にしみこんでいく。

 化け物とはいえ、あまりに悲惨な光景に少しだけ不憫に思えてしまった。

 いまいち実感は湧かないが、どうやら危機は乗り越えたらしい。



「よし、シャドー討伐完了! キミ、大丈夫?」



 彼女は大型銃器を下ろし、地面にへばりついたままの俺に手を差し出してくれた。

 理解の範疇を超えた出来事の連続に立つことすら忘れていた。

 女の子の手を握ることに少しだけ抵抗を覚えたが、相手の気を害しても悪いので、素直にその手を取った。



 なんて細くて小さな手なのだろう。

 カッと頬が熱くなり、羞恥で赤くなっていくのが分かった。



「あ、……ありが、とう」



「ふふっ、どういたしまして」



 面と向かってお礼を言うのは久しぶりでなんだか照れくさい。しかも相手は女の子だ。

 化け物を前にして死にたくないと叫んでいた俺とは違い、この子は平然と武器を手にして化け物に立ち向かっていた。

 化け物の上半身を木っ端みじんにして。



 自分と変わらないくらいの女の子がこの異質な世界で化け物と闘っているというのに、俺の無様な醜態ときたら……思い出しただけでも羞恥で穴の中に隠れたくなる。

 正直男として情けない。

 己の不甲斐なさに心底落ち込んでいると、唐突に彼女が「あっ!」と声を上げた。



「そういえば名前聞いてなかったよね。私は花澤 詩音(はなざわしおん)、詩音でいいよ。キミは?」



「……霧島 琉斗(きりしまると)」



 相手から名前を求められるなんていつ以来だろう。妙な気分だが、悪い気はしない。

 そもそも、学校で問題児扱いの俺には友達なんて言える同級生はいなかったし、人と会話なんてめったにしていなかった。

 信頼できる友人は六年前に引っ越したあいつくらいで、それ以来友達なんてできたことはない。



――そんなんだから色んな奴らに目を付けられるんだが……。



「そう、琉斗くんだね! ここじゃ危険だから私達の本部に行こ? 歩きながらキミに起きていることを説明してあげるから」



 そう言って詩音は俺の前を歩き出した。

 身体中に取り付けてある銃器がぶつかり合い、ガシャガシャと重々しい音を奏でている。

 一見重そうで機動力を失いそうな装備だが、彼女は至って平然と歩みを進めていた。

 きっと詩音にとってはこれが日常の姿なのだろう。

 普通の生活をしていれば見ることはないその異質な後姿を追って歩いていく。



「いきなりだけど"神隠し"って知ってる?」



 歩き始めてから急に出された突飛な質問がこれだった。

 確か詩音は今俺に起きている状況を説明してくれると言ったはずだが、その"神隠し"が一体何だというのだろう。

 質問に対して心当たりがあるとすれば、新聞やニュースで最近報道されている“行方不明者増加”についてだろうか。

 メディアによってはその事件を"神隠し"と称しているものも多いのだが……



「えーと……ある日突然行方不明になったりする事件のことだろ? 最悪手掛かりが掴めなくなってそのまま見つからないっていう」



「そう、それがまさに今キミに起きていることだよ」



「…………は?」



 口をあんぐり開けたまま思考が止まった。

 意味が分からない、俺があの神隠し? 

 突拍子もないワードが頭の中をグルグル回る。



「驚いた? キミのいた世界、現世って言えばいいのかな。そっちから見ればキミは"神隠し"になってるってこと。止まらないで歩いて歩いて!」



 歩くことさえ忘れて棒立ちになった背中を軽く叩かれ、再び俺と詩音の足が動き始める。

 本当だったらゆっくり状況を整理して話を聞きたいところだが、化け物が蔓延るこの世界で同じ場所に留まり続けるのは危険なのだろう。

 しぶしぶの詩音の後ろをついて行くと、それを確認した彼女は再び語り始めた。



「“神隠し”の主な原因は現世から空間の歪みを通じて現世の裏世界……この"アンダーグラウンド"に辿り着いて、帰れなくなること。空間の歪みに巻き込まれてこっちの世界に来ちゃったら手がかりは残らないし、"神隠し"って言われるのも無理ないかな」



「現世の裏世界"アンダーグラウンド"?」



「うん。朽ち果ててよく分からないかもしれないけど、そこの建物も現世と同じ物だよ。それにこの世界が位置するのはまさに現世の真下。だからアンダーグラウンドって私たちは呼んでる」



 確かにここに来て周囲を見回したとき、ビルの配置が現世と同じように思えた。

 やっぱり気のせいではなかったらしい。現世の裏世界と言われれば素直に納得してしまう。



「この"アンダーグラウンド"は現世との関わりがとても強いの。さっきキミに襲いかかった化け物"シャドー"っていうんだけど……何から生まれるか分かる?」



 俺を襲った巨大な黒い化け物“シャドー”。 思い出すだけでゾッと全身の毛が逆立った。

 そもそもこのアンダーグラウンドのことも分からないのに、化け物の正体なんて分かるはずがない。

 それでも唯一答えられるとしたら、



「……影の化け物?」



「んー、ちょっと惜しいかな」



 事実、俺の影からシャドーが現れたのだからそう答えるより他ないだろう。

 詩音は細くしなやかな指で自分の唇をなぞって、一呼吸置くと正解を口にする。



「現世の人間の"心の影"、だよ」



「“心の影”?」



 そんな形もない曖昧なものからあんな恐ろしい化け物が生まれるのだろうか? にわかには信じがたい話だ。

 しかし、このアンダーグラウンドの存在自体がすでにイレギュラーなのだから、彼女の言葉を疑うことはできない。

 シャドーという化け物が存在する以上、生まれてくる過程は必ず存在するのだから。



「心の影っていうのはいわゆる、悲しみ、怒り、恐怖、嫉妬、憎しみ……いろんな負の感情のことなの。それが混ざり合って出来る化け物がシャドーなんだよ」



 淡々とシャドーについて説明する詩音の顔はどこか悲しげに見えた。



 心の影から生まれる化け物シャドー。

 人間の醜い感情から生まれてくる化け物と理解しても、あまりいい気はしない。

 俺の影から生まれたあのシャドーは、きっと自殺まで追い込まれた俺の負の感情が生み出してしまったんだ。



「さっきのシャドーは琉斗くんの反応を見るに、キミの感情から生まれたものだよね?……もしかして自殺とか考えてなかった?」



「は? え、いや…その……」



 ドキリと一際大きく俺の心臓が波打った。ズバリ的中している。

 どうして俺が自殺を考えていたと分かるんだ? と目に見えて分かるくらいに動揺してしまった。

 

 どうしたらいいか分からない。

 どう答えたら、どう反応したらいいのか分からない。

 俺はオドオドと挙動不審で詩音から目をそらしていた。

 口に出さずともきっとこれが答えになっていただろう。



「やっぱりね」



 俺の様子を見てゆるりと口端を上げた詩音は肯定と受け取っていた。

 

 自殺を考えていたことを会ったばかりの女の子に知られてしまった。 それが何だか気まずくて、視線を下に落としたまま彼女と目を合わすことができない。

 それでも詩音は俺から目を離そうとはせず、こちらの顔を覗き込むように無理やり目線を合わせてきた。



「シャドーはね、心の影が大きければ大きいほどそれに応じて巨大になるの。死まで追い込まれているほどなら尚更、ね?」



「……ッ!」



 その言葉で、どうして彼女が俺の自殺未遂を見抜いたのか理解した。

 シャドーは心の影から生まれるもの。ならそのシャドーを見れば、その人物がどれだけ追い込まれているのかが分かる。

 

 彼女はきっと今までいろんなシャドーを見てきたのだろう。

 だからこそ分かるんだ。

 俺の中に渦巻く心の影が……。



 確かに俺は死のうとしていた。

 あの大きなシャドーを生み出してしまうくらい追い詰められて。

 もう誰にも迷惑を掛けたくなかったんだ。

 けど、それでも……心のどこかでは死という選択を拒みたかった。



――どうして俺が死ななくちゃいけないんだ?

――おかしいのは俺の周りにいる奴らだ!

――俺が死ぬ必要なんてない!



 叫んでやりたかった。心の内に秘めていたこのわずかな抵抗を。

 あのシャドーは確かに俺の心の声を叫んでいた。

 あれはまさに俺の心そのものだったんだ。



「死んじゃだめだよ? 無くしていい命なんてこの世のどこにも有りはしないんだから」



 優しい声色で、彼女はゆるりと微笑んだ。

 その言葉と笑顔を見た瞬間、追い詰められていた心の重荷が軽くなった気がした。

 こんな言葉を俺はずっと待っていたのかもしれない。

 


 目が熱い。視界がぼやける。

 涙を見せるのが恥ずかしくて、とっさに腕で涙を拭った。



「な、なんで俺なんかに……」



「んー、私の仕事っていうのもあるんだけど……琉斗くんが私に似てるから、かな?」



――俺に似てる……? それに仕事って……?



 そういえば詩音の正体について名前以外は何も知らない。

 出会ったばかりでまだ他人同然だというのに、もう少し彼女のことが知りたくて気付いたら言葉が先に飛び出していた。



「あ…あの……!」



「あっ、ちょっと待ってね。はーい、こちら詩音。どうかした?」



 意を決して詩音の正体を尋ねようとしたが、彼女の腕に取り付けてある通信機らしきものからピピッっと音が鳴った。

 恐らく仲間からの通信だろう。



 ――どうして俺はいつも間が悪いんだ……。



『おぉ詩音か! よかった出てくれて!』



 僅かに音声が聞こえる。この声色は男の人だろうか。



『それがよ……。わりぃ! シャドー逃がした!!』



「えぇっ!? もぉー何してるのー!!早く追いかけて討伐して!!」



『今バイクで追ってる! それでシャドーの現在地を考えると俺よりも詩音の方が近い。出来ればそのまま倒してくれ! すぐ行くからよ!』



「はぁ、了解ー」



 詩音は通信を切り、大きくため息をつきながら俺の方に顔を向けた。



「あはは、えーっと、その……うちの間抜けな人がシャドー逃がしちゃったみたいで……。で、でも大丈夫!! 私が絶対倒してみせるから!! けど、一応琉斗くんも用心して……」



 その時だった。

 詩音の背後に大きな影が覆い被さったのは―――



「……っ!?」



 いつの間にこんなに近くにいたのだろう。

 先ほどのシャドーと似ているが速さが桁違いだ。

 


 巨大な鋭い牙が彼女に襲いかかろうとしている。

 そして、詩音はまだシャドーの存在に気付いていない―――



「危ないっ!!」

「きゃっ!? 琉斗く……」



 俺は何をしているのだろうか。

 身体が無意識のうちに詩音を押し退け、彼女を守るようにして両腕を広げていた。



「どうして!? ダメ!! 琉斗くん!!」



 背中から俺を心配する詩音の声がする。

 先程までは、死にたくないとあんなに叫んでいたのに。



 どうして俺は死に急ぐようなことをしてしまったのだろう。

 まぁ、いいか。

 飛び降り自殺より女の子を守って死ぬほうが何倍もマシな気がする。

 折角こんな俺なんかのためにいい言葉を掛けてもらったのに……。



「ごめん……詩音」



 牙をむき出しにして襲い掛かるシャドーが怖くなり、固く目を閉じた。

 これから来る痛みと恐怖に耐えられるように―――















「……ん?」



 一向にシャドーの攻撃が来ない。

 あのスピードなら吹っ飛ばれても、身体を食い千切られても、おかしくないはずだ。

 


 恐る恐るゆっくり目を開いた。

 しかし、眼前にいたはずのシャドーの姿がない。



「……は、え?」



 気が抜けて間抜けな声が出た。

 確かに巨大なシャドーが詩音に襲いかかろうとしていたはずなのに……。

 


 もしかしたら詩音が何かしたのかもしれないと振り向いたが、詩音は座り込んだまま呆然と俺を見ている。

 いや、呆然と言うのは少し語弊があるかもしれない。

 少し怯えているように見えるのだ。

 まるで信じられないものを見たと言いたげに……。



「琉斗くん?……今、何をしたの?」



「……え?」



 思い掛けない言葉に思わずキョトンとしてしまった。

 俺が何かしたのか? 

 いや思い当たるようなことは何もしていない。



「今シャドーが……」



 詩音が何かを言いかけたが、突如バイクのエンジン音が割り込み話が途切れてしまった。

 先ほど詩音と連絡をとっていた仲間だろうか?



 バイクは俺たちの前に止まり、一人の男がバイクから降りてくる。

 詩音と同じ黒い服、オレンジ掛かった茶髪に、額に黒いバンダナをした背の高い男だ。



「よぉ、詩音! もうシャドーを倒したのか? 流石だな! お、一般人も回収できたのか」



「……ど、ども」



 三白眼の鋭い視線とかち合って、ドギマギと拙い返事をする。

 詩音の仲間なら悪い人ではないと思うが、ガタイのいい体つきと少し鋭い視線に物怖じしてしまった。



「つーか詩音……なんでそんなとこに座ってんだ?」



「え? あ……何でもないの! ちょっとびっくりしただけで……あははは」



 詩音は苦笑しながら立ち上がり、服についた砂埃を払った。

 チラチラと詩音が俺に視線を向けるのが気になるが、どうやらケガはないらしい。

 一時はどうなることかと思ったが、ひとまず二人とも無事でよかった。



「手間を取らせて悪かったな。お詫びにおまえ等を本部まで送ってくよ。……ん?」



 すると、男が再び俺に目を留めた。

 正確には俺の制服を見ているようだ。



「その制服……お前もしかして桜花高校の生徒か?」



「そうだけど……」



 どうしてこの人は桜花高校を知っているんだろう?

 もしかして、俺が住んでいる地域のことを知っているんだろうか?

 数々の疑問が浮かんだが、素直に桜花高校のものだと答えると、男の顔がパッと明るくなった。



「やっぱそうだよな! しかも2年生だろ! 制服が同じだから……」



「ギート!! ダメよ!!」



 ギートと呼ばれた男の話を詩音が慌てた様子で遮った。

 あまりに大きな声だったため、ギートも俺も驚いて肩が跳ね上がる。

 彼が何か変なことでも言ったのだろうか?

 ただ、高校の話をしただけなのに……。



「悪い悪い、さぁ先を急ぐぞ!本部へ行けばお前も現世に帰れるからな!」



「ほ……本当か!?」



 一番深刻だと思っていた問題は、思ったより簡単に解決できるものだったらしい。

 てっきりアンダーグラウンドでサバイバル生活をしなくてはいけないのかと真剣に考えていたため、深刻に考えていたことが無性に恥ずかしくなってきた。

 今日は何から何まで恥ずかしい……。

 本部へ送ってくれるというギートのバイクは二人しか乗れないため、詩音は後から歩いてくることになった。



「私が着く頃にはもう現世に帰ってるかもしれないからここでお別れするね。絶対に命を粗末にしちゃだめだよ?」



「あぁ、分かってる」



「本当に?」



 自殺未遂、そして詩音を守るために身を投げ出した経緯を考えたら俺の返答は説得力の欠片もなかっただろう。

 それがおかしくて、二人で顔を見合わせて笑った。

 心から笑ったのは久しぶりだ。これも全部、詩音が俺に優しい言葉をくれたおかげだろう。



 ――もう一度、もう少しだけ、前を向けそうな気がする。



「ありがとう詩音。この恩は絶対に忘れない」



「うん、またね琉斗くん」



「挨拶は終わりだな。じゃ行くぞ」



 ギートがバイクのエンジン音をふかして出発した。

 この世界に来て危険な目にたくさん遭ったはずなのに、これから現世に帰るのがなんだか寂しい。

 本当は良くないのかもしれないけど……。

 また彼女に会えるといいな……。













 そしてそれは現実になる。

 アンダーグラウンドに着いた瞬間から俺の日常は壊れ始めていたのだろう。

 ここに来てから全て"見られていた"ことにも気づいていない俺は、これから起こり始める危機の数々をただ何も知らずにいた。




――――――




 崩れかけた黒いビルの屋上。



 一人の青年が走り去っていく一台のバイクを見つめている。

 空色のニット帽を深くかぶり、青色のパーカーを来た白髪の青年だ。



「オイオイ、今の見たかよォ……なァ?」



 背後に向かって問いかけるが、そこには誰もいない。

 ただ、無数の蠢く影が彼の言葉に答えている。

 


 浮かび上がるのは金色の丸い瞳。鋭い牙と爪を持つ黒い影の化け物、シャドー。

 人を見ればたちまち襲いかかるはずのシャドーも、目の前の青年には手を出そうとしない。

 手懐けているのだ。

 この恐ろしい化け物を。



「あいつ等に一般人の回収を横取りされちまったと思ったがァ……その代わりにいいモンを見せてもらったぜ!!……やっと、 やっとだ!! これであのクソ面倒くせェ実験もしなくて済む!! あいつ等との長い戦いもこれで決着が着くんだァ!!」



 青年はシャドーに語り掛けながら、楽しそうにクルクルと回って赤い空を見上げた。

 シャドーと同じ金色の目を光らせて―――



「待ってろよターゲット!! 必ず!! 必ずお前を迎えに行くからなァ!!」

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