幸福を知っていた
木村
幸福を知っていた
「どこにいくの、
百貨店に向かって歩いていた僕の耳に、彼女の『その問い』が潜り込んできた。咄嗟に振り返った僕の胸に誰かがぶつかる。
「いて……ん? なんすか?」
「……いえ……」
それは、――彼女ではなかった。
僕が無言で軽く頭を下げると、その人は不審そうに僕をじろじろと見ながら立ち去った。
そうだ。『普通の人』は急に振り向いたりしない。そして誰かとぶつかってもすぐに歩き出すものだ。なのに僕の心臓は太鼓みたいにうるさく、僕の脚は震えるばかりで動かない。雑踏は僕を避けて通りすぎていく。流れていく水のようにしなやかに僕以外の『普通の人』は『普通の道』を歩いていく。
「久遠の帰る場所はここでしょ?」
彼女の声が聞こえる。あのとき、――僕が児童養護施設を出ていったときの声が、幻聴となって押し寄せてくる。
「おいてかないで」
吐き気にその場にうずくまった。荒く息をつき、目を閉じる。僕は一歩も動いていないのに景色は動き続ける。
雑踏は進んでいく、僕だけを残して。
◆
待ち合わせ先のレストランは銀座の一等地の高い高いビルの一番上にあった。
皺のない服を着たウエイトレスに友人の名前を告げると、ウエイトレスはにこやかに微笑んで、僕を一番奥の個室に案内してくれた。そこには僕の友人が座っていた。彼、――
「俺を待たせるのはお前ぐらいだ」
百貨店で買った茶菓子を差し出すと、彼は片方の眉をあげて、友人に気を遣われるのは不愉快だと言った。高校を卒業して以来、五年振りに会ったというのに、彼の変わらないその物言いは僕を安心させた。
「白昼夢を見たんだ。それで遅くなった」
またかと彼は笑った。
「変わらないな、
「ウン、僕は大人になれないままさ。潔癖にして鉄壁の童貞」
「二十を過ぎてもその思想か。で、何を飲む?」
僕は自分の腕時計を指し示す。まだ昼の二時を過ぎたばかりだ。彼はつまらなそうにため息を吐く。
「常識人め、マア、いい……俺は飯食ってきたがお前は何か食うか?」
「いらない。珈琲でいい」
「顔色が悪い。どうせまともに食ってないんだろ、貧乏人。奢ってやるから好きに頼め」
「そんな言い方……」
彼はクツクツと笑い、呼び鈴を鳴らす。それは美しく高い音をしていた。
現れたウエイトレスに、彼は僕のために看板メニューのオムライスとメロンソーダを頼み、自分には珈琲と灰皿の替えを頼む。訓練されたウエイトレスは微笑みを崩すことなく彼の注文を聞き、替えの灰皿をサーブし、吸い殻が山になった灰皿を片手に立ち去った。
かなり待たせてしまっていたらしい。ごめんと謝ると、構わないと彼は笑った。
「五年ぶりだな、柳。『約束通り』俺に手を貸せ」
「『約束通り』なら僕は君に手を貸さないよ」
「なら……証明しろ」
「見ての通り僕は元気だ。QED」
彼は唇を人差し指で叩く。
吸っていいよと煙草を指差したが、彼は首を横に振る。彼はしばらく黙った後、口を開いた。
「……柳、本当に『約束通り』か?」
『約束』
――絶海が詰め襟姿になり、高級レストランから夕暮れ時の高校に場がうつった。それはつまりいつもの白昼夢だ。
◆
高校最後の日。
卒業式の後、僕たちは教室に居座った。傷だらけの机と椅子を並べて二人で夕焼けを見ていた。赤と橙と紫に染まった空が、教室が、彼の横顔がとても美しく、穏やかな時間だった。
「柳、この先何するか決まったのか?」
けれど不意の彼の問いにその穏やかさは消えてしまう。僕の心に波が生まれる。空は夕焼けを忘れ、夜に染まり始める。
「あてはあるのか?」
施設を出て入った高校、なんとか卒業はできた。けれど三年前と変わらず金も学もないままの僕。どこへ進めばいいのかどころか、どこに進めるのかもわからない。
そんな、何にもなれない僕に彼は手を差しのべてくれた。
「だったら俺のところに来ないか? ……お前なら歓迎する。腕っぷしもあって頭も切れるから、……世間に誇れる仕事じゃないが、……俺とやるんだ。きっと楽しい。悪くない話だろう?」
彼は言葉を選びながら、ゆっくり話した。それは獣が獲物を狙うときのようだったが、彼がそういう屈折した優しさを持つ男であることを友人である僕はよく知っていた。だから首を横に振った。
「友達の厄介になるのは気を遣うよ」
「厄介ではない。お前のすること全て俺にとって一つとして迷惑ではない」
「そんな期待してもらっても困る」
「期待? そんなんじゃない。俺は……」
「君には頼らない。僕は僕でちゃんとやるさ」
彼は僕の強がりを見抜いた上で差し出した手を下ろしてくれた。
「お前は俺の友人だ。お前の選択に敬意を払おう。そうだな、……五年は逃がしてやる」
「五年?」
絶海がクツクツと笑った。
「また会うときに、俺に自慢できるような生き方をしていろ。いいな、柳。それができてなけりゃお前は俺が使う。『約束』だぞ」
詰め襟姿の彼の姿が蜃気楼のように揺らぎ、今の絶海が姿をあらわす。
――夢が終わり、ここは今だ。
◆
絶海は不審そうに眉間に皺を寄せて僕を見ていた。僕は会釈のような謝罪のような、何にもならない感情を込めて頭を下げた。彼は鼻に皺を寄せる。
「呆れた。また夢見てたのか? お前、気を抜くと夢から帰ってこなそうだな」
「……そうかもね」
「馬鹿が。ちゃんと今を生きろ」
あれから五年経った。
「絶海はちゃんとヤクザになったんだね」
「ちゃんとって……マア、そうだな。ちゃんとヤクザだ。あの頃とは違う」
僕たちが詰め襟を着ていた頃を、絶海は懐かしむように目を細める。
「あの頃の君は組長の息子で、番長で、強くて、頭がよくて、……みんな君が好きで、だけど君の隣に立てる人は一人もいなかった」
「お前は施設から出たばかりで、頭はいいのに学も金もないせいであんな底辺高に入る羽目になった。なのに最後まで腐らず、妙なところで平和主義者……高潔なユニコーン」
あの頃の自分は彼の目を通して見るとそうなるのだろう。
「絶海は、頭いいのにどうしてあの高校を選んだの?」
「裏切らない仲間が欲しかったからだ。学があると裏切るからな。おかげで俺は今、忠犬たちに守られている」
「忠犬なんて言い方……」
彼はスマホを取り出すと、懐かしい面々の写真を見せてくれた。みんなちゃんとヤクザになっていた。
「自分を受け入れるってことだ。あいつらは犬に向いていて俺は飼い主に向いている」
彼の左手が僕の右手をとらえる。その目は卒業式と同じ、獲物を狙う獣の目だ。
「……僕も君の犬に向いていると?」
「いや、お前はヤクザに向いている」
自分でもそう思いながら僕は首を横に振った。
「ならないよ。僕、ローン組んで白い家を建てて白い犬飼ってかわいい奥さんと住むんだ。幸福ってそういうものだろ」
僕の言葉に彼は眉を下げた。
「お前はまだ『普通』になりたいのか?」
まだ、という言葉が癇に触った。
「僕は『普通』だ。卒業してから一回も喧嘩していない。だから、君の期待には応えられない」
「ほう? ……それで『普通』?」
「そうだよ、『普通』だ! 確かに、僕は捨て子だ。施設育ちで学もない。でも毎日頑張ってる。頑張って働いてお金貯めて、この間バイクだって買ったんだ。だからもう僕は『普通』のフリーターだよ」
絶海が微笑む。子どもを見るように微笑む。
「それが『普通』?」
「そうだよ! 誰が好き好んでヤクザなんて馬鹿な仕事をやるんだ。くだらない。馬鹿の極みだよ。僕の幸福は、今の日常なんだ。君なんかと関わるのは今日で最後だ。僕は、『普通』なんだから!」
「……それで?」
これだけ言えば少しは苛立つかと思ったのに、彼は楽しそうに笑みを深めた。虚をつかれ僕は少し動揺した。
「……それでって……何が?」
「それでこの五年、何をしていた?」
彼は微笑む。僕が今現在『自慢できる生き方』をしていることを証明しろ、とその笑みは言っていた。
自分の喉がヒューと鳴る。背中が冷や汗を流している。
「バイトしてんだって! この間バイク買って……それで、……」
「それで? 楽しいか?」
「楽しいよ……」
これは嘘だと僕も彼も気がついていた。彼はにやにやと笑う。
「柳、だったらもっと楽しそうに話せ。仲のいい人間はいるか? バイク買ってどうした? ツーリングしてるのか?」
「……なんで、そんなこと聞くの」
「お前は人が好きだろ。お前の幸福は孤独では手に入らない。そうだろ?」
「僕は……、誰も好きじゃない。そんなの僕の幸福じゃない……僕は誰も好きになったりしない!」
「ほう? なら何がお前の幸福だ? 自慢しろよ。聞かせてくれ。どんな奥さんのためにどんな白い家を建てたいんだ? 白い犬ってどんな犬だ?」
「……だ、だから、僕は……」
「だからだからと駄々をこねてお前の幸福の実像はどこにある?」
「実像……」
僕が答える前にタイミングよくウエイトレスがやってきてオムライスとメロンソーダを僕にサーブした。でも僕はそれを見る余裕はなかったし、絶海は珈琲には目もくれず僕の手も離さない。そんな奇妙な僕たちを目の当たりにしても、彼女は訓練されたウエイトレスだったから「ご用がありましたら呼び鈴を鳴らしてくださいませ」と笑顔で去っていった。
目の前のオムライスはあたたかそうで、とても美しい黄色をしている。
――彼女が作ってくれたオムライスとは大違いだ。あれはひどく焦げていた。でも、あれが世界で一番美味しいものだった。
◆
「くおん、たべなくていいってば!」
懐かしい声に目をあげる。
そこは児童養護施設の食堂だった。また過去だ、また夢に僕は逃げている。目の前には焦げたオムライス、隣には『彼女』がいた。僕の幼馴染み、同じ施設で育った、僕と同じ親知らずの同い年の捨て子。
過去の幻影が話し出す。
「だんなさんにそんなのたべさせるなんておくさんしっかくなっちゃう!」
彼女がそう泣くから僕はそのオムライスを食べた。ジャリジャリと音がするほどの砂糖が入っているのに、それでもとても美味しく感じる。
「おいしい。ありがとう、なぎちゃん。大好きだよ」
その頃の僕にとって全てだった初恋の彼女は、僕の言葉に笑う。そのかわいい笑顔に手を伸ばすと、彼女の顔は泣き顔になった。
「久遠、出ていくって本当?」
これは、最後に見た彼女だ。幼さが消えた彼女が僕の手に頬をすりよせて、泣く。
「久遠、なんで私を捨てるの?」
生唾を飲み下し、彼女の涙をぬぐう。
「僕は……君を傷つけたくないんだ」
「なら、ここにいて」
「僕は、……僕は、君の期待に応えられない!」
「どうして?」
「だって、僕は……」
――十二歳になったときに、ある先生から僕は僕の親のことを教わった。
君の父親も母親も暴力を振るって塀の向こうにいる。君はそういう血。暴力は遺伝する。だから君もそうなる、と先生は繰り返した。他の先生が慌てた顔で止めにはいるまで繰り返した。
『君はいつか化け物になる』
その先生は養護施設を辞めた。病んでいたと後で聞いた。だから気にしなくていいと皆、慰めてくれた。
しかし、先生の言葉は僕の中に種となって埋まった。それは少しずつ根をはり、芽吹き、――十五のときに初めて白昼夢を見た。僕は大好きな彼女を殴っていた。泣いている彼女を僕は殴って、――僕は、だからこの家にはもう帰れなかった。
「僕は君が好きだ。君は僕の全部だ」
「ならどうして?」
記憶の通り、彼女が泣く。
「どこにいくの、久遠」
「僕は、……」
「久遠の帰る場所はここでしょ」
「……僕は、君を守りたいんだ……」
「おいていかないで」
「やめてくれ! こんな化け物を好きになるな! 僕は好きな人を傷つける! 僕は、……もう誰も好きにならない!」
――パン、と高い音がした。
◆
「目が覚めたか、ユニコーン。つまらない生き方をしているから脳みそが現実逃避をするんだ」
絶海が僕の右手をつかんだまま、微笑む。
「絶海、……利き手どっちだっけ?」
「両利きだ」
道理で彼の右手で殴られた頬が痛いわけだ。睨み付けても彼は笑うだけだった。
「夢見てないでオムライスを食え。メロンソーダを飲め。そしてヤクザをやれ」
「……嫌だよ」
「何故?」
「ヤクザは人を傷つける仕事だろう」
「それの何が嫌なんだ? ……人を殴るの好きなくせに」
彼の随分な物言いに僕はむせた。彼は僕の醜態を面白がるように眺める。
「何故お前はお前のことを認めない? 喧嘩好きだろう?」
「……そんなの好きじゃない。僕はだれも傷つけたくない。僕は『普通』……『普通』に幸せに……」
――勉強をうんとして、奨学金で大学を出るのよ。公務員になるのよ。そうして私の家に帰ってくるの。白い家を建ててね。白い犬を飼ってね。そうしてかわいい赤ちゃんをたくさん育てるの。それが私たちの幸福だよ、久遠。
彼女のそんな言葉に笑顔で頷いていた頃は、こんな風に悩むことになるなんて考えてもいなかった。でも今は違う。
僕は、……僕の中に産まれた悪魔のような考えがとうに自分の物になっていることを本当はわかっている。それでも僕は目をそらす。
「僕は『普通』だ。君とは違うんだ」
僕は必死に嘘をついた。口にする度に唇が乾く嘘をついた。そんな僕を見て、無理をするな、と彼は困ったように眉を下げる。それはあまりにも優しくて残酷な言葉だった。
「いい加減諦めろ。お前は堅気には馴染めない。バイトだってどんだけもった? どうせすぐ首になったんだろ?」
「……最長、三週間……」
短いな、と彼は苦笑する。
「いいか、柳。お前の持つ暴力性はこの社会にあってはならない悪だ。そして、それは治らない」
「違う。違う。違う……」
「お前は暴力からは逃げられない。わかっているだろう? お前はそれしか楽しくないんだ。この五年、喧嘩をやめて、……楽しかったことなかったんだろ?」
彼の言葉を聞いて、その通りだとわかった。わかってしまった。そうでなければいいとどれだけ願っても、僕は暴力の近くでしか息ができない化け物だ。
そんな生き物生きている価値はない。そうだ。僕に、生きる資格はない。だって僕は最低最悪の人間だ。
僕が泣くのをこらえていると、絶海は笑った。仕方なさそうに微笑んだ。
「たしかにお前は救われない悪人だ。……でも友人がいるだろう」
「……友人?」
「俺だ。俺がお前を助けてやる」
彼は僕の手を握っている。決して離してはくれなかった。それは地獄に垂らされた蜘蛛の糸のようだ。都合よく僕を救ってくれる神様みたいだ。
「世界中がお前を化け物と蔑んでも、お前が生きることを俺が認めてやる」
彼の言葉は僕が必死に建てたバリケードを突き破って、僕の心に突き刺さった。剥き出しの心臓をつかまれたみたいだった。歯が震え、目から勝手に涙が落ちていく。
「だめ、だよ、絶海……助けないでよ、……僕は……、どうしようもない……」
「自分をそう蔑むな。もっとクズらしく開き直れ」
「できない、そんなこと。僕は生きてちゃいけない。だから、……ごめん、……約束は守れない」
僕の懺悔に、絶海が、は、と息を吐いた。
「『生きていちゃいけない』? それが……、この五年で出した結論か?」
僕が頷くと、彼は僕を平手打ちにした。それでも彼は手を離してくれなかった。
「離せよ。もういいだろ……もうわかったろ! 僕はもう、いいんだ!」
「何もよくねえよ」
平手した右手で彼は僕の頬を撫でた。熱を孕んだ頬に彼の手は冷たい。
「死ぬなら、なんでここに来たんだ? 約束を守れないならなんで俺に会いに来た?」
「……守れないなら直接会って詫びるのが誠意だ」
「そんなこと気にするなら、なんで俺の前で自殺するなんて言うんだ。俺が、友人が自殺するなんて聞いたらどう思うか、少しも、考えられないのか?」
『友人』
――不意に視界が歪む。
また、夢だ、――過去の幻影。
◆
入学式のときだ。
先輩たちが彼を囲んだ。理由は、目が気に入らないだとかそんなくだらないこと。それでそんな自殺行為を選んだのかと今なら皆思うだろうが、当時は彼がヤクザの子どもであることをまだ誰も知らなかった。囲まれた彼はぐるりと彼らの顔を見て微笑んだ。
「ガキしかいねえな」
明らかに多勢に無勢なのに先に喧嘩を売ったのは彼だった。あっという間に喧嘩が始まる。血。歓声。誰も止めることなく、殴り合いが始まった。
――ここには鬼しかいないのか。
僕の理性はそう思うのに、体は妙に熱を帯びる。どうしよう、止めないと、止めるってどうやって? 先生だって遠巻きに見ているこの場所でいったい何が正解なのか。生唾をのみこんだとき彼と目が合った。
「お前も参加するか?」
助けを求める目ではなく、何もかも食ってやるという獣の目。その奥に僕の同じ化け物が見えた。
――僕は、彼は、同類だ。
気が付いたら僕は絶海を羽交い締めにしていたやつの頭を殴っていた。骨を伝う衝撃。僕の拳で人が倒れる。その光景にぞくぞくと腹に走る。今まで感じたことがないそれは、間違いなく喜びだった。
「やるな、お前。……ウン、面白い」
恐ろしい感覚に震えている僕の腕を絶海がつかみ、走り出した。背後の罵声が聞こえなくなるまで僕たちは走った。
彼は駅まで走ると「鈍間め」と笑いながら振り向いた。しかし彼は僕の顔を見て、驚いたのか目を丸くした。
「は? お前なんで泣いてんだよ? 骨でも折れたか?」
「……僕、……」
「ウン?」
「人を、殴ってしまった、……もう……僕、……普通になれない……」
「……なんだそれ」
彼は僕に拳を差し出した。
「絶海だ」
「……何?」
「俺の名前。お前は?」
「僕は……柳久遠。柳って呼んで」
「柳か。……柳、助かった。お前のおかげで死なずにすんだ」
「……なら、よかった」
震える拳を合わせて、あのとき僕たちは友人になった。
◆
――絶海が僕を見ていた。あのときのように彼は苦笑していた。
「今度はいつの夢を見てた?」
「……僕が死んだら、君は悲しいの?」
どうだろうなと彼は笑った。嘘つきの笑顔だった。僕は、ごめんという意味を込めて深く頭を下げた。ぼたぼたと涙が机に落ちる。
絶海は僕の頭を撫でてくれた。煙草臭い手だ。
「柳、普通になれないから死ぬなんて言うな。人を傷つけるから生きられないなんて言うな。そんなこと言うぐらいなら、倫理も、優しさも、社会も捨てろ。そんなもんはお前を縛るだけで守りはしない。……こっちに来い。そしたら俺が守ってやれる」
「僕は、……」
「素直になれ。お前は……幸福を知っているだろ?」
――それが私たちの幸福だよ。
「僕は『普通』なんか無理だ。白い家で白い犬を飼って好きな人と暮らせない」
僕がようやくそれを認めると、絶海がようやく僕の手を離した。
「そうだ。僕は暴力が好きだ。でも人も好きだ。せめて誰かを守るために拳をふるいたい。……そんな風に僕を使ってくれる?」
僕は、解放された右手で彼の手をつかんだ。彼はニッコリと笑った。
「当然だ。俺が幸せにしてやるよ、柳」
「……プロポーズみたいだね。ダーリンって呼んだ方がいい?」
「黙れ阿呆」
「あはは、はは……」
「泣くなって……オムライス食え」
絶海が笑う。
――その笑い声が遠ざかる。
◇
気が付けばそこは銀座ではなかった。赤坂の交差点。車に向かって歩いていた絶海が不思議そうに僕を振り返る。
「どうした、柳。また夢でも見てたのか?」
「……うん」
「はは、変わらんなお前は。いつの夢だ?」
「君からのプロポーズ」
「記憶にない」
「五年前だよ」
「記憶にねえ」
そう、もう五年も経った。
僕は今は絶海のボディーガードだ。組の跡目で揉めている今、一瞬たりとも警戒を怠れないのに、なんでこんな夢を今さら見たのだろう。そんなことを考えながら絶海の後ろを歩く。彼は煙草を吸いながら、のんきなもんだぜ、鈍間なユニコーンと僕をからかう。それに返事をしようと口を開いたとき目の前に男が飛び出してきた。反射で、僕は絶海の前に飛び出す。
――タアン、と高い音。
男の頭を殴りつけ、そいつが意識を失ったのを見届ける。それから自分の腹に手を当てると、破裂した水風船みたいな妙な感触。
「あれ?」
視界に黒いアスファルトしかない。いつの間にか僕は倒れていたらしい。気づけば指先すら動かない。あれ、と思っている間に眠くなる。
「柳!」
絶海が僕を抱き起こしてくれた。彼に怪我はないようだ。ほっとしたらどんどん眠くなった。
「起きろ! 寝るな!」
彼が焦っている顔をしているのは初めて見る。面白い。笑いたいのに体は勝手に呻く。
「おい、……おい、起きろ!」
口を開いたら血がこぼれ、それでもなんとか喉を開く。――これが最後の言葉になると自分でもわかっていた。
「……鈍間め、……守ってやった、ぞ……」
「このっ、馬鹿が!」
ぐらり、と視界が揺れた。
◆
――目を開くと、そこは児童養護施設だった。夕焼けに染まる食堂は懐かしい匂い。僕はつい笑った。
「走馬灯でもここに帰るのか、僕は……いいところだったもんな……」
あたりを見渡すと一人の少年が部屋の隅で膝を抱えていた。こちらに背を向けて、彼は一人座っている。随分と暗い背中だ。
「君、……どうしたの?」
肩をたたくと少年が振り向いた。
それは幼い頃の僕だった。
「撃たれて死ぬなんて『普通』じゃない!」
彼は泣いていた。
「どうして、ここを出たんだ!」
彼の『その問い』に僕は笑ってもう答えられる。
「僕は『普通』に生きたかったからここを出た」
「『普通』じゃないよ!」
「これが僕の『普通』だ。嘘偽りなく僕は僕として、生きた」
「嘘でも……『普通』になりたかったのに……」
彼は僕にしがみついてポロポロ泣いた。その背中を撫でながら、子どもの期待に応えられないひどい大人だと自分を笑った。でももう僕はこの頃のように自分が嫌いじゃなかった。だから、彼にごめんねとは言わなかった。
「僕は悪い化け物だ。なぎちゃんを幸せにできなかったし、白い家にも住めない。でも、……友人を守れたんだ」
過去が脳裏をよぎる。
「守られるのは性に合わんが、仕方ねえから俺のボディーガードにしてやる。死ぬ気で守れ」
「了解、死んでも守る」
「死なさねえためにやってんだ、馬鹿野郎。お前はまず死ぬ気で生きろ。『普通』だの『幸せ』だのなんだの、くだらんことはその後だ」
「……わかった」
「泣くな。お前はいいやつだよ」
彼の優しさを思い出して、最後の最後に悪態をついたことを少しだけ後悔する。でも最後の言葉にお礼なんてそんな『普通』は僕には無理だ。あと心残りは、彼が跡を継ぐところを見れなかったことだが、マア、僕がいなくても彼はなんとかするだろう。心配はない。
つまりいい人生だった。
ざまあみろ。普通、倫理、社会、そういうもの全てに中指を立てる。ざまあみろ、僕は幸せだ。この先が地獄で、業火に焼かれ続けるのだとしても、僕は僕としてちゃんと死ぬ気で生きた。
「だから僕の勝ちだ。この人生、悔いはない」
僕は僕を抱き締めてゆっくり目を閉じた。
了
幸福を知っていた 木村 @2335085kimula
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