第12話

111 最後

 後ろから「行ってしまったな」と郭蒼樹に声を掛けられた。西国の王の隊列を見送っていた人々はもうすでに戻っている。いつまでも星羅は見送っていたのを、蒼樹は見守っていたのだ。


「兄はきっといい王になるわ」

「ああ、そうだろう」


 しんみりする気持ちをごまかすように「王妃になって一緒に西国へこないかって誘われてたのよね」と星羅は明るく言う。


「王妃に?」


 蒼樹は鋭い声で尋ねる。


「母に会った時に、今度求婚されたら受けるようにって言われたから、少し意識してしまったわ」

「受けなかったのか」

「うん、だって母に言われる前だったから、求婚を受けなさいって話は」

「じゃあ、誰かに求婚されたら受けるのか?」

「そうねえ……」

「袁殿とはどうなっている?」

「袁殿? さあ、よく食事に誘ってくれるわね。さ、帰りましょう」


 星羅の後を蒼樹は難しい表情で付いて行った。



 朝議では今後の国の方針を話し合う。気候の寒冷化が緩やかになったとはいえ、油断はできない。国策として更に食料の自給率を上げさせることにし、農民が増えるほど、治める税率を下げていくことにした。

 星羅は新しい農産物を生み出すことを推奨したいと提言する。寒暖に耐えうる作物、もしくは寒さに強いもの、暑さに強いものを作り出し、更に保存が良いものを開発することを国家で行ってはどうかと発案した。

 至極真っ当な意見として受け入れられ、これからはより食に関して国家を上げての動きを見せていくだろう。


 星羅は自分の提言を受け入れられ、久しぶりに明るい気分で帰宅した。厩舎に馬の優々を連れて入る。


「明々、ただいま」


 優々を柵の中に入れ、眠っているだろう明々に話しかける。いつも帰ると顔を上げる明々がうつむいたままだった。


「明々? よく眠っているの?」


 そばに近寄ってそっと撫でるとやっと明々は顔を上げた。


「ひ、ん……」


 一言啼いて笑ったような悲しそうな表情を見せた明々はまた目を閉じた。そっと星羅は優しく撫で続ける。


「明々……?」


 鼻面を撫でた時、明々の呼吸が感じられなかった。明々が静かに絶命したのだ。


「明々っ!」


 もう明々は目を開けることはなかった。ちょうど胡晶鈴が明々に与えた岩塩が無くなったところだった。明々は晶鈴に会うまで頑張って生きていたのだろうか。それとも星羅が一人前になるまで生き延びていたのだろうか。まだぬくもりを感じる明々の身体にしがみついて星羅は泣いた。

 しばらく泣き続け、明々の体温が感じられなくなるころ、かさっと物音がしたので見上げると、月明かりの逆光を受けた大きな影が「どうした?」と声を掛けてきた。


「蒼樹……。明々が……」


 郭蒼樹は星羅のそばにしゃがみ込み横たわる明々を撫でた。


「埋葬してやらねばな」

「そうね」


 荷台を運んできて二人で明々の身体を乗せる。もう塩をなめていただけの明々は痩せていて軽かった。馬の優々がブルルと鼻息を出し、蹄で地面をごつごつ掘っている。自分が荷台を引くと言っているかのようだ。


「優々、運んでくれるの?」


 星羅が尋ねると優々はもちろんと言うようにブヒンッと啼いた。


「だけどどこに埋めてあげようか。この家に庭はほとんどないし」

「良いところがある。少し歩くがいいか」

「ええ、どこかしら」

「俺の住まいの近くだ。裏に小高い丘がある。見晴らしも良いだろう」

「引っ越してたの?」

「最近屋敷を構えたのだ」


 月明かりのおかげで明々を埋葬することは難しくなかった。星羅は一生懸命、踏み鋤を使って穴を掘る。深く深く掘り、縄を使ってそっと明々を穴の底に横たわらせる。星羅がそっと土をかぶせていると、優々も手伝うように前足で土を蹴り明々にかける。蒼樹が板切れに達筆で『故 明々』と書いて持ってきてくれた。


「ありがとう。すっかり世話になったわね」

「いや、いい。うちで湯を使え。今、沸かさせてるから」

「申し訳ないわ。蒼樹こそそうして。わたしは帰るから」


 蒼樹も埋葬を手伝ったので、土で汚れている。


「遠慮するな」

「う、ん」


 寂しくなっていた星羅は、強引な蒼樹にありがたい気持ちになり屋敷について行った。明々の墓を振り返る。月明かりに優しく包まれているかのようだ。


「明日、花を植えに来るね」


 ふっと風が吹き、星羅の頬をくすぐる。まるで明々が舐めたように感じた。


112 求婚

 滑らかな陶器製の風呂は疲れた星羅の身体も心も癒す。熱めの湯が心地よい。


「もっとお湯を足しましょうか?」


 中年の下女が御簾の向こうから声を掛けてくる。


「いえ、もういいわ。ありがとう」

「では、ごゆっくり」


 ゆっくりとと言われても、蒼樹も早く湯に入りたいだろうと手早くあちこちをこすり星羅は上がる。麻布で身体を拭き、蒼樹が貸してくれた美しい緑色の着物を羽織った。


「また、こんな上等な物を……」


 代々軍師家系である郭家は、質実剛健で質素な生活をしているが、やはり上質なものが取り揃えられている。身分というものはないが、郭家の人々は、内面も外見も庶民とは明らかに違っている。廊下を通り、庭を通りがかると木のたらいで湯あみをしている蒼樹が見えた。


「あ、蒼樹」

「ん? もう出たのか?」

「あの、蒼樹も入りたいだろうと思って」

「俺はここで身体を洗っていたのだ。言ってやればよかったな」

「気を使わせて、ごめん」

「いや、いい。湯冷めせぬように部屋に入っているといい」

「ありがとう」


 そそくさと星羅は立ち去る。たらいの中に座り込んでいる蒼樹の裸は月光に照らされてきらきらと輝いていた。引き締まった身体は逞しく滑らかでなまめかしい。


 礼を言ったら帰ろうと客間で蒼樹を待った。下女が運んできた茶を啜っていると、大雑把にざっくりと着物を羽織った蒼樹がやってきた。胸元がはだけているのを見ないように星羅は気を付ける。


「ありがとう。落ち着いたから今夜はこれで失礼するよ」

「泊っていけ。寝台の用意もある」

「いや、でも」

「こんな日ぐらい一人でいることはないだろう」


 無言でいる星羅の手首を蒼樹は握る。


「あ、あの」

「星羅。俺に嫁げ」

「え?」


 いきなり不意打ちを食らったように星羅は、蒼樹の顔を凝視する。


「そんなに気を使ってくれなくても大丈夫よ。すぐに慣れるから」


 兄が去り、明々が死に孤独に陥っているだろう自分に同情してくれているのだろうと星羅は思った。


「同情ではない。今のお前の弱っているところに付け入っているのだ」

「え?」


 固まっている星羅を、蒼樹は遠慮せず抱きしめた。


「そ、蒼樹? 離して」

「それはできない相談だ。母親が言うように求婚を受けないのか。俺はずっとお前を好きだった。明樹殿から奪おうとは思わなかったが。しかし袁幸平にはやれぬ」

「袁殿は、別に」

「いや、あいつはそろそろ頃合いを見計らって求婚するだろう。しかもあいつのことだ手練手管できっと自分のものにしてしまうはず」

「そんな……」

「さっき星羅の家に行ったのも、袁幸平の行動が気になって見に行ったのだ。幸い今夜は来なかったようだが」


 明々の死の悲しさで、星羅はなぜ蒼樹がやってきていたのか追求していなかったが、今、合点がいった。抱きしめられている蒼樹のはだけた胸元が星羅の頬に当たる。いつも冷静で動揺しないだろう蒼樹の心音が早く強く、星羅の耳に響く。


 若い娘時分に蒼樹に抱きしめられたことを思い出した。あの頃は、父だと知らずに曹隆明に恋をしていて、蒼樹の好意に反発した。今の星羅はやはり気落ちしているのだろうか。抵抗する気にもなれず、むしろ蒼樹の体温や抱きしめる力強さに心地よさを感じている。


「明樹殿を想ったままでいい。俺のところに来てほしい」

「あの人を想ったまま……」


 明樹を忘れなくて良いのだと思うと、気が軽くなる。


「その気持ちは嬉しいけれど、未婚の若い女人のほうが良いのではないかしら。あなたのご両親だってきっと」

「俺はお前が良いのだ。いいと返事をしろ」

「蒼樹……」


 以前のように拒まない星羅をもう一度力を込めて抱きしめる。星羅は目を閉じて蒼樹の唇が重なってくるのを感じた。



 夫の陸明樹が亡くなって3年の月日が経っていた。今の時代、再婚をうるさく言う者はいない。息子の徳樹もすっかり杏華公主を母として慕い、帝王学を学ぶ日々だ。星羅は徳樹を息子として以上に、天子として仕える気持ちで見守っている。


「母上……」


 胡晶鈴の言葉と蒼樹のことを考える。彼ほど自分のことを知っている者もいないだろう。明樹と結婚してから一緒に生活ができたのは2年にも満たなかった。それに比べると蒼樹とは軍師省で朝から晩まで一緒だ。家族よりも同じ時間を共有していた。


「結婚したら家でも一緒なの……」


 仕事でも家庭でも蒼樹と一緒に過ごすのだと思うとなんだか変な気分になる。蒼樹に返事をする前に、許仲典と結婚した林紅美に相談しようと彼女たちの住まう屋敷へと向かった。



 許家は都を取り囲んでいる城門近くにある。いつでも不審な人物をとらえられるようにと、都を守るように住まいを、行きかう人々の近くに構えている。


 中央から退いていた許家は、今また許仲典によって盛り返しているようだ。ぼろになっていた屋敷は、修繕され強固になっている。庭も手入れをさせ、栄華がよみがえったような明るさを取り戻している。


「久しぶりね。どうぞ、庭で話しましょうよ」


 結婚してから紅美はゆったりと穏やかな顔つきになり、星羅に対しても温和な態度だ。夫婦生活が上手くいっているに違いないと星羅はホッとする。


 郭蒼樹から求婚されたことを話すと「とっとと結婚しなさいよ」と嫣然として茶を啜る。


「わたしに蒼樹の奥方が務まると思う?」

「蒼にいの奥方?」

「ええ」

「蒼にいが奥方を求めてるって言ったの?」

「いや、そんなに具体的なことはなにも」

「あなたと一緒にいたいだけで、奥方になれとは言ってないのでしょう?」

「なのかなあ」

「結婚して仕事を辞めてくれとでもいった? 言わないわよねえ」

「今のところは」

「そんなことずっと言わないわよ」

「かなあ」

「もう! じれったいわねえ。他に好きな男とかいないんでしょ? 蒼にいはあなたのことずっとすきだったのよ? けちけちせずに結婚なさいよ」

「あ、う、うん」

「一人でいるよりも二人でいるほうが、良いことも悪いこともよく考えるわ。ある意味結婚は、精神の訓練だったりするのよ」

「相変わらず面白い考え方ね」


 見習いとはいえ、軍師であった紅美はなるほどと思わせる持論を展開する。


「軍師ならば、いろいろ経験しておいたほうがいいわよ」

「そうね。ありがとう」


 紅美はふふんと自分は正しいという顔付を見せる。胡晶鈴も、知らないことを経験できると言っていた。


「ただ、蒼樹の気持ちに応えられるだろうか」

「嫌いじゃあないんでしょ? そのうち好きになるかもしれないし、そんなことまでいちいち考えなくてもいいのよ。あたしなんか夫の気持ちなんか考えたことないわよ? あたしが好きだからそれでいいの。蒼にいがあなたのことが好きで、あなたが結婚を了承すればそれでいいのよ」

「な、なるほど……」


 強引だが説得力のある紅美に、星羅はようやく意思を固め屋敷を後にした。


「まったく世話が焼ける二人ね」


 星羅を見送った紅美は、やっと蒼樹の思いが報われるのかと嬉しい気持ちになった。そしてこの嬉しい気持ちを夫の許仲典と早く共有したくてたまらなかった。


113 再嫁

 星羅は亡き夫明樹の墓に参り、再婚することを報告した。夫の父親の陸慶明と母親の絹枝に話すと、二人とも賛成してくれた。亡くなった理由が理由だけに、星羅を陸家に縛り付けておきたくはなかった。もちろん、実家だと思っていつでも来てくれたらよいと歓迎もされる。西国にいる、朱家も賛成してくれるだろう。

 一人で住んでいた小さな家を片付け、郭蒼樹の屋敷に住まう。結婚式はごくごく身内の者たちで質素にとり行う。見慣れた顔ぶればかりで、仕事関係が家族関係に変わるのかと不思議な気分だった。


 軍師省にあいさつに2人で回ったが誰も二人が夫婦になったことを驚くものはいなかった。ただ一人、財務省の袁幸平だけが非常に悔しがる。


「郭殿! ひどいじゃないか!」

「何がですか? 袁殿」

「星羅さんを狙っていたのがわかっていたはずだ。全く!」

「袁殿はほんの数か月でしょう? 俺は10年以上星羅を想っていましたよ」

「じゅ、10年……。よくもまあそんなに待てたもんだ」

「軍師は最後まであきらめないものです。俺は袁殿に感謝しています。本当はもっと時間がかかると思ってましたから」

「な、なに!?」


 蒼樹は気が長い性質ではないが、袁幸平と胡晶鈴の言葉がなければ、まだまだ星羅を得る時期を見計らっていただろう。


「袁どの。色々お誘いいただいてたのにすみません」


 星羅が謝ると、袁幸平は「いや、いや、どっちみち手ごたえがなかったしね」と力なく手を振る。


「あーあ。星羅さんなら私も落ち着けると思ったのになあ」


 肩を落としてがっかりして去る袁幸平の後姿に「申し訳なかったな」と星羅はつぶやく。


「気にしなくていい。袁殿は立ち直りが早いのだ。次に会う時にはもう別の女人に入れあげているだろう」

「それならいいけど」


 結婚したとはいえ、二人の仕事に変化があるわけではなかった。飢饉によって南下してきた人々をどこへ定住させるか。または戻すか。地方によって影響の大きなところと小さなところがあるため、国からの援助をうまく采配する必要がある。農業に従事する者への報償や助成。殺伐として一触即発の地域への軍の派遣。やることが山積みだった。


「お茶でも飲む?」


 持ち帰った仕事が片付いたので星羅は、書き物をしている蒼樹に声を掛けた。


「ん、もうちょっとで終わるから酒でも飲みに行こう」

「いいわ」


 2人で近所の千花酒家に酒を飲みに出る。酒だけはあるので何とか営業している食堂だった。店の亭主が「今夜は少しつまみを出せますよ」と笑顔を見せた。


「そうか、ではそれと酒を頼む」


 やっと作物が多く収穫され始めたのだ。青菜の油いためを大事につまみながら星羅と蒼樹は酒を傾けた。


「少しずつ回復してきてるわね」

「ああ、なんとか国が傾かずに済んだな」


 2人で祝杯を挙げるように乾杯と言って杯を空ける。店では常連の客が数名、静かに酒を飲んでいる。いつかまた賑やかに、飲み食いして明るく騒げる日が来るだろうか。


「もう少しゆっくりしたいが」

「そうね」

「さて、明日も早い。帰ろう」


 結婚してから、蒼樹は歩くのがゆっくりになった。夜道を二人で並んでゆっくり歩き、ロバの明々の墓に立ち寄ってから屋敷に入った。

 寝台に上がると、星羅は倒れこむように寝付く。多忙な二人は床を同じくしながらも、まだ夫婦の営みを送ることが出来ないでいた。蒼樹はそれでも時期が来ればゆっくりと愛し合えると思い、急ぐことはしなかった。


114 新王

 西国に戻るや否や、京樹は西国の王ラカディラージャとして即位する。王宮のバルコニーからラカディラージャは国民に優雅に手を振る。西国の花と呼ばれたラージハニを知る国民は、その麗しさを受け継ぎ、バダサンプとは違い高潔な容貌に大歓声を上げる。

 そしてラカディラージャの隣には、清楚で美しい王妃となるスターラが優しく笑んでいる。似合いの若い王と王妃は圧倒的な支持を受けてこれから西国を立て直していくだろう。



――ラカディラージャは華夏国の国境を越え、とうとう西国にやってきた。隣り合わせの国なのに、随分と森林が少なくなり空気がカラッと乾いている。西国の地に降り立った時、向こうから豪華な馬車がやってくるのが見えた。


「あれは?」


 ラカディラージャが尋ねると、老いた宰相が「孫娘が出迎えに参りましたのです」と恭しく伝える。

「孫娘か」

「ええ、そして次期、王妃候補です」

「王妃候補?」


 西国に王として帰国すると、もちろん国家のための結婚が待っているのは当然だった。ラカディラージャは、最後まで自分を目で追っていた星羅を想う。


 ラカディラージャの乗っている馬車よりは落ちるが、輝く曲線的な馬車が止まり、若い娘がおりてきた。ココナッツ色の明るく滑らかな肌を持ち、黒目がちの丸い瞳を持つ愛らしい女性だ。豊富な髪は腰まで波打つ。


「おかえりなさいませ。ラージャ(王)」

「孫娘のスターラです。どうぞ、ここからは一緒の馬車にお乗りください」


 覚悟を決めて西国に戻ったとはいえ、あからさまな政略結婚には苦笑してしまう。それでも黙ってラカディラージャは頷いて、スターラと一緒に馬車に乗り込んだ。


 馬車にしばらく揺られ、彼女の甘い香りになれてきた頃ラカディラージャはスターラに話しかける。


「あなたはいいのですか?」

「やっとお声を掛けてくださいましたね」


 スターラはにっこりと明るい表情を見せる。


「すみません」

「まあ、王様が謝ってはいけませんわ」


 親しみがすぐに伝わるのは西国人の特徴だろうか。スターラは母の京湖ことラージハニのように屈託なく親近感を感じさせる。


「王様こそ、お嫌でしょう。いきなり会ったものが王妃候補と言われて」

「いえ、覚悟は決めてきていたので」

「そうそれならば」


 愛想のよいスターラの、わずかな表情の陰りをラカディラージャは見逃さなかった。


「あなたは本当に良いのですか? お心に決めた方がいるならば、このような婚姻は……」

「お優しいのですね。確かに心に決めた人がいました。でも……」


 バダサンプの暴政により、国内の王位継承者がことごとく抹殺された。その中の一人にスターラの想い人もいたのだ。


「それは辛かったでしょうね」


 明るさの中に、心の傷を隠し持っているスターラに同情心が湧く。


「よくお気づきになりますね。隠し事はできませんね」

「あ、いや」

「王様は?」


 スターラの心の内を知ると、ラカディラージャも隠し事をしないと決める。


「私にも想う娘がいましたが、ほかの者と結婚しました」

「王様も……」

「今は、もう彼女の幸せを願うだけです」

「それはお辛いでしょうね」

「ありがとう」


 お互いの気がかりを知るとより打ち解けてきた。


「あなたの名前はどのような意味があるのですか? まだ西国の言葉は少ししか知らなくて」

「星ですわ。王様」

「星……。いい名前だね」


 褒められて笑顔を見せるスターラから星がこぼれるような気がした。彼女となら一緒にやっていけるとラカディラージャは心が決まる。星羅に心から別れを告げる。


「妹よ。元気で」


 ラカディラージャはもう華夏国に思いを馳せることはないだろう。  


115 自由


 朱京湖ことラージハニは、バダサンプを暗殺したことで牢に入れられていたが、バダサンプの身分が不可触民ということがわかり、ラージハニは全くの無罪となる。戦士階級の彼女は、王族がほとんど抹殺された今、最上階級の身分だった。


 不可触民とはいえ、一人の人間を殺したラージハニは己の肌に報いを感じている。全身に毒を塗り、バダサンプに挑んだ彼女のだったが、毒が彼女自身にも回ったようで、左半身が顔まで赤く爛れてしまった。

 他の男に触れられるくらいなら死んだほうがましだと思ったが、生き延び、爛れた肌を見ると悲しくなってしまう。大臣たちはラージハニの肌を治せるものを募る。国中から医者や祈祷師などが褒美目当てでやってきたが、誰も治せるものはいなかった。


 もう諦めかけた時、一人の男が小さな甕を持ってきて、熱めの風呂に中身を全部入れて、半日浸かるとよいとラージハニに言づける。その方法を怪しむ者もいたが、ラージハニはその通りにし、肌は美しくよみがえった。彼女にはその男が誰かわかっていた。きっと夫の朱彰浩だ。彼は華夏国から西国に帰国する際に、毒を調合した医局長の陸慶明から解毒剤をもらっていたのだろう。男が欲しがる褒美もわかっている。


 ラージハニは王位継承者で困っている大臣たちに、自分の息子の存在が華夏国にあると伝える。不可触民とはいえ、王であったバダサンプの王妃となったラージハニの息子は十分に王位継承権がある。強引な見解だが他に西国を統治し安定させる方法がなかった。王の不在が長引けば、隣国に国を奪われてもおかしくない。


「では、あたくしを市民階級に落としてくださいませ」


 階級を上げたがるものが多い中、下がることを希望するのは西国の中でもラージハニ唯一人だろう。夫の朱彰浩の生まれつきの身分を上げることはできない。そもそも彼とは身分が違うので結ばれることは不可能だ。


 ラージハニは、息子の京樹が王になることを望むわけではないが、適任者だとも思えた。星羅はもう家庭を持っているので華夏国から出ることはないだろう。ラージハニも夫も西国に帰国していたならば、京樹も華夏国より西国にいるほうが自然だ。


「ラージハニ様。戦士階級のままで、さらに王の母上でおられましたなら一生ご苦労はないかと存じますが」


 老いた宰相が心配する。


「いいえ。王宮で優雅に暮らしたいわけではないの」

「そうですか……」

「新しい時代の人に任せましょう。ごめんなさい、わがままね」


 若いころの西国の花と呼ばれていたころのラージハニを知っている宰相は、彼女をまぶしく見つめる。


「今でも変わりませんな。あなた様の笑顔は満開の花に匹敵する美しさです」


 時が流れ、息子の京樹ことラカディラージャに無事、再会する。


「帰ってきてくれて嬉しいわ」

「かあさまがお元気で本当に良かった」

「とうさまにはお会いしましたか?」

「いいえ、まだ……」


 ラージハニはこれから市民階級となり、彰浩と一緒に暮らすことを望んでいるとラカディラージャに告げる。彼はもちろん反対しなかった。


「本当は、あなたと星羅が一緒になってくれたらよかったと思うけど」

「星羅は華夏国の軍師ですし、立派にやっていますよ」


 ラカディラージャは、ラージハニが帰国した後、星羅の夫、陸明樹が亡くなったことは伏せておいた。


「私ももうこの国を背負う覚悟ができています。一緒に支えてくれる者も多いでしょう」

「無理はしないで」

「かあさま。かあさまは十分に責任も役割も果たしました。どうぞ幸せになってください」

「ありがとう」


 大粒の涙はラージハニの浅黒い肌を転がる真珠のようだった。


 王宮を出たラージハニは、逃亡者ではなく自由な市民として夫の元へと向かう。随分年をとったが、心は明るく足取りも軽かった。辺境の山の奥深くの陶房まで共も連れず、馬車にも乗らず何日もかけて歩く。遠目から白い煙がのろしのように天に伸びているのが見えた。窯に火が入っているのだと、ラージハニは一目散にかけていった。


116 知己


 華夏国に落着きが見られ始めたと同時に、軍師省では危急存亡の際のマニュアルなどを作成始める。王の曹隆明も、隣国との交流し友好を深めるため、軍師たちを外交に赴かせることにする。また国際化に向けて、他国の言葉を学ぶ学校も増やし、より多彩で多種多様な職も生まれ始める。国全体が貧しくはなったが、個々の役割はより意識的になり、才を生かす機会に大いに恵まれるようになった。


 星羅は蒼樹と結婚してから、軍師省でも家でも一緒だった。四六時中一緒に居ても、お互いにやることが多いせいか干渉しあうことは少ない。蒼樹は結婚してからも変化がなく、星羅も変わる必要に迫られなかった。最初から家族だったような、もしくは長年連れ添った夫婦のような不思議な関係だった。しかし、そんな星羅にも思うところがあり、ついつい憎まれ口をたたく柳紅美のところへ会いに行く。


「会うたびにお腹が大きい気がするね」

「まあ、そうかも」


 紅美は4人目の子を妊娠していた。本当は3人目になるはずだったが、前回は双子を妊娠していた。


「あなたのところは兆候ないの?」

「あ、うん……」

「忙しすぎるんじゃない?」

「だといいけど……」

「まーた暗いわね。あなたってば、国や民のことには前向きなのに、自分のことになると途端にダメね」


 遠慮のない紅美は、女学生のころに得られなかった、もはや知己である。紅美のほうも学問も意識も他の女学生よりとびぬけていたので、対等に付き合えるのは星羅ぐらいだった。


「その、なかなか授からなくて」

「欲しいの? 子ども」

「わからない。でも出来ないとなんだか心配で」

「もしかして、自分に原因があるとでも思ってないわよね」

「え、どうだろう」

「原因があるなら蒼にいでしょうよ。あなたはもう産んでるんだし」

「う、ん……」

「気にしなくていいわよ。仲良すぎると子どもはいらないらしいじゃない。子どもが夫婦を繋ぎ止める役割をすることもあるみたいだし。あ、うちは仲いいわよ? 子どもいなくたって夫婦仲いいんだから」

「ふふふっ。知ってる」


 紅美と許仲典の仲の良さは、将軍たちの間でも有名だったが、実際は恐妻家として有名になっていた。


「ともかく蒼にいだって、子がほしけりゃ多忙な軍師を妻になんて迎えないわよ」

「そうね。ただ、わたしは、わたしの母もそうだけど親子の縁というものが薄いのかなと思うの」


 星羅の祖母に当たる、胡晶鈴の母も、彼女を産んで早くに亡くなったと、医局長の陸慶明から聞いたことがあった。息子の徳樹も、産んだとはいえ、自分の手元からは大いに離れている。


「また難しいこと考えてるのね。親子の縁って血縁のこと? あなたは西国の方だったけど愛情いっぱいに育ててもらったんでしょう?」

「ええ」


 今でも育ての母、朱京湖が懐かしい。胡晶鈴には、存在を知るべく一目でも会いたい気持ちが強かったが、京湖には甘えたくなる。


「子育てしたいなら、うちから一人くらい養子に出すけど?」

「養子に?」

「ええ、愛情があって大事に育つならどこでもいいじゃないの」

「はあ」


 相変わらず、考え方にぶれがない紅美は、ある意味尊敬の対象だ。きっと口先だけではなく、本当に望めば、養子の件を承諾するだろう。


「だけど、どうかなあ。蒼にいは自分の子どもなんかはそんなに興味ないと思うわ。あなたと一緒にいるだけで満足そうだし。郭家も跡取りなんて発想ないしね」


 代々軍師家系である郭家は、誰か一人に、長男などに跡取りとして期待を寄せることはしない。華夏国の高祖の代から仕えているので、軍師を絶やすことなく子供を多く残そうとするがそれだけだった。子や孫に軍師の才がなく、郭家から軍師が輩出されなければ、それでもう終わりなのだと割り切りがある。蒼樹以外にも郭家には同じ年代の子息子女が大勢いる。もしも郭家に子がなければ、親類である紅美のように子だくさんの者が郭家に養子に出すこともあるだろう。


「歴史がある家柄はやはりすごいのね」

「まあ、二人で軍師なら子育てする余裕ないと思うわよ。むしろ出来たら連れてらっしゃい。育ててあげるから」

「ありがとう。頼もしいね」

「あー、おなか減った!」


 ますます貫禄が付いて行く紅美に、星羅は安心感を得る。帰り際、紅美に礼を告げると、彼女は少し照れ臭そうにぶっきら棒な態度をとる。一度、許仲典を他の兵士がからかっているのを聞いたことがある。紅美を知っている兵士たちは、はっきりきついことを言う紅美を怖い嫁だという。許仲典は、そんな評判をものともせず、可愛い嫁だと臆面もなく話すのだ。


「いい夫婦ね」


 自分と蒼樹とはまた違う、紅美と許仲典のカップルはとても安心できる愛すべき夫婦だと思い星羅は胸が温かくなった。 

117 慶明の死

 息子の陸貴晶が無事、試験に合格し薬師見習いとなる。ふっと安心した陸慶明は目の前が真っ暗になり、気づいたときには寝台で横たわっていた。


「おや? 医局にいたはずが……」


 身体を起こそうとすると「あなた。まだ横になっていて」と妻の絹枝がそっと身体を支え、横たわらせる。


「あなたは倒れたのですよ」

「あ、そういえば、急に意識が遠のいて」

「まったく薬師の不養生ですわ」

「そうかもしれぬな」


 笑って胡麻化したが、慶明自身もう先は長くないと分かっている。そもそも激務だった医局での仕事に加え、母のための新薬作り、孫の徳樹を太子につかせるための暗躍、そして長男、明樹の死が慶明の命を縮めていた。


 一度倒れると、もう慶明は起き上がることが無理になった。食欲も失せ、何かをなしたいという気力も無くなった。見舞いに来た星羅が、彼女の母、胡晶鈴に見えてしまい、ついついその名を呼んでしまうところだった。


「仕事も生活もうまくいっているようだね。無理はしていないかい?」

「お義父上さまこそ。ご無理ばかりなさっていたのですね」


 自分の状態をさておき、星羅の身体を心配する慶明に思わず苦笑する。


「やることをすべてやったからね。そろそろ私は退場する身だ」

「そんな! まだお若いですのに」


 年齢的にはまだまだ働き盛りの慶明だが、もう誰の目から見ても回復を望めないことはわかる。背が高くがっしりした彼は、やせ細り、目はくぼみ、色つやも無くなり枯れた老木のようになっている。もう幾何の時間もないことが明らかだった。

 涙を見せないように、笑顔で去った星羅の後ろ姿を見送って慶明はまたほっとする。


「星羅が幸せそうで良かった」


 息子の明樹の死によって、星羅のダメージは計り知れないが、なんとか立ち直りしっかり生きている様子に慶明は安堵する。


 外が賑やかだなと顔を上げると、絹枝が珍しく慌てて「陛下がお越しです」と部屋に駆け込んできた。


「陛下が?」


 絹枝に支えてもらい身体を起こすと「よい。そのままで」と厳かな声がかかる。お忍びで陸家に見舞いに来た、王の曹隆明だった。見目麗しい隆明は、威厳を伴い堂々と立派な佇まいで静かに寝台のそばに腰かける。


「二人にしてもらえるか?」

「あ、はい。外で控えております」


 絹枝と共の者数名は部屋から出てそっと扉を閉じた。


「わざわざ、お越しくださるなんて。もったいない」

「よいのだ。そなたは朕に、いや、国家にも尽力してくれたな」

「とんでもない。やるべきことをやったまでです」

「いや、手を汚させてしまったな……」

「……。お気づきでしたか」


 慶明の暗躍を、隆明は知っていたようだ。


「おかげで傾国させることなく国難に立ち向かえたのだ。今更だが何か望みはあるか?」

「いいえ。星羅も軍師として立派になりましたし、徳樹も王太子となりこれ以上なにがありましょう」

「そうか。では、安心するがよい」


 二人は胡晶鈴の思い出話をすることはもうなかった。それでも同じ女を愛し、国を支えてきた彼らは身分を超えた同志だった。



 誰かしらが見舞いに来るので、陸家はいつもより賑やかで絹枝も忙しくしている。彼女にとって忙しいほうが、慶明が死んでいくことに集中しなくてすんでいた。


「やっと客が引きましたわ。こんなに人が見舞いにきたのでは余計に具合が悪くなってしまいますわね」

「いや、私のほうはもう疲れなど感じないのだ」

「そうなんですか?」

「ああ、君はもう休みなさい。疲れたでしょう」

「ええ、でも」

「もうじき私は逝くだろう。葬儀に体力を使うからちゃんと休んだほうがいい」

「まあ! あなたったら……」

「すまない。ああ、言っておかねば。今までありがとう。君と夫婦となって本当に良かったと思う」


 泣いてしまっている絹枝は、慶明の言葉にうまく返答することが出来なかった。教師だった絹枝は、ほかの女人にくらべ理性的で、感情の起伏が平坦だった。恋愛感情があるのかないのか分からないまま、慶明と結婚したが、長い夫婦生活の中で情は深まっている。


「では、隣で休んでいますから」

「うん。良く休むがいい」


 慶明が倒れてから、絹枝は寝台を運ばせて一緒の部屋で休んでいる。客の相手で疲れ切っているのか、絹枝は寝台に入るとすぐに寝息を立て始めた。



 蝋燭だけがぼんやりと灯る薄暗い部屋で、慶明は静かに天井を眺める。自身で脈をとると、もう弱々しくとぎれとぎれで、いつ止まってもおかしくない。息も深く吸うことが面倒になってきたが、不思議と苦しくはなかった。

 慶明が目を閉じようとした瞬間、ふっと空気が動くのを感じ目を開いた。


「慶明」

「晶鈴!」


 寝台の隣に胡晶鈴が立っている。


「会いに来たわ」

「嬉しいよ。それにしてもあの頃と全く変わらないのだな。私はすっかり老いてしまったよ」


 都から出るころと、寸分たがわぬ若々しさで胡晶鈴は愛くるしい目を向ける。


「ふふっ。慶明がそう思っているだけよ。ほら、庭を散歩しましょうよ」

「え、それは、さすがに無理だ」

「ううん、平気平気」


 晶鈴が、慶明の手をとり引っ張り上げる。


「あっ」


 もう起き上がることも立ち上がることも無理だと思っていた慶明は、ふわっと身体の軽さを感じ寝台から起き上がる。


「外へ行きましょう」


 手を繋いで、庭に出る。空は満天の星空で美しく輝いている。庭を散歩する慶明は、足が窮屈だということを感じた。


「俺、履物苦手なんだよなあ」

「脱いじゃいなさいよ」

「そうだな」


 いつの間にか、青年のころに戻った若々しい慶明は裸足になって庭を走り回った。足の裏に感じる草や砂利、土が心地よい。


「やあ、気持ちよかった。晶鈴、ありがとう」

「ううん。こちらこそ。星羅のことありがとう。ごめんなさいね、面倒かけっぱなしで」

「いいんだ。色々楽しかったし」

「もうこれ以上望むことはないの?」

「そうだなあ。隆明さまにも聞かれたけど、特にないかなあ。最後に晶鈴に会えたしさ」

「そう、じゃあまたわたしは旅に出るわ」

「気をつけてな。さよなら」


 二人は遊んだ後、自分の家に帰るように別れた。



 早朝、隙間風の冷たさに目が覚めた絹枝は、慶明が息絶えていることに気付く。


「あなた!」


 もうどんなに呼んでも反応はなかった。慶明は穏やかにほほ笑んでいて、いい夢を見ながら眠っているようだった。


「穏やかに、逝かれたのね……」


 安らいだ表情のおかげで、心痛することは少なかった。それよりも慶明がいつの間にか裸足になっていて、土で汚れていることが不思議だった。

  

118 西国への旅

 現在、軍師省のトップである大軍師には蒼樹の父、郭嘉益が就いており、弟の郭文立は助手となっている。今年度は志望者もおおく、軍師省の試験に合格した者が5名もいた。そのうち2名は郭家の者だ。


「さてどれだけ残るものかな」


 相変わらず教官職である孫公弘は新しく入った、軍師見習いたちを値踏みする。孫公弘は人材教育に力を注いでいるため、役職としては上がることがない。教官を超えて、星羅と蒼樹が軍師の地位に就いている。


「まったくお前たちの年も豊作だったなあ。徐忠正もやめなきゃ俺の後釜の教官にしたんだが」

「確かに、忠正は教官向きだったかもしれない」


 蒼樹は相槌を打つ。


「俺や、忠正みたいなやつがいないと軍師省も偏っちまうからなあ」


 軍師たちは頭脳明晰で策を講じるばかりで、人間性は偏っており独特すぎるため、孫公弘のような人物がいないとまとまりも悪い。彼のような潤滑剤はここでは特に重宝された。


「俺も、星羅も偏ってないですよ」

「自分でまともっていう奴ほど……。まあ、いいや。今度二人で西国に向かってほしい」

「西国に?」

「ああ、華夏国も落ち着いたし、少し産物にも余裕ができた。以前の借りを返すのと、友好を結ぶためにな。西国の王は星羅の兄でもあるし、悪くない話だろう」

「それは喜ぶでしょう」

「そんなに長居はできぬが、行って帰ってくるだけでもお前たちにはいいだろう」

「二人でそんなに長く不在にして大丈夫だろうか」

「心配するな。太極府も今しばらくは大丈夫だと言ってるし、人材も増えたからな」

「それはありがたい」


 ずっと忙しくしてきた夫婦に対して、西国への旅はいわゆる国からの褒美だ。善は急げということで素早く支度をし、西国への贈り物を用意する。華夏国の最新の陶磁器製品と、刺繍のされた絹織物、古酒、細かい細工の玉製品などを取り揃える。


 古代、西国へ道のりは険しく何年もかけてたどり着いていたが、今は道が切り拓かれ、整備され交通の便も良くなったおかげで早馬であればひと月でたどり着く。多くの荷物を携え、ゆっくり行っても三ヵ月ほどで帰ってこられるだろう。

 国内の治安もよく、西国につけば、そこからは西国の兵士たちが出迎えてくれることになっているので、星羅と蒼樹は数名の兵士とともに小さな隊を組んで出発する。


 通りがかりの各県を訪れ、視察もするので仕事と言えば仕事だが、星羅と蒼樹にとって旅行のようだった。華夏国は東西南北にわたり広い国土を持っている。それゆえ同じ民族であっても微妙に風俗が違う。西国に近づくにつれ、言葉も変化する。


 国難の際に、星羅も蒼樹も国内のあちこちを巡ったが、風景や食事など楽しむ余裕はなかった。暴動を抑え、食料を配給し、避難民を整えるばかりだった。


「西国に近づくと料理がだんだん辛くなってきたわね」

「こちらの味に馴染むと都の淡白な味付けが物足りなくなるな」

「郭家は特に薄味ね」

「刺激の強いものは、冷静さを失わせるという家訓だが、今回の冷害ではさすがに鷹の爪を良く食した気がする」

「本場の咖哩が楽しみだわ」


 移り変わる景色を楽しみ、その土地の食べ物を味わった。仕事上での蒼樹の理性的で合理的な考え方や、決断の速さなどを見てきて、彼のことを良く知っていると思っていたが、衣食住に関することでは新たな発見が多かった。


 西国人の朱京湖の料理を食べてきた星羅ですら、苦手だと感じる香草を蒼樹は平気で、むしろ旨いと言って食べる。南方の寝具は薄手で軽いが、蒼樹は寒がりのようで星羅を抱きかかえるように眠る。星羅の体温が高いらしく、心地よいらしい。着物の生地に目ざとく、変わった織物や染め物を見ると手に取ってじっくり眺める。かといって衣装が欲しい訳ではないらしい。長い旅は二人を仕事から離し、お互いを良く知る機会になった。

 

 華夏国の国境を超えると西国の兵士たちが出迎えてくれていた。星羅は西国の地に降り立ち、砂漠地帯を眺める。前回、西国の地を踏んだ時は、夫の陸明樹を取り返そうとした時で、今とは全く逆の感覚だった。緊張し警戒し、鋭い刃になったような心持だった。


 今回は西国の王になった兄に会う。早馬で手紙を出していたところ、国の祝宴では無理だが、うちうちの小さな宴を設けて養父母の彰浩と京湖を呼んでおいてくれるということだった。


「もうじきだな」

「ええ、もうじき」


 砂塵が舞い上がる中、兄が住まう王宮のほうを星羅は目をこらして見つめた。 

 


119 国の違い

 華夏国の国賓として盛大なもてなしを受けた後、星羅と蒼樹は宮殿から少し離れた屋敷へと宿泊のために案内される。屋敷は王宮と違い規模は小さいが、石造り建築の粋を集めたかのような華麗で美しいものだ。最高品質の黒い大理石は、星羅が映るほどよく磨かれている。ひんやりとした空気は、西国の暑い気候を忘れてしまいそうだ。


「明日は本当に楽しみだわ」

「よかったな」


 この屋敷に、朱家が揃うのだ。市民の身分になった朱京湖は、兄の京樹が住まう王宮には出入りできない。例え、京樹の母ということで目をつぶられても、父の朱彰浩は絶対に王宮に入ることは許されない。

 身分至上主義の西国では、どんなに才があっても市民階級は政治に関与することはできないのだ。


「母は、華夏国と違ってこの国の身分制度がとても嫌だと言っていたわ」

「どこで生まれるかで一生が決まってしまうのは、厳しいものがあるな」

「兄は華夏国で育ったから、身分制度に反発があるでしょうね」

「京樹殿、いや、ラカディラージャ様は王なのだから、変革させられないのか」


 星羅も、蒼樹同様に思うが、実際無理のようだ。子どものころに、蒼樹と同じように、星羅も母の京湖に聞いたことがある。良い王様が、華夏国の高祖のように身分をなくせば良いのではないかと。当時の京湖と同じように、ため息交じりで星羅も答える。


「西国では、その階級に生まれることに因果応報があって変えてはいけない、階級をなくすことは自然の法則を無視することになるのですって」

「なるほど。そう言われてしまってはどうしようもないな」

「せめて、低い身分の者でも幸せに暮らせるといいのだけれど」

「そうだな……」


 話に聞いていた身分制度の熾烈さは、星羅と蒼樹が目の当たりにすることはできなかった。西国の恥部ともいえるこの身分制度は、王族や戦士階級にとってはなくてはならないものである反面、他国の者に見せられるものではなかった。

不可触民の住まいは国の一番劣悪な場所で、仕事も人が最も嫌がるだろう汚れ仕事しかなかった。どんなに才能があり、高潔な精神を持とうが一生不可触民の身分から変えられることはなく、自己を実現する機会などない。汚物にまみれ、腐ったものを食べ、自分より上の身分の者に唾される日々を送るのだ。


 京湖に暗殺された、先代の王バダサンプは、不可触民であったことが発覚したのち、その名前をすべての記録から抹消された。数代先の時代には、バダサンプという王がいたことなど全く知られないだろう。


 星羅も蒼樹も、もしもバダサンプが私利私欲に走らず、志や徳が高ければ、泥の中から生まれた英雄として西国を換えることが出来たかもしれないと残念に思った。


「今の華夏国があるのは高祖のおかげね」

「ああ、宦官がいないだけでも随分違う」

「でも晶鈴の母上が言ってた。この王朝もいつかなくなるって」

「例え完成度が高くとも、いつかは古くなり新しいものがやってくるのかもしれぬな」

「蒼樹もなんだか達観してるのね」

「さあ、どうかな」


 二人は飽きることなく意見の交換をしあう。話せば話すほど、星羅は自分の思考が洗練されていくと感じていた。



 朱家の集まりの前に屋敷の侍女たちが着替えをもってやってきた。大きな箱を二つ持ってきて「王様からです」と恭しく差し出す。


「あら、着替えならあるのに。気を使ってくれてるのかしら」


 星羅が遠慮すると「こちらは暑いので西国の衣装をお召しになるのが良いかと」とリーダーらしい侍女は告げる。


「着てみたらどうだ。西国の衣装など普段着ることがないだろう」


 蒼樹はこういう差し出されるものには遠慮をする必要がないと、礼を言い受け取った。


「じゃあ、着替えたらもう会食ね」

「そうだな。ではまた後で」


 二人は着替えるために、それぞれ侍女を伴い別室に入っていった。



120 家族の再会

 ホールの床は黒い大理石が敷き詰められており、壁も白い大理石で色々な動植物が彫り刻まれている。いち早く支度が出来た蒼樹は、石造りの建築を見学し、華夏国にも何か生かせないかとよく観察する。奥の入り口から、すっと星羅が入ってきた。


「あっ」


 蒼樹は星羅の可憐な姿に息をのむ。真っ白な光沢のある衣装は、タイトで彼女の身体のラインをはっきり見せる。いつもまとめ上げている髪は降ろされ、加工されたらしく、波打つ髪型にされている。そしてたくさんの白い生花が飾られている。

 星羅は恥ずかしそうに近づいてきた。


「変じゃないかしら?」


 見入っていた蒼樹は咳払いして「なかなかいい」と答える。


「蒼樹もよく似合うのね」


 襟が詰まったカチッとした光沢のあるブルーグレーの衣装は、蒼樹をより硬質でクールな印象を高める。蒼樹の髪も降ろされ、帯状の布が帽子のように巻き付けられている。

 初めて出会うような新鮮な気持ちが湧き、不思議なときめきを感じたが、感想を言い合う前に彰浩と京湖が到着する。


「星羅!」

「かあさま!」 


 豊かな波打つ髪を乱れるのも気にせず、二人は駆け寄って抱き合った。


「かあさま、かあさま」

「まあまあ! いつまでも甘えん坊なのね!」


 星羅の身体を抱きしめ、髪をなでながら京湖も瞳を潤ませていた。しばらく再会を喜び合い、星羅は彰浩にも抱擁する。


「とうさま、元気そう」


 優しく誠実な笑顔はずっと変わらない彰浩に、星羅はほっと癒される思いがする。


「話したいことがいっぱいあるわ」

「ええ、たくさん聞きたいわ」


 仲睦まじい星羅と京湖の母娘の姿を優しく見守りながら、蒼樹と彰浩は腰掛ける。


「実は――」


 蒼樹が話を切り出すと、彰浩はうんと頷く。彰浩も京湖も、星羅の前夫、陸明樹が亡くなったことを知らなかった。蒼樹の話に、彰浩は悲しげな瞳を見せたが、ちらりと星羅の様子を見てまた笑んだ。


「君がいてくれてよかった。おかげで星羅は辛いことを乗り越えられたようだ」

「いえ、彼女自身が乗り越えたのでしょう」


 直接、励ますことも意見することもしなかったので、蒼樹は謙遜でもなく率直な感想を述べる。彰浩は首を横に振る。


「星羅自身が乗り越えられたと思うのなら、それは君がそばで長い間見守ってくれていたからだよ」

「どうでしょう」

「ありがとう。これからも頼む」


 話し込む前に、今度は京樹もやってきた。控えめな色合いの衣装でやってきた京樹だが頭角を現した彼は、大輪の花のようだ。西国の花と呼ばれた母の京湖の美貌と麗しさを受け継いでいたが、華夏国では開花しなかったようで木陰のような存在だった。今では、堂々として力強い華やかさを持つ。華夏国では星を読む存在だったが、西国の民にとっては彼が日の光そのものなのだ。


「星妹!」

「京樹にいさま」

「今日はゆっくり話せるね」

「ええ」


 華夏国の外交官として星羅と蒼樹はもてなされていたが、お互い遠くの席に離れていて公的な挨拶をするくらいだった。近しい距離で席に着き、まずはお互いの近況を報告する。京樹の夫人の話を聞き、仲の良さに皆安堵する。胡晶鈴に会ったことも話す。

 話していると徐々にリラックスする。辛いこともいっぱいあったが、傷はもう癒えていて、華夏国の家族で暮らしていたころに戻ったような気がした。

 マイペースで他人には関心のなさそうな蒼樹も、ちゃんと朱家に婿として交じり如才なく溶け込んでいる。

 ずっとこんな風に長く過ごしてきて、これからも永遠に一緒に過ごせる気がするようだ。まるで美しい夢を見ているように平和で温かな時間だった。しかしその時間は止まることはない。また別れる時が来るのだ。


「会えてうれしかったわ」

「きっとまたいつか会える時が来るわ」


 離れがたい星羅と京湖はくっ付いてしまうくらい抱き合う。それでも悲しい別れではないので傷つくことはなかった。


 風呂から上がった星羅と蒼樹は屋敷のバルコニーで夜の風に当たる。夜でもカラッとした風は汗ばむ身体をすぐ乾かす。軽やかな衣装は風になびき、爽やかだ。


「西国の衣装は着心地の良いものだな」

「ええ、羽のように軽いのね」

「大丈夫か?」


 寂しそうに見えるのか蒼樹は、星羅に優しい声をかける。


「ありがとう。みんなも元気そうだし、わたしもあなたがいるから」

「そうか」


 蒼樹は星羅の肩を抱きしばらく西国の夜空を見続けた。

 

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